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錆びたメイプルシロップ 二度目のさよなら 1

夢もあこがれもステイタスも自尊心も何もない。
自分はあきらめた。でもあいつをあきらめる訳にはいかない。
八百長でその世界から永久に追放された男。思い入れもない老人を介護する十六歳。タブレットで会話する母が逃げた二人目の十六歳。そしてイップスとアル中で全てから逃げた男。
錆びついた風がまとわりつく海沿いの街。そこで道にへばりついた様な食料品店からすべては始まった。テニスへの思い入れがない四人がいつの間にかチームを組み世界を目指す、ハードボイルドストーリー。

あらすじ

 薄暗い食料品店に入るとマサトはいつも同じことを言う。
「八百長野郎が来た」 
 海に沿った県道にへばりついているこの店に客が入っているのを見たことがない。薄暗いカウンターで店番をしているマサトは十六歳。四十を超える俺ににやつきながら八百長と言う。
 マサトは店番をしながら遠縁のじいさんの介護をしている。他に家族がいないマサトが寝たきりの八十歳を抱えると高校にはなかなか行けない。随分前に実の母が亡くなり、どういう経緯かわからないが小学生の頃、遠縁のこの家に預けられたらしい。
 マサトはこの錆びついた町の噂に詳しい。先日、黒塗りのベンツが近所に停まっていた。マサトは「都内のデカい会社の社長が愛人との間にできた息子に跡を継がせたくて来てる」と言う。何でそんな事まで知ってるのか聞いた。マサトは黙ってチューハイの缶を棚に叩きつけ、奥へ消えた。一日じいさんに付きっきりで、話し相手はわずかな客だけ。自然ゴシップの様な事に詳しくなってしまうのかもしれない。
 この店から少し離れた場所に小さいながらもスーパーマーケットがある。でも俺はここに来る。それはマサトが安く売ってくれるからだ。理由はわからない。その代償として毎回何かしら嫌味の様なものを聞かされる。 
「大友、ばれないようにうまく負けるってどんな気分でやってんだ? まあ、テニスって一人だから八百長やるのも結構簡単かもな」
 十六歳から呼び捨てにされても、その口調や表情にそこまでの悪意の様なものを感じない。
 それでもこいつと何かに向かって一緒に動く事になるとはこの時は考えもしなかった。

     * 

 どんな競技でもコーチがいる。試合中コーチからのアドバイスを受けることで選手は孤独から逃れることが出来る。野球やサッカーはフィールドの外からコーチが声を枯らす。そして選手は責任をチームメイトのせいにできる。自分自身と向き合う時間は少ない。
 個人競技であるボクシング。相手は一人。敵は自分を殺さんばかりにステップを踏み、目を鈍く光らせる。そんな時でも三分に一回、孤独を救うセコンドの言葉が耳に響く。一人ではないのだ。 
 しかしこの世の中には小学生でも一時間以上誰の助言も受けずに戦う競技がある。
 俺は幼少の頃テニスを始めた。特に選手になろうともせずのんきに楽しんでいた。それが高校の時に突然伸びた。体格が出来ると共にフォアハンドの破壊力が上がった。その破壊力に頼れば考えることもなく勝ち進んだ。高校卒業と同時にプロとなり海外に出た。しかし下部のITFツアーでは勝ち上がるが、その上のチャレンジャーでは勝てなかった。
 
 海外では俺のパワーテニスはまるで通用しなかった。日本で圧倒できたパターンでは勝てない。賞金も稼げない。最下部のツアーは一回戦勝って日本円で五万円。優勝で六十万。交通費宿泊費で吹き飛ぶ。ちなみにウィンブルドンは一回戦負けでも一千万を超える。
 結婚はした。相手の両親は都内近郊で事業の傍らテニスクラブとスクールを運営している。両親の価値観は全てテニスで成り立っている。野良の様な俺との結婚は難航したが、身元ははっきりしているし、素行も悪くない。押し切る形で何とかなった。義理の両親は俺に期待した。世界ランキングが百位以内に入るとテニスクラブにも箔が付く。
 しかし海外に出ると勝てない。大したポイントも稼げず次の会場に行く。
 唯一リラックス出来たのがアメリカンダイナーだった。アメリカのロードサイドのよくある食堂。パンケーキ、ポテトフライ、オムレツ、ハンバーガー、ミートローフ、チリビーンズ。それらが皿にあふれるように出て来る。
 大会会場で顔見知りになった負け組の選手と半日以上時間を潰す。そしてバスで次の会場に行く。会場に着いてもその連中と怠惰な練習をする。

