短編小説 造花の花束
「君の嘘は、いつか必ず君を不幸にするよ」
高校時代、西日に染まる教室で投げつけられたその言葉を、今の私は静かに反芻している。
まったく、その通りだった。呪いのようなその予言は、年月を経て、じわじわと私の現実を侵食し、証明されつつある。
私の名前は相沢誠。幼い頃から、言葉の裏に別の意味を滑り込ませることが得意だった。
ただし、それは私利私欲のために人を欺くためではない。誰かの張り詰めた心がほんの少しでも緩むなら、誰かが明日を向いて笑えるなら、私はいくらでも自分の言葉を偽ることができた。……いや、そう自分を正当化しなければ、他人の人生に無責任に首を突っ込む自分の歪さに耐えられなかっただけなのかもしれない。
たとえば、泥沼の失恋を喫して夜の居酒屋で涙を流す友人がいた。
「彼女、最後までお前のこと、男らしくて潔いって褒めてたぞ」
ジョッキの結露を指でなぞりながら、私は事もなげに言った。
本当は違う。彼女が別れ際に吐き捨てたのは、友人に対する辛辣な不満の羅列だった。
けれど、すでにずたずたに傷ついている人間に、追い打ちをかけるような真実を差し出す意味がどこにあるのだろう。友人は赤く腫らした目で、弱々しく笑った。
「そっか。なら、少し救われるな」
その笑顔を見て、私は「いいことをした」と満足した。胸の奥が少しだけ、ぬるい泥に浸かったように重くなったけれど、見ないふりをした。
また別の日には、仕事で致命的な大失敗をやらかした気弱な後輩がいた。
「部長、めちゃくちゃ怒ってましたよね……。僕、もうダメかもしれません」
青ざめて震える彼に、私は穏やかに首を振ってみせた。
「いや、あれは期待の裏返しだよ。お前なら乗り越えられると思っているから、あえて厳しく言ったんだ」
本当の部長は、ただただ呆れ果てて匙を投げていた。
しかし、私の言葉を信じた後輩は、翌日から見違えるような必死さで仕事に打ち込み始めた。数年後、社内のエースへと成長した彼は、眩しいほどの笑顔で私に頭を下げた。
「あのとき、先輩が言ってくれた言葉が僕の支えでした」
私は引き攣る頬を必死に抑え、笑い返すしかなかった。なぜなら、彼の躍進の原動力となった美しい記憶は、私がでっち上げた張り子の虎に過ぎないのだから。私は彼の成長を喜びながらも、同時に、彼が真実を知ったときに私に向けるであろう軽蔑を想像して、いつも人知れず怯えていた。
私の嘘は、いつも誰かの心を守るための盾だった。だが、盾の裏側には相応の代償が回ってきている。
誰かを救うためについた嘘は、事情を知らない別の誰かの目には、ただの「不誠実な裏切り」と映る。
事実、私の周囲にはいつしか、私を忌避する霧のような空気が漂うようになっていた。
「あいつは調子がいいだけで、信用できない」
「あの人、立場によって話がコロコロ変わるよね」
反論しようと思えば、いくらでもできた。
真実を白日の下に晒せば、私の潔白は証明されただろう。
けれどそれは、せっかく救われた彼らの心を再び切り裂くことを意味する。だから私は口を噤んだ。自分がついた嘘の帳尻を合わせるために、悪評を甘んじて受け入れた。
それが私の「正義」だと、このときはまだ、安っぽいヒーロー気取りで自惚れていたのだ。
そしてある冬の日、死の匂いが漂う無機質な病室で、ベッドの母が私の手を握り締めた。
「私……もう、長くないんでしょ?」
すでに医師からは、余命数か月という非情な宣告を受けていた。白濁していく母の瞳を見つめながら、私は激しい葛藤に襲われていた。
本当のことを言うべきではないか。
残された時間で、本当の別れの言葉を交わすべきではないか。
告知から逃げることは、私の独善ではないのか。
いや、違う。母を絶望から救いたいんだ。
私は母を救いたかった。
そう思っている。 ……いや、本当は違うのかもしれない。私はただ、死の恐怖に怯えて取り乱す母の姿を見たくなかっただけなのかも知れない。
優しい嘘という耳障りのいい言葉に逃げて、私は母の生と、その終わりに向き合う勇気がなかっただけではないのか。
