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三宅香帆の配布する「文学サプリ」は必要ない

 評論家の三宅香帆の「批評の文体をひらきたい」という文章を読んだ。想像していたよりもずっと酷かった。
 
 正直、こんな人が「文学」だの「批評」だの言い出したら世も末、と言いたいところだが、私は「世」に期待するのをやめたので、なんと言えばいいかわからない。とにかく酷い、としか言えない。
 
 まず三宅香帆は「文芸評論家」という事を確認しておきたい。Xのプロフィールに「文芸評論家というわりと珍しい職でごはんを食べてます。」とあるので間違いはないだろう。「文芸愛好家」とか「文芸推しのファン」ではないらしい。
 
 その上で「批評の文体をひらきたい」という文章を読むと(よくこれで評論家なんて堂々と言えるな)と驚く。とうとうここまで来たか、という感じもする。
 
 具体的な問題点を上げていく。何が一番問題かと言うと「文体がかっこいい」とか「文体が好き」とか色々言うものの、具体的にその文章が何を語っているのかという「内容」については一切触れていないという事だ。
 
 次のような文章がある。
 
 【もちろん小林秀雄の文体はかっこいい。蓮實重彦も何言っているかよくわからないところはあるが文体はかっこいい。柄谷行人もやっぱり何言っているかよくわからないところはあるが文体はかっこいい。】
 
 とある。かっこいいかどうかではなく、何が書かれ、何が表現されているのかわかっているのか。それがわからない、理解できないのなら「評論家」なんて言えるような身分ではないだろう。
 
 当たり前の話だが、小林秀雄が評価されているのは「文体がかっこいい」からではない。その内容に価値があるから評価されている。かっこいいかどうかで文学者の価値が決められたらたまったものではない。
 
 もっとも、三宅香帆が救い難いのは、「私は小林秀雄は難しくてよくわからなかった。私には合わなかった」と正直に言っていれば問題ないのだが、問題は三宅があたかも自分の価値判断には正当性があるかのように語っている事にある。これに関しては擁護する余地が全くない。
 
 三宅はこれについて次のように書いている。

 【しかしそのどれも、私という読者のほうに、向いている気がしなかった。】
 
 文中の「どれも」というのは小林秀雄や蓮實重彦等の有名批評家の文章を指している。それが「私に向いていなかった」らしい。
 
 「しらんがな」という感じだが、もう少し三宅の意見を見てみよう。三宅香帆はそうした有名批評家とは違い、キャリア途中からの斎藤美奈子や、橋本治、中島梓といった批評家を評価している。何故評価しているかと言うと「女性のほうを向いている文体を書く批評家」だから、らしい。三宅は批評が「一部の男性を向いている」事にずっと違和感を感じていた、と言っている。
 
 結構驚くのだが、何故批評家は女性の方を向いて書かなければならないのだろうか。というか、硬い文体で文章を書いたらそれは「一部の男性」に向けて書いた事になるのだろうか。noteに「おざわようこ」という方がいるが、この人は女性だが真摯に小林秀雄に向かい合っている。「おざわようこ」さんのやっている事は例外なのだろうか。
 
 三宅香帆の文章を一応引用しておくと次のようになる。
 
 【まあ、要は批評が評価されるには、文体が必要なのだ。それっぽく見える、文体が。私は一読者として、そう思っている。
 
 一部の人にだけ書いていますよ、アカデミックから零れ落ちた話をここで説明しましょう、きみたちにだけ、と語りかける文体が。】
 
 三宅はこんな風に書いている。この文章の繋がりから考えると、小林秀雄や吉本隆明や江藤淳もみんな「それっぽく見える、文体」という事になるのだが、彼らの書いているものの内容は関係なく、ただ文体だけのかっこつけで彼らは評価されているという事になるのだろうか。
 
 三宅は橋本治と中島梓が批評の歴史であまり評価されていない事について
 
 【だけど、やっぱり批評史の評価が着いてきているとは思えないのだ。面白いのにね。】

と書いている。これも驚くが、面白いかどうかが評価の基準なのだろうか。
 
 ここまでの段階でも三宅香帆という人物がどこまで酷いのかがはっきりしていると思うが、問題点を最後まで書いておく事にしよう。
 
 三宅の問題は、以上に引用したように「かっこいい」とか「私の方を向いている」とか「面白い」とか言った恣意的な、自分の感覚だけの評価基準しかないにもかかわらず、有名批評家の大半は「一部の読者にだけ向かい合っていた」と事を問題視して、その批評を一般大衆に「開いてあげる」と善人ぶっている事にある。
 
 そもそも有名批評家は本当に「一部の読者にだけ向かい合っていた」のだろうか。三宅はあたかもこうした事を「特権的な人達の閉鎖的な集団」のようにみなし、「それを一般大衆に開いてあげている私」を演出している。
 
 例えば、小林秀雄は一部の読者にのみ向かい合っていたのだろうか。確かに、ある程度読む力のある人間を相手にしている、という意味ではそうだろう。ただ、三宅に決して理解できないだろう事は、小林秀雄の文章は「真実」に向かって開かれていた、という事だ。
 
 小林は初期に「私は貧乏だが自意識というものを持ってる。そしてそれだけで真実を言うには不足はない」と言っていた。私などはこの言葉に感動したものだが、三宅にはその意味は理解できないだろう。
 
