女性便益と性的消費の奇妙な関係

この記事に付いたコメントを見て思ったところがあったのでまとめておく。

ケア労働から女性便益へのシフト

brothert354氏のコメント。

正直な所家事代行や、風俗産業みたいな「女性による便益」を市場化したような産業が年々デフレ化していて従業員の生活が苦しいというのが示しているものをきちんと見るとわかる様な気がします。「逃げるは恥だが役に立つ」と言うドラマでの最も不都合な真実は主人公がこのまま結婚せずに家事代行を続けたとしたら貧乏学生並みかせいぜいそれに毛が生えた程度の生活しかできなかったことの様な気がします。

そしてbrothert354氏のブログ。

ここに私はこうコメントした。

10/6の白饅頭日誌のコメントから伺いました。
「正直な所家事代行や、風俗産業みたいな「女性による便益」を市場化したような産業が年々デフレ化していて従業員の生活が苦しいというのが示しているものをきちんと見るとわかる様な気がします。」
という指摘は重大なところを突いていると思います。
社会学の用語で言うと、"生活世界"(=地域や家族の共同体内)または"システム"(=行政または市場)から生活に必要な便益を調達するわけです。
"システム"の便利さから"生活世界"の弱体化、空洞化が進んだ中で、便益の調達先が市場になるということは、市場メカニズムの結果として、便益の買い叩きがおきるということであり、それが「女性による便益」を市場化したような産業が年々デフレ化する一因だろうと。
それどころか恋愛や結婚が便益の交換の場になってしまっている状況は流石に違和感を覚えます。

brothert354氏の回答はこの通り。

いらっしゃいませbrother-tです。
実際家事やその他諸々の「女性便益」の調達先が市場になることにより例えば食洗器の様な家電だったりその他のジャンルからも競争相手が現れるという事でもありますからそりゃ買いたたきデフレ化もしますね。
恋愛や結婚に関しては2010年代に関しては景気が良かったせいで売り手市場だったのが20年代どうなるかで変わってくると思います。
「生活世界」の弱体化に関しては例えば「内助の功」の様なある種の幻想がことごとく禁句化していて市場・システム化への流れが止められないという事なんでしょうね。

