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「シェール、そこのドライバー取ってくれる?持ち手が黄色のやつ。」
「はい。」
先開形の圧着端子を押さえながら、杏は手渡されたドライバーでネジを締め込んだ。止まるところまでドライバーを回してから、端子の接触面を確認すると、少し力を加えてもう一度締め込んだ。
「よし…。こんなもんね。」
リモコンの「プレイ」ボタンを押した。数秒の沈黙の後、スピーカーからハイドンの「告別」が流れてくる。
「わぁ!まるで音が違いますね!」
「でしょ?歌声が入ったらもっとわかりやすいわよ。」
杏のオーディオセッティングのこだわりとして、スピーカーは上下逆さまに設置することにしている。スタンドで宙に浮かせることができる大きさならスタンドを使いたいところだが、箱がこの大きさだとそうもいかない。
隣近所への配慮をしなくても良い環境になったので、手に入る一番大きなスピーカーを選んでしまったからだ。
もう少し落ち着いたら、もっと大きなスピーカーを自作するつもりではいるが、今できることは今やっておきたい。
最初のセッティングの時は配線の長さが足りずに好みの配置にすることができなかったが、枇々木が倉庫から余っていた配線を探し出してくれ、理想的な配置にセッティングし直すことができた。
音の膨らみ、立体感のようなものが以前とはまるで違う。壁や天井の反響まで計算し、ソファーで寛いだ時に一番いい音が聞こえるようにしたのだ。
「素敵…。」
シェールはスピリットの例に漏れず、音楽が大好きだった。それだけでなく、光る物や美しい物には何にでも興味を示す。
この数週間でシェールともすっかり打ち解けた。時に姉のようであり、時に妹のような関係性は杏が望んだものだ。シェールは当初戸惑いを感じていたようだが、今ではそれも薄らいで来ていて、お互いがお互いの領分を守りながら、気の置けない友人としての関係を構築できていた。
生活が単調にならないように、服装も毎日変えることに決めていた。今日のテーマはセイラーで、杏は19世紀後半のフランス海軍の制服を、シェールは旧ソ連海軍の制服を着用している。
「告別」が第三楽章のメヌエットに差し掛かった時、警報がなった。
部屋に緊張が走った。
杏はすぐに部屋を後にすると、エレベーターへと向かう。廊下の先からはアシュリーが優雅な足取りで歩いてくるのが見えた。
今日のアシュリーはいつになくゴージャスな服装だった。
「踊りに出掛けようとしてて、ね…。」
その服装を見た杏が呆気に取られているのに気が付いたアシュリーが、ためらいがちにそう言った。
「残念ですね。素敵な服装なのに。」
「そうなのよ。せめて『存在』相手に踊り明かすとしましょ。」
エレベーター内で二人で笑い合った。アシュリーの心理的な余裕が杏にも伝わり、緊張がほぐれたようだ。
中央管理室のコンソール前に珍しい光景が広がっていた。
枇々木がモリガンやヴァハと同時に機器を操作している。
「モリガン、もう一度走査し直してくれ。」
「マスタ。グリッドの指示を。」
「あぁ…そうだな…33Eから45Jまで。大きく取ろう。」
「了解…コンタクトあり。表示します。」
中央の巨大なモニターに朧げな輝点が複数現われ、明滅しながら移動している様子が表示された。
「…おかしい…こんなこと初めてだ…。」
枇々木が握りこぶしを口に当て、考え込んでいる。
「機器の故障ではないのか?」
腕組みをしたジェイが、枇々木の後ろから声を掛けた。
「3回チェックしてみたんだ。どこにも異常はないんだよ…。」
「だが…この表示だと今は裂け目の反応が…7か所に現れてることになっている…。」
「そうなんだ。それに確定反応じゃないし…まるで何かを探してるみたいに移動してる…。」
「天候や地理的条件で反応が出ることは?」
「それはないと言っていい。裂け目の探知には『微小な時差』を利用してる。裂け目が現れる以外に、時間の流れに誤差を招くような変化が自然に生じるわけはないんだ。少なくてもこの星の重力ではね…。」
「よし…。ここで手をこまねいていても仕方ない。ここは枇々木に任せて我々は突入の準備をしておこう…。アシュリー、ここを頼んでいいか?」
「もちろんよジェイ。ところで…ウィルはどこで何をしてるの?」
「ああ、ガレージにいるよ。ネヴァンを偵察に出すための準備をしてもらってる。」
「そういうこと…。」
ドクターが不在の今、ここでのリーダーはウィルということになる。本来ならここにいて指示を出すべき存在なのだが、今は手が離せないようだ。
