"現象"としての北村紗衣
目下、年間読書人さんが闘争中の北村紗衣について文章を書こうと思います。北村紗衣は批評家という肩書になっていますが、私は北村紗衣という人を批評家とは思っていません。今流行りのインフルエンサーと呼んだ方が正当だと感じます。
さて、北村紗衣について文章を書き始めましたが、困った事に、この人物は自分に対する批判を弾圧する事で知られています。「弾圧」と呼ぶのはアンチの言いがかりだ!と怒る人もいるでしょうし、それでは何と言えばいいでしょうか。誹謗中傷に対する正当な力の行使、とでも呼べばいいでしょうか。とにかくそういう事が得意な人です。
中には北村紗衣に訴えられて賠償金を払った人もいますし、他にも記事を削除されたり、色々な事があったようです。noteで批評を書いている年間読書人さんも記事を削除されていました。
北村紗衣は、年間読書人さんが「北村紗衣の本を徹底的に批判する」という意味で「こんど、北村さんの本を読んで、きっちり切り刻んでやろうかな(笑)」と書いたのを意図的に、「物理的に本を切り刻む」と曲解して、批判していました。おそらくはそんな感じでnoteの運営に通報したのでしょう。
こうして文章で書いているだけで虚しい気持ちが襲ってきますが、私はこうしたやり取りを読んで(仮に、年間読書人さんが本を切り刻むとしてそれの何が駄目なのだろう?)と思いました。人の本を買ってきて家で勝手に切り刻む分なら私には特に問題ないと思われます。
もちろん、年間読書人さんはそんな意味で言ったわけではないし、あの文章を読んでいればそれは誰でもわかります。北村紗衣はそれを意図的に曲解し、文章の切り取りを自分の信者に見せて、相手を攻撃しているわけです。
なので、この文章も一部を切り取られて、私自身が攻撃される可能性があるわけです。私も以前は(北村紗衣について文章を書いてアカウントを削除されても虚しいだけだな)と思っていたのですが、今回は書く事にしました。
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北村紗衣とその取り巻きに対して安心していただきたいのは、私は何の力もない、金もなく権威もない孤独な個人であるという事です。北村紗衣がその力を使えば踏み潰すのは簡単でしょう。
ただ、私は小林秀雄が言っていた「貧乏で自意識があれば、真実を語るのに不足はない」といった心持ちで文章を書いています。(この言葉に関してはうろ覚えですが。)
私は小林秀雄が好きですが、それとは違い、北村紗衣は下記のようなツイートをしています。引用してみます。
「saebou@Cristoforou 9月1日
あなたがいくら何を言おうと、私これまで2冊映画の本を出してて(1冊目は賞もとってます)、これから出る映画の本も1冊あるんで、夜中に女性を脅して映画ファンを遠ざけてるあなたよりはるかに多くの人に映画の楽しさを届けますよ。」
…よくもまあ、こんな事を平気で呟けるなあと逆に感心しました。ポイントが高いのは(一冊目は賞もとってます)というコメントです。
この文章だけでも、北村紗衣という人が、権威主義者なのがよくわかります。北村紗衣という人は私の認識では、権威主義と、自愛と、大衆に対する媚とが結合した人物です。しかしその内部にあるのはガランとした空虚であり、この空虚は北村紗衣を支持する大衆の空虚と合致したものだと思われます。
この空虚というのは、パスカル的に言えば「自分を惨めだと思わない人間はその人間自体が惨めである」というような事です。ここでは「対自性」というのが問題になってきますが、まあ、こんな難しい話をしても、ちんぷんかんでしょうし、ここらでやめましょう。最もこの問題については後で触れます。
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北村紗衣について思う事をいくらか書いていきましょう。
北村紗衣とその支持者についてネットで検索して意外に思ったのは、映画の感想で知られている三角絞めという人が北村紗衣を擁護していた事です。下記のツイートです。
「カミヤマΔ@kamiyamaz
北村紗衣先生、降りかかる火の粉を払ってるだけなのに、「どっちもどっち」とか言われちゃうの本当に可哀想。午後1:36 · 2024年9月1日」
私は三角絞めという人を多少知っていたので、これを意外に思いました。どうしてこの人が擁護しているのだろう?と思いました。
それでネットで調べていたら、ごく簡単な事実がわかりました。北村紗衣は、ラッパーの宇多丸と仲が良いようです。宇多丸が北村紗衣の本の帯を書いています。宇多丸のラジオに北村紗衣が呼ばれたりしています。
それで、三角絞めという人も、宇多丸のラジオの熱心なリスナーで、その経緯で、リスナーからは演者の一人になって、そこから名前が知れた、というような人です。要するにここでは、
北村紗衣ー宇多丸ー三角絞め
という人間関係ができており、そういう仲間意識故の擁護だろう、というのが想像できました。
そもそも北村紗衣の映画評論というのは内容空虚で論じるに値しないようなものです。まともな映画好きならば、北村紗衣の映画評論を肯定する事はないと思いますが、三角絞めという人は、宇多丸らとの人間関係の中で北村紗衣を擁護しているのでしょう。また、北村紗衣を擁護している人の中には宇多丸のラジオのリスナーもいるようです。