ここで言う「女性便益」というのが、生活に関わるケア労働のことと考えるのが一般的だろう。

そして男が女から受けるもう一つの種類の便益が性的価値である、というのが世間的な理解だろう、と私は想定する。

ケア労働を巡る問題の本質は"家族"の社会システムへの埋め込み

性的価値の話に入る前に、ケア労働を巡る論点を見ておこう。水無田気流女史が切れ味の鋭い指摘をしている。

近代化により、日本では生活領域に関して全般的に合理化が行われていったのですが、合理化できない領域が家族にすべて押し込められていった。そして、家庭を管理する役割であった女性は、負荷を大きく受けてきた。しかし負荷があまりにも大きすぎるので、それならば「階層や所得が高いセレブ妻になりたい」というかたちで、女性は実利を取る方に行ってしまったわけです。
水無田:ただこうして社会がソロ化に向かっているのに、たとえば配偶者控除廃止の見直しや、社会保障プログラム法や、通常国会に提出予定とされる家庭教育支援法案など、実際に国の政策で行われているのは家族役割や家庭責任の強化ばかりです。いつの間にか「自助」には家族による扶助も加えられ、三世代同居のための住宅リフォームは優遇措置として減税がなされるなど、核家族どころか三世代同居の拡大家族志向の政策がどんどん進められていますね。私は良き家族、良き夫、良き妻の規範が強すぎる日本のことを“家族教の国”と呼んでいるくらいなんですが、そのあたりはどうお考えですか?
荒川:家族教ですか…。確かに、今日あらゆることを家族にだけ責任を押し付ける方向ですし、そのため、自分の家族さえ良ければ他はどうでも良いという考えも強くなっていて不健全ですよね。また介護もその考えだから、老々介護や共倒れなど色々な問題になっていて良くないことだらけな気がします。
水無田:そうですね。欧米諸国では、高齢者がいざと言う時に頼る相手は家族だけではなく、近隣住民や友人であることが多い。でも日本はとにかく血縁者を呼び寄せる。これは家や家事、そしてケアワークなどについての考え方が根本的に違うからなんですよね。日本は食卓を家族皆で囲み、家事も教育も家で抱え込む考えですが、欧米諸国では家というのは普段からシッターやナニー、家政婦、それに近所のお友達などが入って来るのが当たり前という考えだからなんですよね。この違いは介護観の違いにも反映されていると思います。
荒川:老若男女関係なく、一人一人が経済的にも精神的にも自立することでしょうね。それが今は全くできていないんですよ。高齢者も含めてなんですが、大人も自立ができていない。
水無田:なるほど。でも逆に言うと、この社会自体が個人を自立させない方向に向かわせて来たのではないでしょうか。たとえばこれまで日本では、会社員として働く男性は、ケアワークを妻に丸投げして仕事だけしていれば良いとされてきました。このため妻に依存する夫の問題は深刻で、たとえば50歳時点での婚姻継続がある男性と離婚した男性とを比べると、離婚した男性は平均より9年も余命が短くなっているんです。つまり、妻のケアワークがなければ生きていけなくなる男性が本当に多い。
荒川:本当にそうですね。奥さんがいなくなった途端、自分自身の中身が空っぽになってしまう旦那さんも多いんですよね。だから、依存先が奥さんしかいないというのが問題だと思うんです。
水無田:依存先というのは?
荒川:職場だけではない人間関係や趣味を通しての友人関係などですね。とにかく交流する人としての依存先ですね。人間関係も、職場だけ、奥さんだけという唯一依存がつらいわけです。
水無田:なるほど。ただ、そもそもこの国は、個人が依存先を絞らざるをえないですよね。「会社村の住人」であることを要求する雇用環境や、既婚女性がきめ細やかに家族全員のケア負担に従事することが前提の家庭生活の在り方は、個人が職場と家族へのみ依存することを要請する社会ですよね。今でも会社や家庭にコミットせねばならない部分が大きすぎるため、個人が自分の意見は言わずに自立を阻害されがちな社会である訳ですが、どうして行けば良いとお考えですか。
 さらに、もとから家族のみにケア労働が偏重したこの国では、家族の中に新型コロナウイルス感染者が出た場合の看護責任もまた重くのしかかります。例えば育児や介護中の世帯の主たるケアの担い手が全員(たとえば夫婦そろって)感染し入院せねばならなくなったら、子どもや要介護の高齢者のケアは誰が担うのか、ましてやひとり親世帯はどうすればいいのか……。問題は山積です。この国の、「ケアの家族依存」が深刻なかたちで露呈しているともいえます。

基本的にはあらゆる便益をシステムから調達するようになった社会で、システムという形で合理化できない部分は、システムが家族にアウトソースする。

そのようにして家族がシステムの一部として組み込まれるという状況は、宮台真司の言う第2段階の郊外化( http://www.miyadai.com/index.php?itemid=1092 )の、その延長線上にある。

現代日本の家族は、機能的にはケア以外は全て崩壊しているのにもかかわらず、ケア機能を担うといういびつな状況。これは1979年に自民党から出た「日本型福祉社会」に書かれた、日本型社会保障システムの「専業主婦のお陰で社会保障コストを抑制」する構造そのものである。

性別役割分業が女-女格差を押さえる?

