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藤井セイラ先生、プリキュアを語る

かなりの熱量で語る藤井先生

この一連のポストを見るに、コレがある意味で最大公約数的見解であろうことは想起できる。

そして渾身のnote記事。

私見

結論から言えば、コレは個人の趣味嗜好の分断が政治化しただけであり、不快感に公共性があることにされている現状の異常さが放置されているだけと見る。

なお、個人的な快不快が社会運動や政治運動への動機付けになるのは構わないが、趣味に合わないからといって焚書はするな、という立場から述べているので、そこは誤解されぬよう。

それに、こういうプリキュアシリーズの路線の話をするのであれば、10年前のシリーズも見て比べていただきたいと思うわけである。

https://www.toei-anim.co.jp/tv/princess_precure/

少なくとも1990年代前半のセーラームーン人気の頃から言われてきた「大きなお友達」問題の延長戦でしかない議論ではあるのだが、その「大きなお友達」の内実について思うところがある。

内実的には上のイラストに描かれるような人の絶対数なり全体での割合も上がってきている印象があり、娘をダシにハマる母親も目立つし、セーラームーン見て育った年代・世代から下の年代・世代がもう一つのボリュームゾーンだろう。

更に「少女作品を少女に取り戻す」ということについては、男が撤退するという形で実現しつつある。

「脚出過ぎ」だから眉をしかめるのは大人だからだあって、リアル女児がそんなことで引くかどうか?

実は、遅くともセーラームーンの頃から、そういうフィルターを制作陣が仕掛けているという印象がある。

女児が見ている、女性向けだから、かえってエロくなるという謎現象の正体がコレなのではないか?そういうことを想起する。

このことは2021年に整理した論点「女もエロを好む」とも関係があるはずで、ある種の非対称性がある。

プリキュアなんて女児にウケるよう、キャラは女児にモテるよう作ってあるのは当たり前のことではあるのだが、この視点を抜きに性的表現を語るのは片手落ちを通り越してナンセンスの域になってきている。

その傍証が「こんな子がいたらいいな」である。

高見恭子が木之本桜を評して「友達として欲しい子」と表現したのを過去にも引用したことがあるが、これも同じ指摘だ。

成果物としての創作物からシナリオライターや脚本家、そして演出家といった作り手のスキルとセンスを読み解けば、少なくともジャンル問わず女子ウケしないとヒットとならない現状の背後関係に、作り手の男女比の実情があるのではないか。

別の拙稿の中でも引用したが、「画業で暮らす人の7割が女性」というのも、その一つの例だ。

結局のところ、「文化産業」と呼べるものに携わる「労働者」の女性比率が過半数を超えていると思える証拠が積み重なってきている中で、もはや性的表現の規制は女性差別、職業差別と紙一重になってきていると言わざるを得ない。

そろそろ、この表現規制の裏にある差別意識についても個々人が見解を出すべき時が来たと言えるだろう。

私は差別を許さない。

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