こう書くと、私が宇多丸やその取り巻きを嫌い抜いているように思われるかもしれませんが、私は宇多丸の映画評論の一部は評価しています。宇多丸の初期の映画批評は好きでよく聞いていました(「ルーキーズ」への酷評なんかが面白い)。過去の私の文章を検索すればそれが出てくるはずです。
私の宇多丸に対する評価を書くと長くなるのでやめますが、私は宇多丸という人は、評論としてはたまに良い評論をするというイメージを持っていました。ですが、ある時期から、周囲に気を遣うようになったのか、初期の言いたい放題のやり方を変えて、周囲の人間に気を遣った、おとなしい批評になって、それから宇多丸の評論を聞く事はなくなりました。
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さて、本題の北村紗衣に対して批判、まあ、称賛でも構わないですが、言及としては、実を言うとまともにやる気がありません。なにせ、北村紗衣の連載のタイトルが
「あなたの感想って最高ですよね! 遊びながらやる映画批評」
であり、なおかつ、北村紗衣の新刊のタイトルが
「女の子が死にたくなる前に見ておくべきサバイバルのためのガールズ洋画100選」
だからです。そもそも、真面目に「批評」というものをする気がない、というのがタイトルから伝わってきます。
(私のイメージする批評とは、小林秀雄とかヴァレリーとか、ジッドとか、バフチンです。女性がいない!というのであれば、スーザン・ソンタグですかね。シモーヌ・ヴェイユの文章を批評と呼ぶのが許されるならヴェイユを選びたいですが)
特にひどいのが「あなたの感想って最高ですよね! 遊びながらやる映画批評」であり、これに対する批判は既に年間読書人さんが行っています。
「あなたの感想って最高ですよね!」というのは、私は大衆社会を象徴する言葉だと思いました。私はすぐひろゆきの「それってあなたの感想ですよね」を思い出しました。(ちなみに「それってあなたの感想ですよね」は、相手の言っている事が「ただの主観」でしかない事を揶揄した表現です。(そもそも、純粋な主観がありうると前提する事が間違いですが))
「あなたの感想って最高ですよね!」
「それってあなたの(ただの)感想ですよね」
というのは一見、正反対に見えますが、両方とも、今の大衆の知的水準、つまり「みんな違ってみんないい」という大衆的倫理を表す言葉であると思います。
まず「あなたの感想って最高ですよね!」というのは、裏では、そう言っている北村紗衣自身の感想もまた「最高」だという事を言おうとしていると思います。要するに批評だ評論だといった小難しい事はいいじゃないか、ざっくばらんに素人考えを堂々と話そうじゃないか、うるさい映画オタクは置いておいて「みんな違ってみんないい」で行こうじゃないか、といった、今の大衆が好きな姿勢を表しています。
これは素晴らしい考えのように見えますが、その裏では、北村紗衣のもう一つの姿勢である極端な権威主義というものと密接に関わってきます。北村紗衣が、自分の取り巻きが自分の「敵」に対して攻撃するのを黙認している、というのは、「あなた」という「単数」はただの「一」でしかない、つまり、人間というものから、その内面の複雑さや深さといったものを捨象し、純粋な単数形として数え、その為にそうした単数を束ねた「大きな数こそ力だ」、というそうした姿勢を表しています。
何を言っているかわからない、と思われるかもしれませんが、言いたいのは簡単な事です。本来で言えば、批評に必要なのは人間的な、内面的な深さです。小林秀雄の文章が晦渋なのは、彼がいつも自分と対話しながら文章を書くからです。しかしそもそも、今の人には「自分と対話しながら」という言葉の意味がわからないでしょう。
北村紗衣は「【お砂糖とスパイスと爆発的な何か】発達障害と診断された私~ASDとADHDだとわかるまでに出会った本や映画について(北村紗衣)」という文章をnoteで書いています。そこにはこんな文章が出てきます。
「病院では「薬を飲んだからといって人の気持ちが急にわかるようになるわけでもありませんし」と言われたのですが、その時思ったのは、「別に今から人の気持ちがわかるようにならなくてもいいのでは?」ということです。そもそも、今まで私は39年、人の気持ちがよくわからない状態で暮らしてきて、それが自分としては平常の状態でした。映画とか小説ではなく日常生活で「人の気持ちがわかる」というのがどういう状態なのか私にはよく理解できず、飛行機を操縦するとか細密画を描くみたいな、やったことのない特殊技術と同じくらい遠いものに思えます。」
上記の文章にあらわれているのが、北村紗衣という人の中にある空虚であり、この空虚そのものは、北村紗衣本人が紡ぎ出す文章よりももっと興味深いものだと思います。また、北村紗衣に惹きつけられる人も、こうした北村紗衣の持っている素質に惹かれるのではないかと思います。こうした素質は北村紗衣が人為的に生み出したものではないでしょうが、しかし、北村紗衣という人がこれまでやってきた事を考えれば、断罪されても仕方ないだろうと私は考えています。