 ベネズエラのカラカスの下部大会で初戦負けした。十二月のベネズエラは乾季だ。晴天の下で何も考えられずに呆然としていた。こんなことで日本に帰れない。しかし次の大会にエントリーできるポイントが足りない。金も尽きかけている。
 何か胸騒ぎがした。試合に入る前財布をどこにしまったのか。財布を入れたボストンバッグ。確か足元に置いたはず。呆然としていた間にすられていた。カラカスは治安が悪い。でもこのパークは清潔で整備されていた。油断した。
 盗んだ奴が近くにいるかもしれない。一時間ほど走り回ったが俺のボストンバッグを持っている奴はいなかった。嫌な汗がウェアを濡らした。終わった。乾燥しきったカラカスの空の下で、何も考えられず立ち尽くしていた。
 見知らぬ男に声を掛けられた。
「来週ここで同じグレードの大会がある。お前出ろ。ポイントと金、どっちが欲しい?」
「両方」
「じゃあ、こうしよう。お前が相手を買収し勝つ。買収の金は俺たちが用意する。買収が成功すればお前に少しだが払う。ランクが低いお前が出ると初戦はシードにあたる。番狂わせを演じろ。そこで俺たちは稼ぐ。お前は賞金とポイントと俺達からの報酬を手に入れろ」
 やけに観客が多い試合だった。俺が第二シードの選手に八百長を持ち掛けるとそいつは簡単に乗った。買収に預かった金は日本円で二十五万。やつは上手に俺に負けた。長いラリーを演出し、悔しがる声まで出した。俺はポイントを手にし、賞金三万を得た。報酬として五万ほど受け取った。
 次の試合も同じ男から同じ話を持ちかけられた。同じ様に相手を買収し金を受け取る。その次もやった。結局決勝まで行き、準優勝で終わったが賞金とポイントを手にした。
 俺は八百長に手を染めた。テニスの八百長はばれにくい。試合中における凡ミスの割合が20%から30%を占める。故意のミスが周りからわかりにくい。おまけにトップから最下部のツアーまで含めれば世界で年間10万ほどの試合がある。賭博と八百長の温床だ。最初は俺一人で相手を買収した。それを繰り返していると 選手でも大会関係者でもない男に声をかけられた。俺の八百長が勘付かれたと思い警戒したがそうではなかった。賭けの胴元だった。彼になぜ俺が手を染めているかわかったのか聞いた。
「ここにいる奴らは乾いた明るさの様なものを持っている。それは何か大切なものを誰かに捕らわれていないからだ。お前は捕らわれている。勝ち負けにこだわるのは皆同じだ。でもお前は泥の中に沈んでいる様な顔をしている。その顔には嘘が貼り付いている。嘘に縛られ捕らわれている奴は乾いた場所ではよくわかる」
 そう言って彼は下を向き、高い声で笑った。  
 八百長で世界を廻った。どの会場でも八百長を受け入れるやつはすぐに分かった。ポイントと金の余裕が出来た。でも日本には帰れない。結局どこにも行けない。
 終わりはあっけなかった。買収した試合が終わり、会場を後にしたところで知らない男に囲まれた。TIUを名乗るそいつらは不正監視をしているという。ツアーからの永久追放。日本テニス協会からもテニスに関する一切のイベントからの出入禁止を言い渡された。妻のテニスクラブにも近寄れない。そしてあっけなく離婚が成立した。相手の両親が会わせてくれない。何もかも失い、事の大きさに気が付いた。
 妻には毎月手紙を書きわずかな金と一緒に送った。送られずにはいられなかった。返事は一切なかった。
 八百長に手を染めたカラカスの青空は色が剥がれ、モノトーンでしか思い出せない。
 あれからラケットは手にしていない。