天下り的だが、性別役割分業とは、女性は賃労働を免除する代わりに家庭のケア労働に専念するという体制である、としよう。

これが日本型社会保障システムの要であったし、一方で第3号被保険者制度や配偶者控除の根拠となっていた。

ところがケア労働の便益をシステムから調達できるようになると、金で解決できるもの金で解決しようとする動きも出てくる。

ケア労働の対価としての既得権益が削られていくということでもあるし、カネでケア労働を買う側と買われてケア労働を提供する側の二極化も起きてくる。

このあり方が現実となっているのがシンガポールの家政婦を巡る状況だ。

日本の場合は、移民を受け入れるにも言葉の壁、習慣の壁があるからそう簡単には進まないだろうから、日本人女性の中で割れていくことになるだろう。

そういう中で消費者主権の時代と後ろ向きの男女平等が実現した結果として、女性の社会からの退場が進んでいくし、それが労働意欲を奪っていくという指摘はnoteで指摘した通りだ。

その延長線上に代理母・代理出産の問題がある。これは究極的な性的搾取という気もしなくはない…

"性的価値の消費"という虚構は個人的な不快感の産物

ここからは性的価値の問題を考える。まずは補助線を引こう。性的価値を売買するという意味の売春は絶対悪ではない。

まずは性的サービスというポイントについて。

 「現実では絶対に性的魅力を味わわせることなど女性は絶対にしないであろうキモいオタクに対して性的にサービスしていること」が問題視されるのだ。
 現実の女性があえて性的魅力を味わわせたりすることは絶対にありえないはずの人間に対して、女性(あるいは女性キャラ)が性的魅力を提供しているということは、その女性(キャラ)は人格を奪われ、性的に搾取されている――というわけである。

隙だらけで話にならないが、生身の人間と単なる創作物とを区別していないこと、創作物であるキャラには法律上の人格が存在しない。

 とくに「萌え絵」が毎回のように激しい糾弾を生むのは、その絵に描かれたキャラクターには人格のなかでもとくに拒否権がないからだ。「自らの意志によって(キモいオタクたちを性的に喜ばせることを)拒否することのできない女性」をつくりだして、キモいオタクが女性の性的価値を勝手にエンジョイしていることは、たとえその存在が非実在の女性キャラであったとしても、それによって間接的に私たち女性の尊厳が傷つけられている(キモいオタクに対して断固として性的価値を提供しないという私たち女性の拒否権を間接的に棄損されている)という感覚に陥いるのだ。
 つまり、身も蓋もない表現をすれば、フェミニストが「萌え絵」を見たとき、間接的に強姦されているような気分になってしまうのである。

「それはあなたの感想ですよね」(byひろゆき)としか言いようがない。不快感を覚えるのは個人の勝手であり権利ではあるが、不快感に公共性はない。

宮台:はい、社会学者の宮台真司です。立場上、若干、学問的な話をさせていただきます。4つの論点をお話ししますが、最初は表現規制とゾーニングっていう話をしたいと思います。今回のソニーミュージックの販売と在庫と配信の封印のような措置が、日本にしかない非常に特殊な出来事ですね。日本にしかありません。これは簡単に言うと、ソニーが、ソニーミュージックが何も考えていない、事なかれ主義に堕していることの証拠です。それは例えば、社会的影響に鑑みてというふうな文言に見て取られるとこです。
 この社会的影響っていう話について言いますと、1960年代後半にジョンソン大統領の下でのわいせつとポルノグラフィーについての大統領のための諮問委員会っていうのが開かれて、そこで実は今日に至る表現規制の枠組が確立しています。まず第一に、問題表現による社会的悪影響はまったく実証できないということです。問題表現っていうのは、性表現や、暴力表現や、犯罪者を描いた表現や、犯罪者による表現です。
 しかし、こうした表現に不快感を覚える人間も中にはいます。しかし人々の感じ方は多様なので、不快感を感じる人間がいるということは、なんの公共性もありません。なので、あともう1つ、例えば暴力表現や性表現を抜きには踏み込めない公共的表現があります。犯罪者にしかできない公共的表現もありますね。例えば、独裁政権下での反政府活動としての出版なんかが典型ですよね。
 こうした点に鑑みて、要は不快だという人間が、不意打ちを食らわないように、回避すればいいだけ。簡単に言うとアナウンスとゾーニングだけで問題は解決できる。これは今日に至る基本的な発想です。日本ではこうした先進国ならば当然踏まえているべきやり方を、まったくわきまえていない。炎上している連中がいる、だからなんだ。ただそれだけのことですね。なんの公共性もない。そういう問題ですね。

