「つまり、要するに?」と話を振られたときには

YouTubeの動画で又吉直樹が、「要するに」と要約することの難しさを語っていた。

又吉直樹は芥川賞作家で、小説を出版している。書いた本をメディアで宣伝する際、「要するに、これはどういう小説なんですか?」と聞かれることが多いらしい。その質問がくると困る、と。

取材する側は、どうしても紙幅の都合上、そうやってひと言でまとめる必要があるので、それは仕方のないこと。しかし又吉によれば、「ひと言で語り尽くせないので、わざわざ言葉を尽くして小説という物語にしている」ということだった。

確かにそれはそうだと思う。一言ですべてを表現できてしまうのであれば、それだけを読めばいい。僕も自分が書いた小説を「要するに」のひと言でまとめることはできないので、まったく同じことを考えるだろう。

しかしそれはなんにだっていえることだ。たとえばトヨタ式のカイゼンってなんですか、と生成AIにでも聞けば、こういうことだよ、と一言で示してもらえるだろう。しかし、それを実際にやっている人たちからしたら、そんなもんじゃねーよ、と反発したくなる、というのはあるかもしれない。

そもそも、文字数が違うのだから、「余すことなく完璧に再現する」のは当たり前に不可能だ。濃縮還元ジュースではないのだから。

つまり、「要するに」で求められているハードルを高く解釈しているだけであって、聞いている側も別にそこまでのものを求めているわけではないのだと思う。単純に、一言のインパクトのある言葉が欲しいだけなのだ。



「要するに」で振られた場合は、もはや「それに関連した、ちょっと違う話」をするぐらいが正解なのでは、と思っている。つまり、それを直接説明しようと頑張るのではなく、エッセンスを抽出したり、その背景的なところの解説をしていく、ということ。

先日、「もののけ姫」のリバイバル上映があったので映画館に見に行ったのだが、そのときに当時のパンフレットを売っていたのでそれを買ってみた。宮崎駿は自身の制作した映画のプレゼンをするにあたり、あまり映画の直接的な内容を語らず、なぜそれを作ったのか、どういう背景があるのか、というところを説明する傾向にある。

それがある意味正解かもしれない。whatを語るのではなく、whyを語る。

自分が作ったものではなく、人が作ったものであれば、自分が本当に面白かったところ「だけ」を語るのがいいのかもしれない。すべてを説明しようとしない。

むしろ、それは本質ではないのではないかと思えるほどの、局所的に自分が面白いと思ったところの話「だけ」をする。どうせその作品がもつ本質みたいなところは再現ができないだから、そういう割り切りが大事なのかな、と。

宣伝が目的なら、それこそキャッチコピーでいいだろう。「もののけ姫」なら、「生きろ」。めちゃくちゃコンパクトである。



つまり「要するに」と考えると肩肘が張ってしまうのであって、もっと気楽に、「この話にまつわる、面白い話をしよう」ぐらいでちょうどいいのだろう。自分も、ちょっとこの「要するに」の呪縛にかかってしまうときがあるので、これを思い出すようにしたい。

この記事の内容は要するに、「肩の力を抜いて語ってね」ということである。

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