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「これは自分の物語だ」と思わせられるのが、筆力

『言語化するための小説思考』という本を読んだ。

めちゃくちゃ爆裂に面白いという感じではないのだが、じわじわと面白い本だった。

これは小説を書くためのノウハウ本ではなく、むしろそのもう少し手前の、「人はなぜ小説を書くのか、読むのか」といった根本原理についてさまざまな角度から考察されている。「小説とは何であって、何でないのか」という問いも含まれている。

「小説を書くためのノウハウ」は古今東西、いろいろな手法があるし、一般にもよく知られているので、あまりそういったことには興味はない。「小説とは何か?」を突き詰めていくと、小手先のストーリーテリングのノウハウなどはあまり重要なことではないとさえ思えてくる。

究極のところ、ストーリーなんてなんでもいいのだ。飾りというか、見てくれぐらいに思っていても問題はない。そういう技法はもはや生成AIも習得しているはずなので、生成AIにでも作らせておけばよいだろう。

「小説を書く」という行為の本質は、「何を書くか」ではなく、「どう問いを立てるか」、ひいては「自分は何を書きたいのか」を突き詰めることに尽きる。

「何を書くか」という対象は、究極的にはなんでもいい。例えば、野球とサッカーはスポーツとして全然違うものだが、サッカー選手を描く作品と野球選手を描く作品だと、共通するものが多いので、どちらのスポーツでも成り立つエピソードはあるだろう。むしろ、サッカー選手を目指す少年の話と、ベテランのプロサッカー選手の話のほうが、ジャンルとしては異なるかも。

自分の人生は一回しかないので、経験できることも有限である。書ける幅はおのずと限られる。しかし、共通する部分もあるのだから、ある意味では一回で十分だともいえる。普段から小説を書いている人なら、作曲家になりたい人の気持ちや、映画監督になりたい人の気持ちもある程度は理解できるだろう。

小説を書くにあたり、「何を書くか」に注意を払っている人は、「自分にしか書けない、どこにもない情報を書きたい」と考えるのだろう。だから、いろんなものを取材して、とにかく情報を集めたがる。

しかし、取材による情報収集の結果、集めた情報をフル活用して書いたものは、あまりにもつまらないものになるだろう。「中身」がそこにないからだ。読者としては、自分にあまりに関係ないことについて書かれたものは、面白いと感じにくいのである。

「これは自分のことについて書かれている話だ」と思うからこそ、面白さを感じるのである。ある種の普遍性のようなものをきちんと描ききらないと、そのようには感じられないだろう。

小説家では、昔から綿谷りさが好きだ。「蹴りたい背中」という作品で芥川賞をとり、以後人気作家として活躍し続けているけれど、書く作品に親近感があるというか、陰キャ感みたいなのをちゃんと正面から描いている点が素晴らしいなと思っている。

ある意味で等身大というか、「普通の人」なのだろう。自身が有名になっても、その感覚を維持できるのは素晴らしいことだ。

性別も送ってきた人生もまったく違うのに、「これは自分の人生だ」と思わせられるのはすごい。それがまさしく小説の筆力という感じがする。

この作品も結構好きなのだが、予告編のコメントを見ると、「あの頃の自分を抱きしめたい」というコメントがあった。まあ、そう思わせるものを作れるのが筆力、ということだろうか。

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