短編小説 プールサイドの不憫男子、ポロリで天国モード
「頼む、これだけは脱げないでくれ……!」
真夏の太陽が容赦なく照りつけるラグーンプール・ナラクシア。二十八歳、独身、会社員の僕、告史(つぐふみ)は、更衣室の鏡の前で己の「運命の紐」を、千切れるほどの力で固く結び直していた。
今日の僕は、一大決戦の舞台に立っている。職場の憧れの先輩であり、最近いい雰囲気になっている気がしなくもない梨華(りか)さんから、昨日突然に
「明日、プールでも行きません?」
と誘われたのだ。
断る選択肢などあるはずがない。僕は二つ返事で快諾した。しかし、そこからがパニックだった。まともな水着を持っていないことに気づき、昨晩遅くにドン・キホーテへ滑り込んだものの、焦りすぎてサイズを完全に間違えた。僕のウエストはMサイズなのに、買ったのはXLサイズ。
きれいに折り畳まれていた上に、メーカー名が「Ms」なんて、紛らわしいにも程がある。おまけに海外製で、外人サイズのXLだった。帰宅して広げてみると、まるで暖簾だ。
ちなみに、アパートのキッチンと部屋を隔てる通路に掛けるには、ピッタリのサイズだった。
今、僕の腰回りは、ガバガバなんてレベルではない。紐を限界まで引き絞っても、布地が余ってウエスト部分がクシャクシャに波打っている。少しでも激しく動けば、重力に従って一瞬で足元までずり落ちそうな、極限のルーズ状態である。
「大丈夫だ。結び目は本結びの上に固結びを重ねた。紐さえホールドしていれば、どれだけ水着がデカかろうが、僕の尊厳は守られる……!」
僕は両手で水着のずり落ちを必死に抑えながら、決戦の地へと足を踏み出した。
「告史くーん! こっちこっち!」
プールサイドに出ると、白を基調とした少し大人っぽいワンピースの水着を着た梨華さんが手を振っていた。抜群のスタイルに心臓が跳ね上がる。
「お待たせしました、梨華さん。水着、似合ってますね」
「ふふ、ありがとう。……告史くんも、今日はメガネじゃないんだ」
「コンタクトにしました! プールなんで!」
「……いいじゃん、会社でもコンタクトにしたら……?……って、足、どうかした?」
腰の紐が緩むのを防ぐため、すり足気味になっていることに気付かれた。梨華さんは不思議そうな顔をしながら、僕の足元に視線を落とした。
「あ、告史くんって、意外とワイルドなんだね?」
「えっ?」
「ほら、すね毛。最近の若い男の子ってツルツルな子が多いから、なんか……男らしいっていうか、ジャングルっていうか……新鮮!」
「あ……」
慌てて自分の脚を見る。急なお誘いだったため、すね毛の処理など1ミリも頭になかった。
僕の濃いめのすね毛たちが、XLサイズのダボついた水着の裾から覗き、真夏の太陽を浴びて黒々と輝いている。梨華さんは優しさで「ワイルド」と言ってくれたが、その口元がわずかにひきつって見えた。
「あはは! そうなんです、僕、ナチュラリストでして!」
「そ、そうなんだ……あ、ほら! 混む前にあのスライダー乗ろう!」
梨華さんはそう言うと、僕の腕を掴んで走り出した。すね毛の恥ずかしさと、走る振動で確実に下へと引っ張られる巨大水着の恐怖。正直に言うが、密着した梨華さんの柔らかさを楽しむ暇すらなかった。
たどり着いたのは、このプールの名物『ウルトラ・ジャイアント・スライダー』。最高時速五十キロで急降下し、最後は凄まじい水圧と共にプールへ叩きつけられる、水着殺しの異名を持つアトラクションだ。
「はーい、じゃあお兄さんどうぞ。寝そべって、胸の前で手をクロスして!」
すでに黄色い悲鳴とともに華麗に飛び出した梨華さんに続いて、僕がスタート地点に仰向けになる。
「あ、あの……手は胸でクロスしないとダメですかね?」
「ダメダメ! そういう決まりだからね!」
どう見ても大学生くらいのアルバイト係員は、すべてを知りながらそう言っているに違いない。その目が、とても意地悪に見えた。こうなったら仕方がない。僕は覚悟を決めた。
「いきまーす!」
係員の手が僕の背中を押した。次の瞬間、視界が猛スピードで反転した。
「うお、おおおおおおおおお!?」
凄まじいGが全身を襲う。最後にして最大の難所、ほぼ垂直に近い「地獄の直滑降」に突入した。
ズシャアアアアアアアアン!!!
