時間を売るのをやめたら、仕事が遊びに近づいた
私が20代の頃からずっと違和感を抱いているものがある。
「労働を時間で換算する」という考え方である。
昭和の時代ならまだ分かる。しかし令和になり、AIまで当たり前に使われるようになった現在でも、日本の職場では「何を成し遂げたか」よりも、「何時間働いたか」が評価される場面が少なくない。
たとえば、同じ仕事をAさんは8時間かけて終わらせ、Bさんは工夫して5時間で終わらせたとする。普通に考えれば、Bさんのほうが生産性は高い。ところが現実の職場では、Bさんにはこう言われる。
「まだ時間があるから、これもお願い」
さらに、Aさんが残業している横でBさんが定時に帰ろうものなら、
「みんな忙しいのに、あの人だけ早く帰る」などと言われたりする。
なんとも不思議な話である。
これでは、仕事が早い人ほど損をする。
私の職業人生はそんな葛藤で多くの損をして来た💦
8時間かかる仕事を5時間で終わらせる能力を身につけても、3時間の自由が生まれるわけではない。空いた3時間に、別の仕事が詰め込まれるだけである。それなら、急いで仕事をする意味がない。
むしろ5時間で終わる仕事を、ほどよく力を抜きながら8時間かけて終わらせるほうが「合理的」になってしまう。これは個人の怠慢というより、制度が合理的な人間に、非効率な働き方を選ばせているとも言えるのではないだろうか。
「8時間働いた」より「これを完成させた」
もちろん、すべての仕事を成果だけで評価できるとは思っていない。窓口業務、介護、保育、警備、医療など、その場所に一定時間「いること」そのものに意味がある仕事もある。こうした仕事を成果物だけで測ることはできない。
では、企画、事務、調査、執筆、システム開発などはどうだろう。
「今日は8時間働きました」ではなく、「今日はこれを完成させました」で仕事を測る余地は、もっとあるはずである。
時間とは、成果を生み出すために投入する資源の一つにすぎない。時間を使うことと、価値を生み出すことは同じではない。この区別は、もう少し明確にしてもよいと思う。
一人の人間を、一つの会社が独占しなくてもいい
そして私は、もう一つ以前から考えていることがある。一人の人間が、一つの会社、一つの仕事、一つの肩書だけに依存する必要はないのではないか、ということである。
一つの職場で朝から晩まで働くのではなく、曜日によって違う会社で違う仕事をする。あるいは午前と午後で仕事を変える。効率よく仕事をこなせる人なら、十分に可能なはずである。
「今日はAの仕事」
「明日はBの仕事」
「空いた隙間時間にはCの活動」
そんな働き方があってもいい。いわゆるパラレルワークである。
週40時間を丸ごと一つの組織に提供するのではなく、自分の能力や経験を、複数の場所へ少しずつ提供する。これは単なる「副業」とも少し違う。一本の本業があり、その横に副業を付け足すのではない。
複数の仕事や活動が並列に存在し、その全部を合わせたものが「自分の仕事」である。そんな感覚である。
月曜日が嫌いではなくなった
この働き方には、意外な利点がある。一つの職場で嫌なことがあっても、それが人生のすべてにならない。一つの仕事がなくなっても、収入がいきなりゼロになるわけではない。
そして何より、仕事によって付き合う人が変わる。使う頭が変わる。見る世界が変わる。
「今日はこっち」
「明日はあっち」
となれば、単純に飽きないのである。
私はエンジニアとして勤めた企業を早期退職してから、そんな働き方を続けている。そのおかげなのか、いわゆる「月曜日が憂鬱」という感覚がない。むしろ月曜日が楽しみになっている。
さらに最近では、「さあ、仕事をするぞ」という感覚すら、ほとんどなくなってしまった。どちらかといえば、遊びに出かけるような気分で仕事へ向かっている。
朝起きて、今日はここへ行く。人と会って話をする。頼まれたことを片づける。文章を書く。知らないことを調べる。街を歩く。面白そうな場所があれば寄ってみる。そして、一日が終わる。
仕事をしていると言えば仕事をしている。遊んでいると言えば遊んでいる。その境界線が、だんだん分からなくなってきた。
仕事と遊びの境界線を薄くする
昔は「仕事」と「遊び」が明確に分かれていた。仕事は我慢してやるもの。休日は仕事から解放される日。月曜日は憂鬱で、金曜日の夜はうれしい。しかし今の私には、その境界線がずいぶん薄くなった。
だから「仕事をしている」というより、毎日何か面白いことをしながら暮らしているという感覚に近い。もちろん、本当に遊んでいるだけでは報酬はもらえない。仕事として引き受けた以上、責任はある。期限も守らなければならない。相手が求める品質も満たさなければならない。
プロとして求められる成果は、きちんと出す。しかし、それさえ果たしているのであれば、何時間、机の前に座っていたのか。それは本来、それほど重要なことなのだろうか。
人生まで「時給」にしなくていい
考えてみれば、人生そのものが時間でできている。私たちが持っている時間には限りがある。だからこそ、その貴重な時間を、「何時間働いたから、いくら」という尺度だけで切り売りしてしまうのは、少々もったいない。
早くできる人は、早く終える。空いた時間には別の仕事をする。勉強してもいい。街を歩いてもいい。昼から酒を飲んでもいい。何もしなくてもいい。
それでよいではないか。
仕事をみんなで分ける「ワークシェア」も、一人が複数の仕事を持つ「パラレルワーク」も、突き詰めれば同じ方向を向いているように思う。
それは、「一人の人間を、一つの会社が一日中拘束する」という20世紀型の働き方から離れていく発想である。
これから人口が減り、働き手も減っていく日本では、「一人を8時間拘束する社会」よりも、「それぞれが、できることを、できる時間だけ持ち寄る社会」のほうが、案外うまく回るのではないだろうか。
ましてやAIが仕事の一部を担う時代である。人間まで機械の稼働時間のように、「8時間」で測り続ける必要はない。
「さあ、仕事をするぞ」がなくなる働き方
仕事が生活の一部になり、遊びや学び、社会参加との境界線が薄くなっていく。そうなれば、「さあ、仕事をするぞ」と毎朝気合を入れる必要もなくなる。
気がつけば今日も誰かと会い、何かを考え、何かをつくり、誰かの役に立っている。そして一日が終わる。働くために時間を差し出すのではなく、自分の時間を生きた結果、その一部が仕事になっている。私は、そんな働き方がもっと広がってもよいと思っている。
人生は、労働時間を記録するためにあるのではない。仕事も、遊びも、学びも全部ひっくるめて、自分の一日である。そう考えれば、働くことはもう少し自由に、そして面白くなるのではないだろうかと思うのだ。
仕事を時間泥棒にさせてはイケナイと思うのだ。
【記】やく・たたず(屋久 佇(竚))
#働き方
#パラレルワーク
#ワークシェア
#仕事論
#生産性
#時間の使い方
#キャリア
#副業
#AI時代
#人生100年時代
#セカンドキャリア
#働き方改革
#仕事と遊び
#人生を楽しむ
#時間泥棒
#マチアルキスト
