短編小説 冷蔵庫
一日の終わり、私には必ず決まったルーティンがある。
会社を出る前にスマートフォンで近所のスーパーの特売情報を確認し、いつもの帰り道を辿ってその店に立ち寄る。
夕食代わりの惣菜を一つと、翌朝のための食パンかヨーグルト、それから切らしそうな調味料や牛乳。そして最後に、風呂上がりに喉を鳴らすための缶ビールを一本。
一人暮らしの私の冷蔵庫は、いつも整然としていた。
ドアポケット上段にビール、左側には乳製品。中段にはその日の惣菜を置き、野菜室には週末にまとめ買いした最低限の生鮮食品。
決して几帳面な性格というわけではない。ただ、自分がどこに何を置いたかくらいは、わざわざ意識しなくても身体が覚えている、というだけのことだった。
その夜も、いつも通りシャワーを浴び、火照った身体のまま冷蔵庫の扉を開けた。ドアポケットの定位置にあるはずの缶ビールが、なぜか上下逆さまに自立していた。
思わず、伸ばしかけた手を止める。
私は缶ビールを逆さに置かない。開けるときに水滴が垂れるのが嫌だからだ。
「……疲れてるのかな」
自嘲気味に呟きながら缶を持ち上げ、その夜はそれで思考を打ち切った。
奇妙なズレは翌日以降も続いた。
今度はバターとクリームチーズの位置が左右逆に入れ替わっていた。
さらにその翌日には、ドアポケット最上段に並べてあった卵が、奥から詰めた形で入っていた。私は「手前から奥に」卵を置くはずなのに。
どれも実害のない、些細な変化だ。誰かが部屋を荒らしたというほどの形跡はない。ただ、「自分なら絶対にこうは置かない」という歪な配置に、中身が置き換わっているのだ。
連日の残業による疲れのせいで、帰宅直後の記憶が曖昧になっているのだろうか。私はそう自分に言い聞かせ、無理やり納得させようとした。
だが、一週間が過ぎる頃には、もはや笑って済ませられる状況ではなくなっていた。仕事から帰って、確かに中段へ収納したはずの惣菜が、シャワーを浴びて戻ってくると、なぜか最下段の奥へ移っている。
飲み残してキャップを閉めたはずのスポーツドリンクが、翌日にはなくなっている。
未開封で、まだ紙箱からも出していなかったはずのマーガリンが、なぜか半分も減った状態になっている。
記憶違いでは済まない変化だった。
(誰かが、私の部屋に入っている)
背筋に冷たいものが走り、私はすぐに動いた。防犯対策として、玄関、窓、ベランダに向けて動体検知機能付きのネットワークカメラを設置したのだ。
しかし、一週間が経過しても、スマホに異常を知らせる通知が来ることはなかった。念のために十六倍速で録画を確認しても、画面に映っているのは私自身の姿だけだった。管理会社にも連絡して、スマートロックの入退室履歴を照会してもらったが、不審な合鍵の使用形跡は一切ないという。
他人が入った形跡がない以上、次に疑うべきは自分の記憶と精神だった。
もしも私が、泥のように酔った勢いで深夜に冷蔵庫を開け、無意識のうちに中身を動かしているのだとしたら。
それを確かめるため、私は冷蔵庫を開けるたびに、内部をスマートフォンのカメラで撮影することにした。撮影を終えたら、その日はもう二度と冷蔵庫を開けない。そうして、翌朝の現実の配置と、前夜の写真を照らし合わせるのだ。
最初の三日間は、何も起きなかった。
写真の中の配置と、朝一番に開けた冷蔵庫の中身は完全に一致していた。
やはり自分の悪癖だったのかもしれない。
そう、安心しかけた四日目の朝だった。
スマートフォンの画面に表示された昨夜の写真では、ビールはドアポケットの右端に置かれている。そして眼前の現実の冷蔵庫でも、ビールは同じ右端にある。
ほっとしてスマホを閉じようとした、その瞬間だった。