               *

 店のカウンターに頬杖を突きながらマサトが言う。
「俺、最近遺書書いてるんだよね」
「誰が」と俺が聞き返す。
「俺」
「十六歳で遺書ってどうなんだよ」
「こんな腐った町の腐った店で十六歳が店番してるんだぜ。今俺が死んでも誰も気に留めないだろ。せめて生きた証に遺書だよ」
「何書いてんだよ」
 マサトはインスタントコーヒーを最近買ったらしいスウェーデンの国旗がプリントされたマグカップに淹れて言う。「毎日書いてる。俺でも毎日変化があるんだよ」
「それ、日記って言うんじゃね?」俺は聞いた。
「大友も日記書けばいいじゃないか。八百長のやり方とかいいじゃないか。結構儲かったんだろ。それにしてもネットって凄いよな。大友の名前入力すると一発で八百長のお話がでてくる。知ってたか? お前のwikiまであるんだぜ?」
 最初はかなりストレスを感じたやり取りだが、その悪態も慣れてきた。そしていつものように頼んでもいないのに冷凍パスタやほうれん草、賞味期限ぎりぎりの牛乳を俺に渡す。金は受け取らない。受け取っても半額だ。
「儲けてりゃ、こんなしけた町に来ねぇよな」マサトはそう言い、線が細く端正な顔で笑う。歯並びが酷い。矯正すればモデルでも通用しそうだ。でもそんな金はないだろう。
「今日は高校行ったのかよ」俺が言った。
 舌打ちし、マサトは店の奥を顎で示した。
「じじいの調子悪くて病院行ったんだよ。おまけにそのじじいは俺と血がつながっているかわかんない。そのじじいの人生最終コーナーを伴走しなきゃいけないんだよ、こっちは」
 奥から苦しそうな咳が聞こえる。
「大友、知ってるだろ、お前がお仕事している運動公園でタブレット持って壁打ちしているやつ」とマサトが言う。
 俺はいくつかの職を経て、市の運動公園を管理する仕事にあり着いた。運動公園にでかいリゾートホテルが隣接している。海沿いにある設備の整ったホテルということで昔は流行っていたらしい。しかし周りに何もなく、名物というものもないため、建物の劣化とともに客は減った。ホテルと市は打開するために真横に大規模な運動公園を作った。大規模なアスレチックとテニスコート。その管理を一人でやっている。相当広いが一人で十分だ。なんせ客が来ない。
「誰だそれ。壁打ちしてる奴なんか見てないぞ。タブレットってなんだよ」と俺が言った。
「見たことない? 管理者だろ? できてねぇな。不法侵入者だぞ? そいつタブレットで話すんだよ。まあ、大友と話す必要なんて無いけどな」
「タブレットで話すってどういうことなんだ?」
「自分で聞けばいいじゃねぇか」
 マサトはしばらく下を向き、カウンターを爪でコツコツと音を立てた。そしてカップラーメンの棚の一番奥から一つ取り出し、俺に投げて渡した。
「お前ほどカップラーメンが似合う中年もいないのに、何がアメリカンダイナーだよ。気取りやがって。お前みたいな貧乏人が金の無駄遣いすんなよ」
 近くに小さな食堂がある。この田舎に似合わない生粋のアメリカンダイナー。色褪せた薄い緑のカウンターテーブル、日に焼けた赤いビニール張りの椅子、クロムメッキと擦り減った白と黒のチェック柄の床。俺はバンクーバーにいる錯覚を覚えた。バンクーバー周辺で三週連続であった下部大会。その三週とも八百長なしで全てベスト4に入った。その間、同じアメリカンダイナーに入り浸った。メイプルシロップがあり得ないほど芳ばしく美味しかった。
 信じられない事に店のメイプルシロップはバンクーバーと同じものだった。そのメイプルシロップはあまり入って来ないらしく、入った時には店の親父がマサト経由で連絡をくれた。俺の唯一の楽しみだった。
「マサトも今度連れてってやるよ」
「何で食料恵んでるやつに連れられていくんだよ、行く訳ねぇだろ、馬鹿じゃね?」

               *

 夏の気配を容赦なく葬り去る冷たく強い雨が降った。壁打ちができる天気ではない。その雨は何日か続いた。
 ここの壁打ちは何年も使われていない。六面あるテニスコートも土日以外はほぼ使われない。リゾートホテルの客がお遊びでやる程度で、熱心にやる奴はいない。しかし俺は誰が来ても良いように整備している。
 側溝の落ち葉を掃除し、周りの雑草を取り、ベンチを拭く。ネットを巻き上げるクランクには定期的にグリスを塗る。審判台やコートを囲むフェンスも年に一度、ペンキを塗りなおす。コートはアスファルトの上にウレタン樹脂などを塗るハードコートだ。世界の大会でもっとも多く使われている。恐ろしい事にこの誰も使わないコートは全米オープンと同じ高価なレイコールドだ。しかし大規模なメンテナンスはしていないのでかなり傷んでいる。市からは特に指示されていないが、コートの補修もする。最低賃金にわずかに上乗せされた給料に見合う仕事ではない。そしてここまでテニスコートに執着するのは自分でもよくわからない。部屋に帰って飯と風呂以外特に何もせず寝る。毎日その繰り返しで終わる。
 唯一、自分の筋肉を指圧するセルフマッサージだけ上手くなった。昔ハードに肉体を使ったツケが来たのか、一時期全く歩けなくなった。自分でどうにかするしかなかった。
 壁打ちコートは鍵をかけてある。使うにはフェンスをよじ登らなければならない。丁寧に補修しているフェンスをそのようにされるのはイラつく。壁打ちコートのひび割れもこの間埋めたばかりだ。土足で踏み込まれた気がする。タブレットというのもよくわからない。

