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小田急線無差別傷害事件の反応に見る「フェミサイド」発言の頓馬ぶり

この事件の現場、実家からもそこそこ近いこともあって、当日夜は両親もピリピリしていたようだ。

翌日以降、報道が出てきて容疑者の供述などが報道されるようになってきたのだが、供述が波紋を広げている。

「幸せそうな女性を見ると殺したいと思うようになった。誰でもよかった」

この供述内容に対して「フェミサイド」として批判のキャンペーンを張る人間が後を絶たない。

「フェミサイド」と言った人間は単細胞

私の立場を先に述べておく。「フェミサイド」と言った人間は「カテゴリーに反応する頓馬である。心理学者の加藤諦三先生曰く。

これを引用して私はこう言った。

私からすれば「フェミサイド」と言う人間は、いくら何でも話をデカくしすぎる。

最初に刺された人物が60代女性だったら?男性だったら?子どもだったら?等々、立場可換性(入れ替え可能性テスト、とも言う)を考えずに、上から目線で説教するのはいかがなものか。

他人をカテゴリーで見て断罪する連中の被害にあうとこうなる

共産党・山下議員に対する反応が、それを物語る。

とのツイートへの反応を受けた結果がこちらだ。

この流れを受けて小山晃弘(狂)氏曰く。

先進各国の左派政党が「労働者の政党」から「マイノリティの政党」になっていった歴史の見事な傍証と言える。

男というカテゴリーでラベリングして切断していくという、ある意味頭の悪いやり方で安心したい、共通の敵を設定して共感を集めたい、というのが「フェミサイド」を主張する勢力の心理なのではないか。

カテゴリー・ポリティクスの時代へ

この、昨今の政治で見られる人間をカテゴリーで見て判断し、分断・差別していく動きは、アイデンティティ・ポリティクスになぞらえてカテゴリー・ポリティクスと名付けたくなる。

例えば、容疑者の身柄が確保された当初は「派遣社員」と紹介されていたが、いつの間にか「職業不詳」となっていることに注意しよう。

人材派遣会社の立場からすれば、「派遣社員」というカテゴリーで犯罪者予備軍呼ばわりする動きを封じたいわけだ。

そんな馬鹿な!と思いたくなるかもしれないが、「アイツと自分は違う」という形で安心を調達するしかない現代社会の落とし穴を、今回の事案を巡る動きに見た気がする。

ちなみに「アイツと自分は違う」という形で安心を調達することを、社会学では帰属処理と切断操作と呼ぶ。

宮崎勤事件にしろ酒鬼薔薇事件にしろ、そうやって「我々」は、「社会の安心」を守ってきた歴史がある。

しかし、もうそのやり方、あり方は限界が来たようだ。

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