 小林秀雄の文章は真実に開かれているのである。正確に言えば、彼は芸術とか文学とかいったものの自立性を批評という形式を通じて成し遂げようとした。その際に、自立性の根底を支えるのはその真実性に他ならないだろう。
 
 何故なら、ある作品が普遍的なものとして感じられ、それが歴史的に残る事が許されるのはその作品が、多くの人にとって真実と感じられるからに他ならない。これは三宅の言う「面白い」とか「かっこいい」とかいう基準とは違うものだ。それよりももっと人間の奥深いところに潜在しているものだ。
 
 しかしこんな事を書いていると私も「一部の読者に向かい合っている」文章だと言われてしまうので元に戻ろう。
 
 三宅はこうした批評の内実、近代的な文学や芸術の成立の事情を一切無視して、批評を外側からだけ見てその特権性を批判し、その特権性を人々に開く自らを地母神の如く見立てている。
 
 これは文学を理解している人間からは文学というものを単純化し、平易化し、パッケージに詰めて安売りしているに過ぎない。
 
 しかし「文学に興味あるけど難しい事を勉強するのは嫌だし、しんどい思いするのは絶対嫌」という人々にとっては、現代の女神たる三宅香帆氏が彼らの元に舞い降りて、「さあ、これを飲めば大丈夫」と飲み込みやすい「文学サプリ」を安価で配ってくれる、という事を意味するだろう。
 
 これを三宅香帆は「文体をひらく」と呼んでいるのだが、そもそもその内実を理解していない人にはそれを開く事はできない。内容を理解していない人がそれを平易化して人々に配布するのは不可能だ。中身がないものにどれだけ包装紙を巻いたところで「空」という事実は変わらない。

 以上のように、三宅香帆の最大の問題点は「私の方を向いている」とか「面白い」とかいった自分の主観が評価基準なのにも関わらず、それをあたかも客観的に意味があるかのように言っている事にある。
 
 しかしこれは現代の大衆社会の傾向であるのも間違いない。そういう意味では三宅香帆は正解である。現代では自分の「好き・嫌い」が全ての価値判断の基準である人が極めて多い。そうした人々と三宅の思考は一致する。
 
 これらの人は地面にねそべってだらりとしているが、三宅はそういう人のところへ行って「そのままでいいんだよ、頑張らなくていいんだよ」と囁いてくれる。「小難しい文体でかっこつけている過去のオジサマ方の代わりに、私がもっと胃にやさしい文章をあげるからね」というわけだ。
 
 これが現代の問題なわけだが、最後に私自身について少し書いておく。
 
 私は三宅香帆とは違い、文章が「自分の方に向いているかどうか」なんて考えた事がない。そうではなく、私はいつも「自分が向こうに合わせなければならない」と感じてきた。
 
 小林秀雄についてははじめの数年間は理解できなかった。気のついた時に小林の文章を読もうとしたが、何を言おうとしているか全くわからなかった。ただそれでも私は「過去の優れた作家はみんな小林を褒めているから小林には何かあるのだろう」と思っていた。
 
 ある時、小林秀雄の「ランボオ1」を読んだ。ごく短い文章で、小林が学生の時に書いたものだ。私は読み終えて、全く意味がわからなかった。しかし(ああ、これは何かわからないが、凄い)と感じた。
 
 その時から私は小林が読めるようになった。わからなかった意味もするすると飲み込めるようになった。もちろん、全てを理解できたわけではない。ただ小林が一体「何」を追っているかが、はっきりとわかった。
 
 私は一年くらい小林秀雄ばかり読んでいた。私は小林の影響を受けているし、文章も影響を受けていると思う。私は小林が好きで読み過ぎてしまったので、どこからどこまでが私が考えた事なのか、小林が言った事なのか、わからなくなった。
 
 言ってみればそれは食べたものが消化され私の肉体の一部となったので、今更それを分離しろと言われても無理だ、というような事だ。
 
 私はこんな風にして小林秀雄を読んだ。この経験のどこかに小林が「私の方を向いていない」問題があったか。小林が特権的な一部に向かって書いた為に生じた障害があったか。三宅香帆のくれる文学サプリを飲む必要があったか。
 
 私はただ、私を小林秀雄に向かって開いていく必要を感じていただけだ。小林が私に自分を開く必要などない。私が相手に向かって自分を開かなければならない。

 何故かと言えば、私は人生の入口にぼうっと突っ立っていた若造でしかなかったからだ。私は自分より高い人々から何かを学び、その人達と同じような場所にたどり着けるだろうかと人生のとば口に立っていて慄いていた。

 私は高所から高い人々が降りてくる必要など全く感じていなかった。ただ、これから目の前に聳える山に対して、自分がどこまで登る事ができるのか、それだけが怖かった。私は自分に期待を持っていたが、恐れてもいた。
 
 私自身はせいぜい山の麓から一合目か二合目まで登ったところで人生を終えるかもしれない。しかし、それで後悔しているわけではない。

 ただ私にとってはっきりしている事は三宅香帆のような現代の「女神」がお気楽に配布してくれる「文学サプリ」を飲む必要など一切感じていなかった事だ。そんなものがなくても、自分の足で歩ける。

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