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リプへのお返事:"子供に対する声のかけ方"

こむら@3yむー殿 さまからのコメント

頂いたコメントを紹介します。

言葉によるコントロールという支配

子どもに対する声の掛け方を振り返りさせられる話です…「あなたは優しい子だね」という言葉だけが悪いのではなく、そのほかの関わり(悩みを話せたり性的な事柄をフラットにやりとりできる関係性を作っておくなど)が大きく影響するとは思うのですが。

こちらのコメントについては、"「家族を作れても中身はスカスカ。少子化対策をいくらやってもムダ」大人になってクズを脱するのは難しい。"というコラムや

ゼミでの挙手による調査に過ぎませんが、90年代半ばからゼロ年代半ばにかけて、両親が愛し合っていると思う割合がどんどん減りました。兄弟の数が少なくなったのもあって、恐らく家族の中で愛のロールモデルを目撃することが難しくなったんです。家族だけじゃなくて地域もそうです。昔は家族が地域の中に埋め込まれていましたが、今は家族が孤立して地域の人間関係を目撃することもなくなりました
そうした昔の昭和的関係性が、この本の中に書いてあります。お醤油を貸し借りすることとか、よその家に遊びにいってご飯を食べてくるとか、よその家の冷蔵庫のアイスを勝手に食べてくるとか。僕らの世代では当たり前のことでした。そういう地域の関係性の中に埋め込まれている家族が普通だったんです。わかります?
そうした地域の中に家族があれば、ことさらに「愛ある家族!」である必要もありませんでした。たとえ両親がそれほど愛し合っていなくても、親が子を抱え込んでいなかったので、害を受けにくかったんです。同じことで、親が子どもを抱え込んでコントロールしようとしても、子どもがすり抜けられたんですね。
ところが、地域が空洞化してくると、親ではない地域の大人との「斜めの関係」が消えて、孤立した家族の中で、親が子どもを抱え込むようになります。日本はいまだに性別役割分業というか性差別が激しいので、母親の多くが、できなかった自己実現を子どもに託して、所有物のようにコントロールしようとします。夫婦愛の不全の埋め合わせでもあります。

という指摘と私は同意見です。

個人のつてで子ども向けイベント、例えばプラレールの走行会や親子連れ向けのコスプレイベント(親が子供に好きなキャラクターの格好をさせて撮影できるような場を用意する)等々のイベント運営や現場見回りをしている経験からすると、日常的に接している大人が両親か学校の先生だけ、という子どもが9割以上の印象があります。

こういう環境にいると、"大人ってこういうもの"の認知が限局されたものになりがちです。更に言ってしまうと、異性像は親が基準になるとは言え、それがかなり極端なバイアスがかかった認知を持ってしまう。

このロールモデル問題については、以下の引用にあるような社会的、歴史的な要因があります。

 田中さんの本に、面白い記述がありました。定年退職した男性たちが田中さんの講座に来て「これからどうやって生きていけばいいのでしょうか」と相談しているとか。今、日本では自分より30歳も若い人に生き方を聞かなければならないほど追い詰められている人が、少なからずいるということですね。仕事がなくなると生き方も見失ってしまうような日本の異常なビジネスカルチャーは、いつから始まったのでしょうか。
田中 やはり戦後以降の問題だと思っています。今の方は「働く」というと、みんな企業に雇われるものだと思っていらっしゃる。しかし、かつての日本では、農業や漁業といった第一次産業に従事したり、個人商店を営んだりして生活する人たちが多くいました。少なくとも現在のように、大学生が4年生になり、就活が解禁されると「企業で働く」以外に想像ができない、という状況ではなかった。退職で生き方を見失うような問題は、企業に雇われて働き、住むところと働くところが分離しなければ生じません。実際、この話を授業ですると、「うちの父は自営業で、友人もいれば家族とご飯も食べているので、先生の話がピンときませんでした」と言う学生もいる。いずれにしてもここ50年くらい、性別役割分業が成立した以降に、発生している問題だと捉えています。
神保 大学では適当に遊んでいた子どもたちが、就活の時期になると茶髪を黒く染め直し、突然社会人としての自覚のようなことを話し始める。「社会人としての分別」とか「世の中そんなに甘くない」とか、一体、そんなサラリーマンのような台詞を誰から教わったのかという感じです。そのあまりの豹変ぶりに、私などは悪い冗談はよせなどと思ってしまいます。特に社会人としての自覚とか世の中の厳しさのような分別めいた話をする人は、男性に多いように感じます。
田中 高度成長期に形成された性別役割分業を前提とした家族では、“男性が働かなくなる”ことがそのまま“家族の崩壊”になったことが大きいですね。男性の稼ぎを基本として家のローンを組むし、子どもを大学まで行かせることを考えると給料も上がっていかないといけないから、当然「辞めてはいけない」という想定になります。家族が崩壊すれば社会が成り立ちませんし、男性には逃げ道がない。建築業や製造業のように、従来、多くの男性が働いてきた産業が衰退していますし、自営業も減っています。今の仕事にしがみつくしかない状況の中で、給与自体も下がっているので、男性はますます厳しいのではないかと思います。
宮台 もうひとつのファクターとして、1960年代から核家族化、学問的な言い方だと2世代少子家族が進んだことがあります。当初は、それでも祖父母との交流もありましたが、親世代が、祖父母世代を面倒な存在として扱うようになってくると、子ども世代も、そうした印象を抱くようになります。すると、祖父母世代には、農業も含めて自営業者が多いのに、子ども世代には、それが見えなくなり、代わりに親世代が提示し奨励するロールモデルばかり見えるようになるわけです。