私の心は、ぐちゃぐちゃに波打っていた。しかし、母の細い指先が、私の思考を強制的に打ち切った。私は一瞬だけ引き攣りそうになる顔を抑え、笑顔を張り付けた。
「何言ってるの。少し疲れが出ただけだよ。暖かくなったら、また一緒に桜を見に行こう」
母は安堵したように頷き、穏やかに目を細めた。
「そう。なら、良かった……」
窓の外では、音もなく白い雪が降り積もっていた。
その夜、病院の非常階段で、私は声を殺して一人で泣いた。
胸の奥に、濡れた冷たい新聞紙がべっとりと張り付いたような、ひどく不快な自己嫌悪が残った。
春の足音が聞こえる前に、母は静かに旅立っていった。
葬儀の席で、冷たい視線を隠そうともしない親戚の一人が、焼香を終えた私に言いつのった。
「お前は、最後まで本当のことを伝えなかったそうじゃないか。そんな嘘で誤魔化して、おばさんが可哀想だとは思わなかったのか」
私は何も答えず、ただ頭を下げた。
さらに追い打ちをかけるように、通夜の席の隅で、母が生前最も信頼を寄せていた親友の女性が、私を避けるようにして他の親族にこう漏らすのが聞こえた。
「誠さん、お母様が最後に『誠が本当のことを言ってくれないの』って寂しそうに笑っていたわ。あの子の優しさは、時に冷たいねって……。私、あの方に失望しました」
頭を強く殴られたような衝撃だった。
母は、気づいていた。私の嘘を見抜きながら、私の「嘘つきピエロ」としての役割に、最期まで付き合ってくれていたのだ。
私は何も言えず、ただ棺の中で花に囲まれた母の、眠るような穏やかな死に顔だけを見つめていた。あの日の母は、絶望に怯えることなく、微かな未来を信じて幸福な眠りについたのだ。
そう思いたかった。たとえ私一人が不実な息子として世界から疎まれようとも、その事実だけで十分に報われていたと、自分を納得させるしかなかった。
……いや、納得できるわけがなかった。
葬儀が終わり、すべての片付けを終えて、私は誰もいない実家に一人で戻った。静まり返ったリビング。台所の棚に、母が愛用していた、少し縁の欠けた茶渋のついた湯呑みがぽつんと残されていた。
それを見た瞬間、視界が激しく歪んだ。
「……何が、桜だよ」
声が震えた。膝から崩れ落ち、私は床に頭を擦りつけるようにして、獣のような声を上げて泣いた。
俺は何を守ったんだ。誰を救ったんだ。
母は本当のことを知りたがっていた。私と、本当の言葉で話したがっていた。それなのに私は、自分の「優しい嘘つき」という殻に閉じこもって、母の最後の切実な寂しさから目を背けたのだ。
私のしてきたことは、優しさでも何でもない。ただの、みっともない自己保身だ。
床に涙を滴らせながら、私は自分の愚かさに吐き気がした。胸の奥の、濡れた新聞紙は重く冷たく、もう二度と剥がれそうにない。
人は誰もが真実を尊び、それを正義と呼ぶ。
確かにそれは正しい。けれど、剥き出しの真実は時に、どんな刃物よりも鋭く人の心を切り裂く凶器になる。だから私は、その刃の前に立つ……などという高尚な思想は、今の私にはもう残っていない。
それでも、私は明日もきっと、呼吸をするように嘘をつくのだろう。誰かが笑うために、あるいは、私がこれ以上傷つかないために。そのたびに私の信用は削り取られ、誤解され、世界から嫌われていく。
賑やかなサーカスが幕を閉じた後、静まり返った楽屋で、鏡に向かって独り化粧を落とすピエロのように。
観客たちが心から笑ってくれたなら、それでいい。
そう思い込まなければ、私はもう立っていられない。たとえ誰も、ピエロの素顔に伝う、涙の存在に気づかなくとも。
私は今日も、世界に向けて道化の笑顔を張り付ける。
そして胸の奥で、一つだけ消えない疑問を抱え続ける。 ——あの日、母に本当のことを伝えていたら。私たちは傷つけ合いながらも、本当の親子の言葉を交わせただろうか。
正解のない問いが、今も錆びた釘のように、私の胸の奥で深く、深く、疼き続けている。
本文3,347文字
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