激しい衝撃と共に着水プールへ突っ込む。あまりの水圧に、ガバガバの水着の中に大量の水が一気に流れ込み、パラシュートのように膨らんだ。強烈な負荷が腰にかかる。しかし、僕は必死に耐えた!
手で触れると、巨大水着は……奇跡的にまだそこにある!
紐も解けていない!
(勝った……! 僕は水圧に耐えたんだ!)
プハッと水面に顔を出した僕は、勝利の確信に満ち溢れていた。プールの中央で、梨華さんが心配そうにこちらを見ている。
「告史くん! 大丈夫だった!?」
「ええ、大丈夫です! 最高ですね、これ!」
僕は男らしくワイルドに立ち上がり、梨華さんに格好いいところを見せるため、爽やかな笑顔を崩さないようにステップを踏み出す。
その時だった。
「あれ……? 告史くん、あの……それ……」
梨華さんが、なぜか顔を真っ赤にして、僕の「顔の上」あたりを指差した。周囲の客たちも一斉に僕を見てクスクスと笑い始めている。
(なぜだ? 水着はちゃんとはいている。下半身は無事なはずだ。すね毛が水流で全部逆立ったか!?)
焦った僕が、自分の下半身に目を落とした、その時。視界に、強烈な「違和感」を覚えた。
いつもならうっすらと見えているはずの「黒い影」が、綺麗さっぱり消え失せているのだ。
僕は戦慄しながら、自分の額に手を伸ばした。指先が触れたのは、濡れた自分の皮膚だけだった。
「あ……」
すべてを理解した。あの凄まじい着水衝撃の瞬間、僕の頭からポロリと脱落していたのは、下半身の水着ではなかった。
「ボロリ」にばかり気を取られ、この「ポロリ」には気が回らなかった。
お値段三十五万円、フル・カスタム・オーダーメイドの高級部分ウィッグ(前髪〜頭頂部用)の性能を過信していたせいでもある。
「あ、あ、あああ……」
僕の前頭部は、真夏の太陽の光を一点に集め、遮るものなき大地として、眩いばかりの輝きを放っていた。普段、緻密なヘアセットで隠蔽されていた僕の「秘密」が、今、完全に白日の下に晒されたのだ。
水を吸ってずっしりと重くなり、今にも脱げそうなキングサイズの水着。 手入れを忘れてワイルドに茂るすね毛。気が付けばコンタクトまで失い、ぼやけてしまった世界。
そして、完全にポロリしてしまった、僕のトップシークレット。
情報量が多すぎる僕の姿に、梨華さんは真っ赤な顔のまま、ついに耐えきれず吹き出した。
「ぷ、ぷふっ……あはははは! ごめん、告史くん! 色々、色々すごすぎる! あっ、髪の毛、沈んじゃうよっ……!」
僕は、すっかり視界がぼやけてしまった世界の中で、熱く火照る前頭部を優しく手のひらで包み込みながら、神妙な声で言った。
「あれ、僕のソウル(魂)なんです。ちょっとサルベージしてきていいですか?」
「うん……待ってる、から……ぶふっ、あはははは!」
こうして僕の決戦は、誰も予想しなかったベクトルの「ポロリ」と、準備不足のトリプルコンボによって、大爆笑のうちに幕を閉じた。
幸いなことに、この事件をきっかけに梨華さんとは「何でも隠さず話せる爆笑の絶えない関係」になり、後日、正式に付き合うことになるのだが――それはまた、別の機会にお話ししよう。
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