死と遺体となったあとのこと
Amachanさんの記事を拝読しました。
『人はどう死ぬか』(久坂部羊 著)を読み「死というものをもっと実感を持って認識しなければならないと思いました」と記しています。
記事を読みながら夫の臨終のときのことを思い出しました。わたしの人生でいちばん悲しみにくれた日のことです。
これまでに身近では祖母、義父、父のお通夜や葬儀の機会はありましたが63年も生きてきたけど、臨終の場にたちあったのは夫だけです。
2020年コロナ禍のことでしたから、もし入院すれば面会もままならなかったことが幸いし、自宅で最後の別れとなったことは不幸中の幸いだったと思います。
↑こちらで記したとおり、わたしの中に小さな悔いがあるとすれば、最後の最後の呼吸をミスってしまったことですが、夫はふだんの暮らしの雑音が聞こえる中で最期の息をしたことは、彼にとっては安らぎの中で人生を終えることができたのだろうと思っています。
少なくとも亡くなる当日までわたしの話す言葉に頷くことができて、コミュニケーションはとれていたのですから。
痛みに耐えながらも頑なにモルヒネを拒否続けていたのは、自分の意識が無くなることは、実際の痛み以上に辛いことだったのだろうと想像できます。
病院にいたならば彼の意思が100%叶えられたかは疑問ですから、死にゆく夫にとってもわたしたち家族にとっても、悲しいながらもいい終わり方だったと思っています。
病院は生かす場所なので、生かすために最善の努力をしてくれることは理解できますが、人は誰しも必ず死ぬわけですから、ある時点ではどのように死を迎えたいのかにシフトすることもたいせつなのでしょう。
わたしの夫が亡くなったとき、米国ではまだ異常にコロナ感染を恐れている時であり、学校はオンライン、人との接触も極力避けるべきという完全なる異常事態のなかでのことでしたから葬儀どころではない状況でした。
ホスピスから派遣されていたナースが臨終を確認した後、すぐ葬儀屋さんが来てくれました。簡単な説明を受けましたが「葬儀をしない」と決めました。
それまで着ていた服から彼のお気に入りの服に着せ替えたら、痛みから開放され安らかになっていた顔に青いチェックシャツで、元気だったころの夫が蘇ったような感じがしました。それが出会ってから40年以上も共に歩いてきたわたしにとっての夫の最期の姿でした。
葬儀をする場合には、遺体を洗浄し消毒し滅菌して化粧やより美しく見せるためのプロセスを経たあとの故人が最期のお顔になることを思うと、わたしの記憶に残った夫はほんとうに自然のままの最期だったといえます。
ところで、唯一わたしが経験した臨終の後は、葬儀屋さんが夫を運び出し、火葬の後、遺灰となって戻ってきたので、死後の処置以前で終わってしまいましたから、Amachanさんが記事の中で死後の処置の様子のところで、「遺体の両脚を開き肛門に指を入れて便を掻き出す」という記述におったまげました。
そうか、葬儀のために遺体安置をする場合にはこれほどの処置が必要になるのかと!!
いつかは自分もその日が来ると思ったら俄然興味がわいてついググってしまいました。
英語だとけっこう遺体の防腐処理についてのYouTubeがあって勉強になりました。たいへんな職業だと思いますが、便利なツールと科学の力で、衛生的に淡々と処理をされていきます。(英語ですが自動翻訳で日本語設定すれば日本語字幕でます)
「死」は生きているものにとっては避けられないことであるにも関わらず、日常生活ではあまり語られませんから知らないことだらけです。それでも、死が避けられないことである以上知っておくのはいいことだと思いました。
Amachanさんの記事を読んだことで、思わぬ方向に脱線して新たな知識を得た今日でした。Amachanさんありがとうございました。
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