【新感覚ショートショート】『ソレデイイノ!?』「わがチルアウト」
最近、私は疲れていた。
別に大事件があったわけではない。
朝起きて、仕事をして、スマートフォンを見て、少し反省し、またスマートフォンを見て、夜になる。
そんな生活だった。
ある日、私は駅前の雑居ビルの壁に奇妙な広告を見つけた。
「あなた専用のチルアウト、お作りします」
下には小さく、
〈チル技師協会認定〉
と書いてあった。
何だかよくわからなかったが、私は疲れていたので入ってみた。
店の中には白衣の男がいた。
「いらっしゃいませ。チルをご希望ですか」
「はい、たぶん」
「標準型ですか。オーダーメイドですか」
「違いは何ですか」
「標準型は誰でも落ち着けるように設計されたチルです。オーダーメイドは、お客様だけのチルを作ります」
「じゃあ、そっちで」
男はうなずいた。
「では問診を」
妙な質問が続いた。
好きな天気。
好きな匂い。
子供の頃の帰り道。
好きだった給食。
最近ため息をついた回数。
最後の質問は、
「人生で一番ぼんやりしていた日はいつですか」
だった。
私は答えた。
高校二年の夏休み。
部活もなく、宿題もやらず、扇風機の前でアイスを食べていた日。
特に意味のない午後だった。
男は深くうなずいた。
「なるほど。かなり上質なチルですね」
数日後。
完成したというので受け取りに行った。
渡されたのは小さな箱だった。
「これが私のチルですか」
「ええ。開けてください」
箱を開ける。
中には何もなかった。
「空ですよ」
「そうです」
男は満足そうだった。
「あなた専用です」
「意味がわかりません」
「中をご覧ください」
「だから空です」
「その空っぽ感こそが、あなたのチルです」
私は帰宅した。
正直、だまされたと思った。
しかし不思議なことに、その箱を机に置いておくと落ち着いた。
仕事が終わる。
スマホを触りたくなる。
だが箱を見る。
空である。
見事に空である。
何も入っていない。
すると、なぜか少しだけ気持ちが静かになる。
そんな日が続いた。
やがて私はその箱を持ち歩くようになった。
会社でも。
喫茶店でも。
公園でも。
たまに開ける。
空である。
実に空だった。
私は満足した。
世の中は情報でいっぱいだった。
通知。
広告。
ニュース。
おすすめ。
ランキング。
分析。
考察。
予想。
反応。
空いている時間まで予約で埋まっている。
なのに、この箱だけは何も主張しない。
だから良かった。
ある日、同僚が聞いた。
「それ何?」
「私のチル」
「何が入ってるの?」
「何も」
「壊れてる?」
「完成品」
「へえ」
すると同僚も欲しがった。
その後、チルは流行した。
街にはチル専門店が増えた。
個人向けチル。
家族向けチル。
法人向けチル。
ペット用チル。
AI向けチル。
チルのサブスクまで始まった。
月額制で新しいチルが届くらしい。
やがてテレビではチル評論家が現れた。
「今年のチルは余白感が弱いですね」
「いや、むしろ空白の解像度が上がっています」
「私は初期型チルのほうが好きです」
何を言っているのかよくわからなかった。
しかし皆、真面目な顔だった。
そのうちチルランキングまで発表されるようになった。
チル・オブ・ザ・イヤー。
最高チル賞。
新人チル大賞。
私は少し疲れた。
久しぶりに自分の箱を開けた。
空だった。
相変わらず何もない。
それを見ているうちに、ふと思った。
もしかすると。
チルとは箱の中にあるものではなく、箱の前でぼんやりする時間のことだったのかもしれない。
高校二年の夏休み。
アイスが少し溶けるのを眺めていた午後。
あれもたぶん、チルだった。
私は箱を閉じた。
窓の外では夕方の風が吹いている。
急ぐ理由はなかった。
スマホも鳴っていなかった。
だから私は何もしなかった。
しばらく。
ただ、何もしなかった。
それが妙にぜいたくな気がしたのである。
⸻
ソレデイイノ?
と誰かが言うかもしれない。
だが、たまには答えも結論もなく、ただ風が吹いて終わる日があってもいい。
少なくとも、その日の私はそう思っていた。
