短編小説 「猫侍」
天正十六年。奥州は未曾有の戦火に包まれようとしていた。
伊達の独眼竜こと政宗が、蘆名・相馬連合軍と覇権を賭けて激突した「郡山合戦」である。
そんな血生臭い時代にあって、伊達軍の重臣、片倉小十郎景綱の陣には、あまりにも場違いな一人の侍がいた。
名は稲子新八郎。
政宗の曾祖父、稙宗の頃から伊達家に仕えた家柄の出である。
だが、武士としての評判は地を這うどころか、もはや人々の嘲笑の対象であった。
「……そうかそうか、ささ。今日の日向ぼっこは最高だったか」
新八郎の住まう古びた屋敷からは、夜な夜な独り言が漏れてくる。新八郎は、酒も飲まず、女遊びもせず、ただ一匹の三毛猫「ささ」を膝に乗せ、蕩けるような顔で語りかけていた。
「おい、新八郎の旦那。また『嫁御』とお話し中のようだ」
通りがかった村人たちが、生垣の隙間からその様子を覗き見、肩をすくめて笑う。
「侍のくせに、刀を研ぐより猫の毛を梳く時間の方が長いときた。あんなのが戦場(いくさば)で役に立つもんかね」
「気味が悪いね、いい年して猫を相手に……」
平時の城務めでも、新八郎の扱いは酷いものだった。
「おい新八郎! 今日もその薄汚れた三毛猫を連れてきたのか。貴様、そのうち猫を背負って合戦に出るつもりか?」
同僚の武士、上坂大二郎が、腰の刀を鳴らしながら嘲笑した。
「上坂殿、ささは薄汚れてなどおりませぬ。今朝も私が丁寧に毛を整えましたゆえ。それに、ささは私の家族。片時も離れるわけには参りませぬ」
「はっ! 家族だと? 笑わせるな。六十石も頂戴しながら、嫁も取らずに猫を『嫁だ』と言い張る貴様の気が知れん。片倉の殿様も、よくぞこんな変人を置いておくものだ」
周囲の武士たちがドッと沸く。
「新八郎、猫に首を舐められて戦に勝てるなら、我らも猫を飼うぞ!」
「それはよい!いっそ稲子家の家紋は、『猫の足跡』にしたらどうだ!」
新八郎はこうした罵詈雑言を柳に風と受け流していた。
彼にとって、自分を嘲笑う同僚の言葉よりも、ささが甘えて鳴く「なぉん」という一声の方が、よほど価値があったのである。
だが、ついにその「異常さ」が、殿様である片倉景綱の逆鱗に触れる日が来た。
郡山合戦の前線基地となった陣内。
出陣の儀が行われる厳粛な場に、新八郎はいつもの通り、甲冑の懐に「ささ」を押し込んで現れたのである。 兜の隙間から、ささの丸い耳がぴょこりと覗いている。
「稲子新八郎……。貴様、正気か」
奥の座から、景綱の低く、地を這うような声が響いた。
陣内は一瞬にして静まり返る。
「……はっ。稲子新八郎、参陣いたしました」
「その懐におるのは何だ」
「ささにございます。この戦、長引くと聞き及び、独りで留守番をさせるのが忍びなく……」
景綱の手が、手にした指揮棒代わりの馬鞭を折った。
「ふざけるなッ! ここは遊び場ではない、死地であるぞ! 敵の血を吸うべき場所に、猫の抜け毛を持ち込むとは、伊達家の武門の恥晒しめ!」
景綱は腰の愛刀・岩見匡守を引き抜き、新八郎の鼻先に突きつけた。
「今すぐここでその畜生を斬り捨てろ。さもなくば軍規に従い、貴様を打ち首にする。はや、選べぃ!」
周囲の武士たちは「それ見たことか」という顔で冷笑を浮かべている。上坂などは「猫と一緒に死ねて本望だろう」と小声で毒づいた。
新八郎は、ゆっくりと懐からささを取り出した。ささは主人の緊張を察したのか、小さく「みゃう」と鳴いた。新八郎はその頭を一度だけ優しく撫で、ささを地面にそっと下ろした。
そして。
新八郎は景綱の前に深々と平伏し、自らの項(うなじ)を差し出した。
「……殿。ささを殺めるくらいならば、私の命をお取りください。その代わり、私が果てた後は、この子を野に放してやってはいただけませぬか」「……何だと?」
景綱の眉が跳ね上がった。
「本気か、新八郎。猫一匹のために、武士の命を、家名を捨てるというのか」
「ささは、私にとってただの獣ではございませぬ。両親を亡くし、孤独であった私に寄り添ってくれた唯一の魂。この子を裏切るくらいなら、武士など辞めて地獄へ参ります」
景綱は言葉を失った。勇猛果断な軍師として知られる彼だが、新八郎の瞳に宿る、狂気とも呼べるほどの「純粋な執念」に圧倒されたのである。命を惜しまぬ武士は数多いるが、これほどまでに呆れた理由で命を投げ出す男は初めてだった。
景綱は刀を鞘に収め、溜息を吐いた。
「……狂っておる。救いようのないたわけだ。だが、死を恐れぬその根性、戦で活かしてみせよ。猫共々、地獄までついて参れ!」
「……ははっ! ありがたき幸せ!」
新八郎は再びささを懐に入れ、周囲の嘲笑を余所に、凛とした表情で立ち上がった。
合戦は熾烈を極めた。 伊達軍と連合軍は郡山を挟んで対峙し、睨み合いが続く。景綱は、本隊を率いる伊達政宗と密かに連絡を取り、霧に乗じて敵の側面を衝く「同時奇襲」の策を練った。 成功すれば一気に勝敗が決する。だが、失敗すれば数で劣る片倉隊は全滅を免れない。
