見出し画像

掌編小説 檸檬の栞

 初夏の陽射しが降り注ぐキャンパスは、記憶の中にある風景とはまるで別物だった。

 石井は、真新しいガラス張りの校舎を見上げ、所在なげにネクタイを緩めた。約三十年振りの母校。仕事の資料探しを口実に、かつての学び舎に足を踏み入れたが、迷路のような最新の構内に、自分が「異物」になったような錯覚を覚える。

 しかし、欅並木を抜けた先に現れた図書館だけは、蔦の絡まり方こそ深くなっていたが、当時のままの静謐な佇まいを残していた。

(……まさかな)

 自動ドアが開くと、冷房と共に懐かしい「紙と埃の匂い」が鼻腔をくすぐった。

 学生時代、彼はこの匂いを求めて毎日通っていた。正確には、ここで司書を目指して働いていた先輩、麻生さんに会うために。

 彼女はいつも少しだけ顎を引いて、真剣に書架と向き合っていた。当時、石井は卒論の資料探しに苦労し、彼女に何度も助けてもらった。

 お礼と称して一度だけ誘った駅前の居酒屋。彼女が美味しそうにレモンサワーを飲み、「いつか、ここの正式な司書になりたいの」と笑った顔を、石井は今でも鮮明に思い出せる。

 告白なんて、できるはずがなかった。就職が決まれば、離れ離れになる。そんな青い臆病さが、石井に言葉を飲み込ませた。

「あの、すみません。古い紀要を探しているのですが……」

 カウンターで声をかけると、背を向けていた小柄な女性がゆっくりと振り返った。

 眼鏡の奥の、優しげな目元。まとめられた髪には白いものが混じっているが、石井はその面影に息を呑んだ。

「……石井くん?」

 彼女の声は、記憶よりも少しだけ低く、けれど当時のままの響きで、彼の名を呼んだ。

「麻生……さん。まだ、いらっしゃったんですね」
「ええ。夢が叶って、ずっとここに居座っているの」

 彼女はいたずらっぽく微笑んだ。その表情は、三十年前のあの夜、レモンサワーを飲んでいた時と重なった。



 二人は、利用者の邪魔にならない閲覧室の隅で、少しだけ言葉を交わした。

 彼女はあの後、正式に司書として採用され、今は後進の育成に励んでいること。

 彼は小さな商社で働き、家庭を持ち、今は資料を探しに来るような立場になったこと。

「あの時、卒論を手伝ってもらったお礼……。結局、一回の食事だけで済ませちゃいましたね」

 石井が照れ臭そうに笑うと、麻生さんは窓の外を見つめ、穏やかに言った。

「ううん。あの時間は、私にとっても大切だったわ。石井くんが毎日一生懸命本を読んでいる姿を見て、私も頑張ろうって思えたのよ」

 それは、恋と呼ぶには淡く、けれど友情と呼ぶにはあまりに美しい、青春時代の栞のような記憶。

「……来てよかった」
「私も、会えて嬉しかった」

 用件を済ませた石井は、資料入ったカバンを抱えて図書館を後にした。

 振り返ると、ガラス越しに立ち働く彼女の背中が見えた。彼女はもう、彼を追いかけることはない。彼もまた、この扉を再び叩くことはないだろう。

 それぞれのカレンダーは、もう別の季節を刻んでいる。

 石井は、少しだけ軽くなった足取りで、初夏の眩しい光の中へと踏み出した。ポケットの中のスマホが鳴る。妻からの、夕飯の買い物をお願いするメールだった。

 彼は一度だけ深く息を吸い込むと、今の自分の場所へと帰るため、少しだけ足を速めた。


本文1,334文字



いいなと思ったら応援しよう!

八神 夜宵 記事が「いいな」と思っていただけたら「心付け」よろしくお願いします! 犬や猫などの動物保護活動に使わせていただいております! ¥300でノミダニ忌避薬が1か月分買えます!