スマートフォンの液晶が、まるで処理落ちしたかのように一瞬だけ黒く暗転した。バグを疑いながら再び表示された写真に目を落とした私は、息を呑んだ。
画面の中のビールが、いつの間にか「左端」へと移動している。
慌てて目の前の現実を見る。しかし、実際のビールは右端のままだ。
現実ではなく、写真のデータだけが書き換わっている。
心臓の鼓動が跳ね上がるのを感じながら、私は確認のためにもう一枚、現在の冷蔵庫内を撮影した。今度は現実と同じ右端に写っている。
やはり最初の写真のデータがおかしかったのだ。スマートフォンの不具合か、あるいは奇妙な光の悪戯だと思いたかった。
だが、削除しようとして最初の一枚をピンチアウトで拡大した瞬間、私は総毛立った。
半透明のプラスチックでできた野菜室の引き出しに、誰かの影が反射して映り込んでいる。形まではわからないが、服の色味が、私が着ているそれとは、全然違う。
悲鳴を噛み殺し、勢いよく野菜室を引き出す。
しかし、当然ながら中には冷えた野菜があるだけで、誰もいない。慌てて撮った二枚目以降の写真にも、そんな影はどこにも映り込んでいなかった。
私はその足で精神科を受診した。医師は私の酷い睡眠不足と過度のストレスを指摘し、「深刻な疲労による一過性の幻覚でしょう」と診断した。
私は会社に頼んでまとまった休みを取り、処方された薬を飲み、十分な睡眠をとった。酒も完全に断った。
それでも、冷蔵庫の異変だけは終わりを告げなかった。
買った覚えのないメーカーのヨーグルトが一つ増え、翌日には跡形もなく消えている。
開けた記憶のないもらい物のジャムが、ほんの少しだけ減っている。
数日前に賞味期限切れでゴミ箱に捨てたはずの豆腐が、なぜか元の棚に戻っている。
もう限界だった。冷蔵庫そのものに、何か異常があるに違いない。
私は家電量販店へ走り、最新の冷蔵庫を注文した。
数日後、配送業者の手によって古い冷蔵庫が運び出され、真新しい冷蔵庫がキッチンに据え付けられた。業者が去った後、私はようやく長い悪夢から解放されたのだと、深く安堵の息を漏らした。
その日の夜。私は久しぶりにいつものスーパーへ行き、ささやかな祝杯のつもりで、缶ビールを一本だけ買った。
帰宅し、まだ新品の匂いが残る空っぽの冷蔵庫のど真ん中にそれを置いた。シャワーを浴び、丁寧に髪を乾かしてから、私は期待を込めて新しい扉を開けた。
ビールは、ドアポケットへ移っていた。
目の前が暗転しそうなほどの絶望が押し寄せる。新品に買い替えても同じなのだ。異常があるのは冷蔵庫ではない。
この空間か、あるいは――。
震える手でビール缶を取ろうとしたとき、庫内の側面に、水色の養生テープが、斜めに貼られたままだったことに気が付いた。
何気なくテープの端に指を掛ける。テープは簡単に剥がれ、裏から一枚の紙片が落ちた。
それは、レシートだった。
私がいつも利用している、あの近所のスーパーのレシート。
しかし印字されている日付を見た瞬間、息が止まった。そこに刻まれていたのは、二週間も「未来」の日付だった。
クレジットカード決済の欄には、間違いなく私の名前がある。品目のリストが、整然と並んでいた。

血の気が引いていく。恐る恐るレシートを裏返すと、そこには見覚えのある、しかし酷く手の震えた走り書きが残されていた。紛れもない、私自身の筆跡だった。
『配置を変えれば気付くと思った。でも毎日、帰ってくる"あなた"が違う』
その瞬間、背後の静寂を切り裂いて、玄関ドアの鍵がガチャリと回る音がした。
買い物袋の擦れる音。
ヒールを脱ぐ音。
スーパーのレジ袋が床へ置かれる音。
そして、玄関の向こうから……
「……あれ?」
私自身の声が聞こえた。
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