      *
 
 四日後の小雨の降る夕方、壁打ちコートのフェンスに大きな動物の影が見えた。その影はあり得ない速さでフェンスを登っている。あれだけ大きなものが登るとフェンス自体が揺れるはずだが、ぐらつく様子はない。巨大な猫が登るとこんな感じになるのかも知れない。乗り越える時に一瞬スピードが落ち、それが何かわかった。人だった。ラケットを持ち肩から平たいバッグを掛けている。慌てて壁打ちコートまで走った。
 何年前のものかわからないぐらいくすんだ白いラケット、かつて黄色だったことが想像もつかないほど色褪せたボール、肩まで伸びたぼさぼさの髪、中学校の着古した体操服。シューズはたぶん学校の上履きだ。右の小指のあたりに穴が開いている。
 ボールをバウンドさせ、壁に打つ。それだけ。続かないので一球打つ度に拾いに行く。そしてまた打つ。拾う。それを延々と続ける。ラケットを上から斜め下に振り下ろしている。初めてラケットを握った人はボールを遠くに飛ばそうとして下から斜め上に振り上げる。男の動きは何かが欠落している様に見えた。この錆びた場所でこいつだけが別の法則で動いている気がする。雨に濡れ、鼠色をしたボールが壁に当たると「べしゃ」と言う。それはまるで何かの小動物が叩き潰された様な不快な音だった。
「今すぐそこから出ろ」
 そいつはこっちを見て微笑んだ。雨に濡れた髪がまとわりついている。目鼻立ちが整った色白の顔。思わず動きを止め、しばらく見てしまった。思い直しもう一度言った。
「そこから出なさい」
 彼はベンチに置いていたくしゃくしゃの白いレジ袋から傷だらけのタブレットを取り出し、手書きで入力した。
『なんで』
 彼が入力した「なんで」は「な」より「で」が三分の一ほどの大きさで酷くバランスが悪かった。そしてフェンス越しに笑顔を崩さず俺を見た。俺は何も言わずにフェンスの扉を開けた。彼はレジ袋から雑巾の様なものを取り出し、丁寧にタブレットを拭いた。そして俺に笑顔で手を振り帰って行った。
 気持ち悪いフォームとボールが壁に当たる嫌な音が俺の頭に残った。

 次の日も雨だった。夕方、壁打ちまで見に行くとそいつは同じフォームで嫌な音をさせて打っていた。その音は俺の頭の中を引っ?き回した。俺を見ると笑顔を見せたが「出ていけ」と言った。昨日と同じ様にタブレットを丁寧に拭き、出て行った。
 何日か小雨が降り続き、それでもあいつは毎日やって来た。夕方四時ごろに俺が壁打ちを見に行くと相変わらずわけのわからないフォームで打っている。そして追い出した。