ところが以前に指摘したように共感が近接性を生むがゆえに、一個人の快-不快が共鳴を起こしやすい社会情勢がある。

宮台真司もこう指摘する。

 次に、ピエール瀧さんを擁護している石野卓球さんに対するネット炎上などに見られるようなネット炎上の動機について話します。こうしたネット炎上については、まったくなんの考慮をする必要もありません。それは学問的な背景があります。昔、なぜナチスドイツがこれほど力を持ったのかということに関する研究がありました。その結果分かったのは、貧乏人ではなくて、没落中流層が劣等感という不安を埋め合わせるために権威にすがる、攻撃的になる、排外的になるということがデータで実証されました。
 要は、平成は共同体崩壊の時代だけれども、不安と鬱屈にさいなまれたかわいそうな人たちが増大し、その不安と鬱屈の埋め合わせのために、排外的、攻撃的な行動を取るというふうに考えられます。だから法の意味も考えないで、言葉の意味も考えないで、言葉の自動機械に堕し、法の奴隷に堕する連中が量産されているわけですね。典型がネトウヨであり、クレイジークレイマーであり、モンスターペアレンツですね。これらはオピニオンでもなければイデオロギーでもない、ただの症状です。苦情の中身にはなんの意味もなく、症状としてだけ捉える必要があります。
 これが先ほど申し上げたナチス研究をした人たち、フランクフルト学派とか、フロイト左派といわれますけども、要は炎上は神経症的な症状に過ぎないので、その内容を真に受けてはいけないということですね。これは冒頭に申し上げました、不快感なるものにはなんの公共性もないという問題に直結しています。

そう、単なるクレームでしかないのに大きな声に聞こえるというエコーチェンバー現象そのものである。

性的消費もしくは性的搾取と"愛"の相対的剥奪

このワーディングからしてマルクス主義全開なのだが、それはさておき。

ライターの杉浦由美子女史は、著書「コスプレ女子の時代」(2008年、KKベストセラーズ)はこう指摘する。

女性が性的なアピールを強調して「エロい」雰囲気を出すことのマイナス面がなくなっている。

「性的で何が悪い」ということなのだが、これは"性的"かどうかは全か無かで決められるようなものでもないし、"性的"なものが悪いという全称命題は通用しない。これも先日しつこく論じた点だ。

ついでに「間接的に私たち女性の尊厳が傷つけられている(キモいオタクに対して断固として性的価値を提供しないという私たち女性の拒否権を間接的に棄損されている)という感覚」にも触れておく。

本音では、「本来であれば私たちに来ることで私たちが得られるはずだった権益が、男たちが二次元になびくことで奪われてしまう」という剥奪感の表明なのではなかろうか。本来なら自分に向けられるべき"愛"が二次元に行ってしまうという相対的剥奪感である。

そういう言い方をすると、「生身の女よりも二次元」というよく言われるセリフそのものである。

例え話として「独身女性がペットを飼い始めると結婚できない」と言われることがある、というのと同じと言えば分かるだろうか。

性的なものというよりは、「大事にされている」感や、自分の行為を喜んでもらうことで得られる承認が本質的である。

これはある種の感情プログラムの問題だし、その手の感情的な交換は女同士が効率的だろう。それが美少女モノの女性ファン・ユーザーが増えてきた背景の一つとしてあるという個人的な印象がある。そう「女の子にモテる女の子」というあり方の一例である。逆に、美少女モノというメディアを通じて"女の子"や"女性性"を再帰的に自覚する(=女の子ってこんな感じと再認識する)人もいるようだ。

上の例とは対偶的な"女を落とす女"/"女を口説く女"系の話もある。

ここで出てくる"緑川さら"については海外版で修正が入っているというのだから興味深い。

現実世界でもあるらしい。(ホンマかいな…)