運命の日。
奥州の空は厚い鉛色の雲に覆われた。追い打ちをかけるように、足元も見えぬほどの濃霧が立ち込める。
「くそっ、これでは時間がわからぬ……!」
景綱は焦燥に駆られていた。太陽は隠れ、周囲は夜のように暗い。水砂時計は揺れる馬の上で狂い、それぞれ違う刻を指していた。
本体と摺り合わせた時刻は「午四つ」であったが、肝心のその時がわからない。
「霧が深すぎて合図の狼煙も見えん。……誰か、時を計る術を知る者はおらぬか!」
軍議の席は沈黙に支配された。熟練の斥候も黒脛巾組の者たちも、この暗闇と霧の前には、完全にお手上げだった。
その時。
末席から、静かだがよく通る声がした。
「……殿! 今がその時、午四つ刻にございます!」
新八郎だった。彼は膝の上にささを乗せ、その瞳をじっと覗き込んでいた。
「新八郎、何を根拠に申す。まさか勘ではあるまいな?」
「いえ、ささの目にございます。猫の瞳は、天の運行に従い、刻一刻と形を変えまする」
新八郎はささを抱き上げ、景綱にその顔を向けた。
「ご覧ください。ささの瞳は今、一筋の細き線となっております。これこそ、太陽が真上にある証。今こそ打って出るべき時です」
軍幕内が騒然となった。
「猫の目だと? 馬鹿馬鹿しい!」
「そんな不確かなもので、我ら数千の命を懸けろというのか!」
しかし、新八郎は一切動じず、景綱を真っ直ぐに見据えた。
「もし時刻が外れていれば、私とささの首を、この場で跳ねていただいて構いませぬ。ささの目は、一度たりとも嘘を吐いたことはございませぬ」
景綱は、新八郎の揺るぎない確信に満ちた顔と、黄金色に輝く猫の細い瞳を交互に見た。
合理を重んじる軍師としての直感が、この「異様」に賭けろと告げていた。
「……全軍、稲子の言葉に従え! 突撃準備ッ!」
「かかれっ! かかれぃッ!」
景綱の号令と共に、片倉隊が霧の海へ飛び込んだ。
驚くべきことに、彼らが敵の横腹に激突したその瞬間、反対側からも伊達本隊の咆哮が響き渡った。
一分の狂いもない、完璧な同時奇襲。
霧に巻かれていた連合軍は、十字方向から同時に襲いかかる伊達の猛攻に恐慌を来たし、蜘蛛の子を散らすように敗走していった。
大勝利であった。
戦後、本陣に戻った景綱は、真っ先に新八郎を呼び出した。
「新八郎。貴様の言う通りであった。御館様も『神がかりであった』と驚いておられたぞ」
景綱は豪快に笑い、その場で新八郎に百石の加増を申し渡した。
そして、その懐にいるささにも上機嫌の視線を向けた。
「この毛むくじゃらの軍師殿にも、何か褒美を取らせねばな!」
こうしてささは帰還したのち、極上の鰹節とちりめん一反を、片倉景綱その人から拝領することになるのである。
その日から新八郎を笑う者はいなくなった。村人たちも「新八郎様は福猫をお連れだ」と掌を返して敬い、同僚の武士たちも、新八郎の猫を見る目が変わった。
月日は流れ、ささは十六年の歳月を新八郎と共に駆け抜け、静かに天国へと旅立った。新八郎の悲しみは深く、食事も喉を通らぬほどであったが、その死を共に悼んだのは、他ならぬ片倉景綱であった。
「ささは単なる猫ではない。伊達の家を守った功臣よ」
その言葉に嘘はない。もしも郡山に利を失っていれば、伊達家の存続そのものが危ぶまれたことであろう。そして戦いの趨勢は、まさに「ささの瞳」によって決したのである。
景綱は自ら丸森の地を選び、そこに小さな社を建てさせた。
ささの魂を祀り、末永くその功績を讃えるための神社である。
「笹子(ささご)神社」 と名付けられた社の前で、新八郎は静かに手を合わせた。
「ささ……。お前のおかげで、儂は一人ではなかった。お前のおかげで、儂は武士として生きられたのだ」
新八郎はその後、猫を一匹も飼わなかった。
だが、陽だまりに座り、誰もいない空間に語りかける癖だけは、死ぬまで直らなかったという。
社には、いつからか多くの猫が居着くようになった。
それは、ささが寂しがりやの主人を心配して遣わした、新しい「相棒」だったのかもしれない。
奥州の厳しい冬と江戸期を越えた笹子神社は、明治期の神社合祀により廃され、田の中にこんもりとした小山を残すのみとなっていたが、平成の世になり、新道路建設のためその小山も崩された。
社も山も、今は形を留めないものの、陽だまりを渡る風が吹く日には、どこからともなく猫が喉を鳴らす音が聞こえ、主従の魂が、今も変わらずこの地に寄り添い、微睡んでいることを人々に伝えている。
いいなと思ったら応援しよう!
記事が「いいな」と思っていただけたら「心付け」よろしくお願いします!
犬や猫などの動物保護活動に使わせていただいております!
¥300でノミダニ忌避薬が1か月分買えます!