アシュリーを除いた突入要員が、準備のために中央管理室を出て行ったとほぼ同時に、ウィルから連絡が入った。
「こっちの準備はできた。ネヴァンにはジャンプユニットとドローンを装着させてる。いつでもいけるぞ?」
「状況は見えてるよね?どこに向かわせるべきだろう?」
「…輝点の動きを見ていると、どれも38G辺りに向かっているようだから40I辺りから北西に飛ばしてみるのがいいと思う。」
「……モリガンの予測とほぼ同じだ。…それが最適解かも知れない。」
「よし。じゃあそうしよう。ネヴァンを出すぞ?」
「了解。リンクは確立してある。」
映像に鬱蒼とした山並みが映し出された。場所は黒部ダムから西方に進んだ未開の山奥であり、月明かりだけが頼りとなる。二台のドローンから送られて来る映像にも同じような光景が映し出されていた。
ネヴァンの位置からは全ての輝点が画角に入るはずだったが、視覚的な異常は見当たらない。
「モリガン。ネヴァンの画像にスクリーンの画像を透過して重ねてくれ。ネヴァン、輝点の出ている地点を重点的にスキャン。」
枇々木の指示が即座に実行された。
「確認。7つの地点でナイン・ゼロ・ワンの時差を検出。急速に増大しながら接近中。会合予測地点グリッド38G、ポイント12。」
「よぉし!捕まえた!」
枇々木がパンと膝を打った。
「ナイン・ゼロ・ワンの時差」は0,000000001の時差があることを示していて、これは標準的な裂け目が現れる場合の時差の50万分の1という数値になる。この程度の誤差となると、検出は容易ではない。少なくても静止軌道上から正確な位置を特定するのは非常に困難になる。モニターへの表示がおかしかったのはこのせいだろう。
「よくやったネヴァン。部隊が転送されるまで監視を続けてくれ。」
「コピー。」
そこに装備を整えて戻って来た一行が加わった。地図や現在まで取得されたデータがジェイの腕時計型の端末に送られた。
「よし。では現場に向かおう。ロスタイムまでは…あと8分といったところだな。」
ジェイが時計を確認し、モニターのデータと照合する。
「今日はドクターがいないから、ここにはモリガンとヴァハだけになる。バックアップが手薄になっちゃうけど…。」
枇々木の時間はあと8分ほどで止まってしまう。ネヴァンが現場にいるため、コンソールにはアンドロイド2体だけとなる。ウィルが中央管理室に戻れれば良いのだが、転送事故を防ぐためには装置の前に詰め切ってもらうより他はない。
「仕方がないさ…。転送はウィルに任せるしかないからな。念のため三体のコマンドコードを渡しておいてくれ。ウィルにもな。」
「…わかった。気乗りはしないけどそうするより他ないもんね…。」
枇々木は自分が動けない間に他の人間に自分のアンドロイドを扱われるのに不満があるらしい。人に愛車を貸したくないのと似た気持ちなのか、それともそれ以上の何かがあるのかは分からないが、今はそんなことを言っている場合でもない。
コンソールのキーを何度か叩いて、コマンドの権限がジェイとウィルにも付された。
「じゃ、後は任せるよ。みんな、気を付けてね。」
「あなたにとっては一瞬でしょ?いい子で待っててね。」
アシュリーがウィンクとともに枇々木に投げキッスをした。枇々木はそれを空中で叩き落す仕草を見せてニヤリと笑った。
「失礼ね!お安くないのよ!」
アシュリーもおどけて怒ったフリをする。
ジェイを先頭に、一行はガレージへと向かった。無言で歩きながら、杏はここまでのやり取りに不吉な何かを感じていた。
転送で現地へ到着すると、上空にネヴァンの姿が見えた。肩口から見えるウイングユニットが、まるで天使の羽のようだ。
30m程先の木々の間に、裂け目が具現化しつつある。前回とは違い、ライトブルーの楕円形で、夜陰に浮かぶアクアマリンのように見える。その内包する物とはかけ離れた美しさがあった。
「あと2分少々だ。今回は桐野、ソンヒィ、杏の順で中へ。…杏、それで大丈夫か?」
「はい…大丈夫です。」
「杏…ソンヒィ…後ろ…隠れる…。」
「大丈夫よソンヒィ。訓練の成果を見せるわ。」
「おぉ!こりゃ見ものごわすな!ま、無理だけはせんように。いつも通りに動ければなんちゅこともなか。」
「えぇ…。」
裂け目は徐々に大きさを増し、同時に中心部の色が濃くなってきた。裂け目に近付いた時の違和感は、周辺の時差が大きくなっているからだろう。前回はそんな余裕はなかったが、二度目の今回は冷静にそうした違和感に気が付けるようになっていた。
「カウントダウン! 5…4…」
ジェイの号令に二振りの短刀を抜刀した。桐野も刀を肩に担いだ。
「0!」
「いきもすぞー!」