こういう仕掛けへの弱さは人それぞれであるけれども。

余談だが、リアル知人女性(既婚者、昭和生まれ)で、とある変身ヒロインを"俺の嫁"と言っていたり、別の方は「○○ちゃんに添い寝して欲しい」という表現を使ったりするのを見聞きしていると、以前指摘した「モテ」の語法の変化と同じものを感じてしまう。(↓記事参照)

「モテ」の語法も方向も変わったし、「男性目線を媒介せずに女の子が女の子の視線だけを意識するゲーム」の時代でもある。

そういう話を抜きにして素人目に考えても、女の魅力は性的魅力だけなんですかね?って誰も言わないのも変である。ここにも一種の偏見を見て取ってしまう。

蛇足ながら母親や親戚を見て感じることなのだが、老けることを忌避すると実年齢に応じた社会的責任も一緒に免除された気になるらしい。この問題は稿を改めて考えたい。

"マンコ二毛作"は女の勘違い(認知の粉飾決算)の結果

そして興味深いやり取りがあったので紹介したい。2つ目のツイートで宮台真司が指摘する「カネの力を魅力の力と勘違いして彼女扱いされたパパ活女は『売らされた』との被害感情へ」というのは、一部で言われる"マンコ二毛作"そのものに思える。

これは先日記事にした不倫後遺症のところでも引用した。

女性から見たポイントはこうだ。

自分の性的魅力に男が金を出してくれるのか、それとも男が出す金に自分が魅力を感じているのか。どちらも100:0や0:100ということはありえないと思うが、「男が出す金に自分が魅力を感じる」ことを認知的に粉飾決算して「自分の性的魅力に男が金を出す」と勘違いしていないだろうか?

そして売買春においても同じ構造が言えるのではないか、それが私の仮説である。

そこには成熟社会化に伴う売春動機の不透明化という大きな問題が背景として横たわっていることを忘れてはならない。

あくまでも自らの動機に自覚的であること、そして動機付けも自己決定の結果であるという再帰性をも自覚すること、という条件が課される。

成り行きに身を任せて身を崩す人間が増えている理由もそこにある。

ノイズ耐性に弱い現代人

最後に指摘したいのは、現代人は自己システムのホメオスタシス(恒常性)維持という意味でのノイズ耐性が低い、という問題である。

持論を言わせてもらえば、巷間言われる自己肯定感の正体は「人格(システム)の恒常性」だと考えているので、ちょっとやそっとのことでグラつくのでは「人格の恒常性」は維持できない。

言い換えると不快感の正体は「人格の恒常性」が脅かされたと感じたときの反応である。そう、不快感の原因はノイズである。

例えば「息子のプラモデルを壊して何が悪いのでしょうか?」とYahoo!知恵(遅れ)袋に質問を投げた親、これだけでも自己肯定感の低さがダダ洩れである。

そして上で述べたように不快感に公共性はない。それがエコーチェンバー現象を起こしてしまうのは何故か?

個々人の不快感への耐性が低いからである。それが自己システムのホメオスタシス(恒常性)維持という意味でのノイズ耐性が低いということの意味である。

たったそれだけの原因で、あれこれ騒ぎが起きてしまう、という現状は、社会システムの安定性に疑問を投げかける。

まとめ

一見すると環境浄化に見える、性的なものを不快とラベリングするあり方が社会を狂わせている。それは「私が不快にならない権利」の無制限な拡大との相互作用で影響の拡大が止まらない。

そして、女性のケア労働と性的価値と取引されるものが変わったうえに、便益としてのケア労働と女性便益であるところの性的価値が分離してしまった現状がある。

性的魅力がカネで取引される構造は決して悪いとは思わないが、宮台真司の言う性愛の劣化の結果として、結婚まで見栄と金の取引になってしまうということまで起きてしまう。

労働環境も女性に冷たく、さらに経済的に落ちこぼれたくないという欲求が女を上昇婚志向に走らせる。もう「働きたくない」「楽したい」という時代ではないのだ。

その行く先には何があるのか…?

いいなと思ったら応援しよう!