これは自分の体験ではありますが、実家、特に父親方の親類を見渡すと"同業者"が大量にいることもあり、自分もその方向に進むかの如くの雰囲気があったのですが、大学院修士課程入学直前に方向転換をしまして、修士課程修了後は全く違う世界に飛び込むことにしました。

"抱え込まれる"というのは楽な側面もありますが、一度"外の世界"を知ってしまうと、居づらくなると言いますか。唯一幸いだったのは、そういう同業者ネットワークの中に居ない数少ない親戚(とある叔父&叔母夫婦)が、私の試行錯誤を手引きしてくれたことだったと思います。特に叔母が居なかったら諦めさせられていたともいますね。

こういう親の抱え込み問題は、特に親のダメさ加減が子に感染するという形で連鎖してしまいます。

更に言ってしまうと私自身、母親が実家で抱えていた精神的な問題を長年もろに受けていまして、そこのところに気付く経緯は↓の記事に書きました。

母方の祖父は厳しい人という印象がありましたが、実は厳しいというよりもコントロール志向・支配志向のある人間でした。そしてそれが母親に亡霊のように乗り移っている気がしてなりません。

個人的にダメージが大きかったのは、婚活で相手女性へのダメ出しばかりされる点、更にどこに住む話も含めてとにかくグリップが強いので、それが原因で逃げられるケースも10人以上ありました。

典型的な毒親パターンなのですが、これを誰も解毒せずに今まで来ていて、父方母方両方の祖父母が亡くなった後に起きている問題なのです。少なくとも片方の祖母が生きていればなぁ…という恨み節はもう遅いですが。

辛うじて気付けたきっかけが子ども向けイベントに来られる親子連れの親の方に世間話を通じて気付かれるというのが因果を感じます。

"Toxic Mascurity"の問題点は言葉による自縄自縛

これは元のツイートそのままです。

相変わらず性別役割分業のイメージが残っているところがありますけれども、これは社会の仕組みの実態が根本として残っているから、それに適応してそうなっているだけでしょう。文化とは社会の現状に対する合理的適応戦略の結果なのです(下記参照)。

その観点が無いと、表面的な現状批判で終わってしまい、実質に"梃子を入れて動かす"ための構想が描けなくなってしまいます。

極論すれば、経済的に「結婚して夫婦共働きでないと生きていけないくらい経済や人権の水準を下げる」というヨーロッパ的な在り方に持って行くのが、本邦の男女平等問題に対する、シンプルな解決策の一つになるでしょう。劇薬ですが。

勿論、ヨーロッパのフェミニズムとは女権拡張運動の側面が強くて、それは経済的な自由の追求を動機としていたという背景を踏まえて、本邦に適用できるのかという政策論も考えないといけないわけです。

ここまで来てしまうと、私のような市井の素人一人では何も動かせません。

ジェンダー規範から解放しても現実が変わるのは遅すぎる

最近の女児アニメはジェンダー的なものに対しては進歩的と言われるわけですけれども…

変な形で現実を虚構に仮託して描くという手法は、大人にとってはかえって有害なものでもあります。

そして理想を見せた後に落差の大きい現実を知った元・女児はどうなる?という問題もあります。そういう現実をどうやって見せるのか、言い換えるとどうやって夢から醒めさせるのか、と。

これはメディア受容問題の典型的な話ですけれども、そもそも我々大人ですら免疫があるのかと言われると怪しいわけです。よく言われる一人で見るのと、誰かと見るのとでは受け止め方が違うという話です。

だからこそ我々大人は、こういう"文学"的な問題意識を頭の片隅に入れておき、画面の向こうにある"作り手の思想"と作り手が置かれている社会的文脈という名の現実(現実は画面の中とは違うけれども、未来はそうなって欲しいという作り手の願望の存在)には敏感でなければなりません。

かといって現実をそのまま見せることの良し悪しもある。対大人ですら、事実を述べることがとげとげしい、攻撃的と言われてしまうことがある昨今です。

"良く分からない"社会に出ていくであろう子どもに対して、我々大人ができることは、自分のことは自分でできるようになる、そして自分の機嫌は自分で取る(byみやぞん)人間になってもらうのを支援することだけなのかもしれません。

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