桐野、ソンヒィに続いて裂け目に突入する。ほぼ同時に突入したのに、桐野はもう50mは先を行っている。
今回の異相空間はその風景も一変していた。前回は映画で見る火星の環境をもっとグロテスクにした感じだったが、今回は青一色の世界だった。天地の境目がわからず、遠近感が狂う。
「存在」は、青だらけの丘の頂上にいた。
その姿は、ガラスケースに飾られた観音像のように見える。色だけが濃淡のある青色であることを除けば、ポーズまでよくある観音立像のようだ。
「『カタシロ』だ!気を付けろ!」
後方からジェイの叫び声が聞こえた。
「カタシロ」は、様々な姿を取る「存在」の中でも、人を象る強敵のことを指す。人間への害意がより具現化したために人の形を成しているのだと言われていた。
「存在」の中でも稀有な部類で、スクワッドでも経験の長いシェールやアシュリーでさえもまだ数えられるほどしか出会ったことがないと聞く。ジェイは過去に一度だけ遭遇した経験があり、死力を尽くしてようやく倒し切ったものの、こちらの損害もかなりのものだったと振り返った。
「死闘って言うのは、まさにああいうことを言うんだろうな…。」
その時は異相空間に70時間ほどいたらしい。なんとか無事に戻っては来たものの、魂の穢れを浄化できないままに狂った隊員もいたそうだ。
「ちぇすとーっ!!」
桐野が突進しながら渾身の斬撃を繰り出したが、まばゆい光と共にガラスケースに弾かれ、大きくのけ反った。桐野が信じられないと言わんばかりに手にした刀を見る。
ズズッ…。
「存在」は隙を見せた桐野に反撃することもなく、丘を数メートル下る。
今度は右からソンヒィが、手にしたダガーナイフを腹の前に構え、身体ごとぶち当たるようにして突き立てた。
また閃光が走り、ソンヒィの身体が空中高く舞い上げられ、杏の頭上を越した地面に叩き落ちる。
ズズッ…。
また一歩、丘を下る。ガラスケースには傷一つ付いていない。
今度は杏の番だった。「存在」の後ろで構えを取り直した桐野と呼吸を合わせ、前後から挟み込むように同時に斬撃を見舞ったが、結果は同じく、閃光が走ったかと思うと攻撃が弾かれた。
恐ろしく固い。杏の左手の手首が力なくぶらんと垂れ下がっていた。どうやら骨が折れたらしい。
「下がれっ!」
ジェイの声に、杏は反射的に後方に飛んでジェイの脇に立った。同時にジェイのライフルから放たれた50口径の弾丸が次々と「存在」突き刺さる…はずだった。
カメラのフラッシュのような閃光が次々と起こり「存在」が今までにない距離を進んできた。
「こっ…攻撃が…効かないっ!?」
そこに桐野とソンヒィが合流した。「存在」は微動だにしない。攻撃するでもなく、むやみに裂け目に向かうでもなく、ただじっとそこにいた。
「おちょくっとるのか!」
桐野がさらに斬りかかろうとするのをジェイが止める。
「待て…。」
静寂に包まれた異相空間に、足元から細かな震動が伝わって来る。杏はそれに気が付くと、いつでも飛べるように身構えた。
ドーンという音と共に、地面からアシュリーの右手が現れた。裂け目の傍からここまで腕を伸ばしたらしい。右手は大きな網状に広がると、ガラスケースごと「存在」を鷲掴みにした。
「よし!正面の一点突破だ!弾かれても攻撃の手を緩めるな!」
ジェイが胸の前に吊っていた禍々しいダブルバレル仕様のM79を差し上げると、二発同時に榴弾を発射した。二発ともガラスケースに当たり、轟音と共に爆発した。また閃光が走ったが、それに臆することなくソンヒィと杏が突っ込んで攻撃を仕掛ける。
だが、結果は変わらず、また閃光が起きて弾かれた。桐野の攻撃に備えて左に身体をずらした時にチラリと攻撃した部分を見たが、まったくダメージが通っていないようだ。
「なっちょらん、なっちょらん!」
桐野は正面に仁王立ちになると、薩摩示現流得意の立木撃ちよろしく、閃光も意に介さない連撃を繰り出した。
攻撃は続いていたが、先に根を上げたのはアシュリーの方だった。
「だ、だめ!これ以上は抑えきれないっ!」
「存在」のいる位置の地面が抉れていた。前進しようとする力が、今にもアシュリーの手を引きちぎって飛び出そうとしているかのようだ。
「キリィノ!ストップだ!」
事態に気が付いたジェイの叫び声とアシュリーの悲鳴が同時に起きた。
「存在」はアシュリーの右手を引きちぎり、裂け目に向かって大きく跳躍した。
着地した地点は、裂け目まで数mの距離だった。
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了。
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