 店に行くとマサトがいつもの「八百長」の話はせず、壁打ちのやつの話をした。
「毎日追い返すの可哀そうじゃねぇかよ」
「なんでそんなことまで知ってるんだよ。誰かに見張らせてるのか?」
「ぐしょ濡れで一生懸命壁打ちしてるやつを追い返すのって、お前どんだけ鬼なんだよ。お前も海外行って壁打ちしかしないで帰って来たんだろ?」
 最下部のツアーを廻っている時に、ウルグアイの大会にエントリーした。現地まで行くと大会がキャンセルされていた。すぐに帰ろうと考えたが空港がストライキで動かない。しょうがなく三日ほど一人で壁打ちして帰って来た。
「それとこれは違うだろ」俺が答えた。
「その壁打ちって金払わなくても誰でも出来るんだろ? なんだお前のその老害ジジイみたいなやり口は。まだ四十だろ。老害には早くないか?」
 確かに俺は問答無用であいつを追い払った。マサトが言う通り壁打ちは誰でも使える。
「雨が降っていた」
「それ関係あんのかよ。やるかやらないかは使うやつが判断するんだろ、お前の愛する公園は」
 確かにそうだ。雨が降ってきて俺が中止にさせた事は今までない。
「そいつはうまいのかよ」とマサトが言う。
「上手い下手の問題じゃなくて、気持ち悪い」
「なんだそれ」
「テニスはボールを前に飛ばすスポーツだ。あいつはそういう雰囲気がない」
「前に飛ばないのか」
「いや、飛ぶ」
「じゃあいいじゃないか」
「運動出来ないやつのこと、右足と右手が一緒に動くとか言うだろ。その理に適わない動きで百m全力で走ってる感じなんだ」
「それは気持ち悪いな」
「だろ」
「でもお前に何かやらかしている訳じゃないんだろ?」
「ああ」俺は頷いた。
「今度はやらせてやれよ、八百長管理人」
 賞味期限切れの缶詰と腐る寸前の野菜を貰い、雨の上がった歩道を歩いた。あいつの壁打ちを思い返していた。
 あいつは一度もバランスを崩したり転んだりしていない。雨が降ったハードコートはグランドスラムを行う会場だとしても雨が降ると滑りやすい。試合はすぐに中断する。あいつはコートに水たまりが出来ている状況で平然と打っていた。それも学校の上履きのような靴で。

 別にマサトに言われた訳ではないが、そいつの壁打ちを管理棟の二階から見ることにした。
 その日は朝から気持のよい秋晴れが広がり、コートは乾いていた。やつは相変わらず気持ち悪いフォームだ。それでもようやく壁とのラリーが続くようになっていた。しかし壁から返って来たボールを追う姿は違和感しかない。両手をだらんとおろしたまま走る。膝はほとんど曲がっていない。だからものすごい腰高だ。普通早く走れるわけがない。おまけに歩幅が短い。名前を付けるとすれば「てけてけ走り」。しかしやつはいとも容易くボールに追いついている。
 その日は閉園間際に声をかけ追い出した。やつは笑顔で手を振り、帰って行った。
 次の日もやつは来た。その次の日も。
 上から斜め下に振り下ろすスイングと「てけてけ」走り。そのスタイルでボールが続くようになって来た。動きが少し滑らかになった。無理なく前に飛んでいる。しかしやつのボールは「スライス」だ。「スライス」の軌道は低く、ボールは伸びていく。ネットにかかりやすく、アウトしやすい。リスキーな球種なのだ。センスの塊がないとできない。
 ある時やつはボールをフェンスの外に出してしまった。よく考えると今まで素人がボールを出さなかったのが不思議だ。しばらくボールを探していたが見つからない。ボールを出した場所は頭まで届くほどの雑草が生い茂る。結局一時間以上探していた。俺は管理棟にあった缶を開け、新しいボールを出し投げた。やつはいつもと同じ笑顔で俺に微笑み、タブレットに『ありがとう』と手書きで俺に見せた。
 俺はそのタブレットに『名前は』と書いた。彼は『ヒロキ』と書きタブレットをしまった。
 そして今までのクソボールと違う、新品の弾むボールに歓声を上げ壁打ちを続けた。
 帰路、俺は新しいボールを渡した時のヒロキの乾いた笑顔を思い出した。それは何かから抜け出そうとする小動物の様に見えた。

※この続きは2025/9/29現在「下書き」に戻しています。
再発表等の予定は現在のところありません。
もし、続きをご希望の方がいらっしゃいましたらご連絡ください。

2話
https://note.com/yagicowcow/n/nbfbcf7596e70

3話
https://note.com/yagicowcow/n/ncae19211ed48

4話
https://note.com/yagicowcow/n/nfc3d331a6aab

5話
https://note.com/yagicowcow/n/n63b6feeac50e

6話
https://note.com/yagicowcow/n/n849c0e374428

7話
https://note.com/yagicowcow/n/nb71e4b325df1

8話
https://note.com/yagicowcow/n/nef214d34c18e

9話
https://note.com/yagicowcow/n/n08f7a1087602

10話
https://note.com/yagicowcow/n/n757dc28f670b

11話
https://note.com/yagicowcow/n/n12a5f0532ebd

12話
https://note.com/yagicowcow/n/na928479fdf1d

13話
https://note.com/yagicowcow/n/n80034eec566a

14話
https://note.com/yagicowcow/n/n278b2e09eff6

15話
https://note.com/yagicowcow/n/n1cdd7ec1450e


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