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話を戻すと、北村紗衣が権威主義者である事は、そもそも、自分の評論に自信がないからだと思います。もっと言えば、そもそも北村紗衣という人は、他人の気持ちがわからないのと同様に、自分という人間がわからず、把握できず、いつも不安であり、それ故に、自分の側に権威があると虚勢を張ったり、自分を否定する人間を徹底的に否定して、その反動としての自分を肯定しようとしているのだと思います。
そして同じような心性の人間が北村紗衣に賛同するのだろうと思います。ただ、こうした状況で蔑ろにされているのは「批評」そのものです。
以前から繰り返し言っている事ですが、今の時代、社会においては、それぞれの人間がみんな自分をちやほやしてくれるもの、自分を肯定してくれるものを探しています。だから「本当に優しい人はあなたに厳しい人の事だ」なんて言ったところで、今の人には通じないでしょう。そこでは「優しさ」や「厳しさ」といった概念が極めて直線的にしか把握されず、しかもその薄っぺらい把握が「論理的な正確性」と誤認されています。
自己肯定というのはデカルトのコギトに端緒があるわけですが、要するに神という絶対的な客体性の存在が、人間の側に移譲し、二十世紀あたりからは、人々の群れの肯定=大衆の肯定という方向に向かっていきました。(近代の偉大な人々は神と人間とのバランスを取ろうとしました。ゲーテやヘーゲルを見ればそれが明らかです)
私の好きな小説で「月と六ペンス」というモームの作品があります。主人公は芸術家で、四十を過ぎたあたりから、家族を捨てて、絵を描く事に邁進し、そのまま野垂れ死んでいきます。彼は死後に「天才」という事になるのですが、生前の彼は狂気に取り憑かれた天才として人生を疾走していきます。
モームが現代の人に伝えたかったのは、簡単に言えば、何か自分を越えるものに全てを賭ける、自分の身が破滅したとしても、自分「以上」のものへと邁進する、そうした人生の高貴さではないかと思います。
モーム自身は「月と六ペンス」の主人公のように、純粋な芸術家タイプではなく、大衆小説も書ける、世俗的な要素のある人でした。ですが、そうした人だったからこそ、おそらくは内心で自分に忸怩たる思いがあり、自分の中で精錬された、自分の半身であり、理想であり、また敵でもあるような、純粋な芸術家としてのキャラクターを精緻に描けたのでしょう。それはモームの半身であると同時に、モーム自身が「そうなれなかった人物」であると思います。
「月と六ペンス」の主人公と語り手、狂気と常識という二つの要素に、モームという人間の複雑性は分割され、作品においてはそれが見事に表現されています。
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北村紗衣に話を戻すと、そもそも北村紗衣の評論には誰も興味がないと思います。興味があるのは、北村紗衣本人のパーソナリティでしょう。
年間読書人さんは北村紗衣のパーソナリティや容姿を絡めた批判を行っています。これは本来であればあまり褒められた事ではないでしょうが、そもそも北村紗衣という人を論じる場合、評論それ自体の客観的な価値というのは、おそらくは作者本人にも信じられていないでしょうし、その評論を真面目に批評する事はそもそも不可能な構造になっているので、批判するにしても称賛するにしても、北村紗衣本人の世俗的な地位や容姿や性格を問題にせざるを得なくなります。
そもそもで言えば「あなたの感想って最高ですよね!」という時点で、「あなたの感想」を感想として客観的に見て、具体的に深く読み取ってその価値を測定するという吟味過程が皆無であり、このセリフ一つでそもそもこの人物が「批評」全体を蔑ろにしているというのがよくわかります。
要するにここで肯定されているのは「感想」の方ではなく、「あなた」の方であり、また北村紗衣本人なのでしょう。「あなた」の感想が全部最高なら、苦心惨憺、例えば部屋の中を這いずり回って文章を書いている小林秀雄のような存在はどうなるのでしょうか。まあ、小林秀雄なんていう古い人はどうでもいいんでしょうが、文章の価値に自分の全てを賭けている昔の「文士」はどうなるのでしょうか。
つまり「あなたの感想って最高ですよね!」の時点で、感想それ自体はどうだっていいという事です。なにせどんなにくだらない感想を書き記したところで、それはそれで「最高」であり、その反対に、どこかの玄人が作品を深く読み取った感想を書いたところで、それはくだらない感想と同列の「最高」でしかないからです。
これは以前から言っている大衆的天国です。「みんな違ってみんないい」の論理です。みんなが全てそれぞれでいいのであるなら、全ては並列になり、全ての人は「一」という単数として計数されます。その内面の複雑性は捨象されて。この単数の一人が「自分の感想は深い考察の末にたどり着いたものだから他のへぼな感想より良いんだ!」と叫んだところで、すぐにひろゆきの次の言葉が飛んできます。
「それってあなたの感想ですよね」
要するに全てがフラットで、すべてのものが等価値に「最高」ならば、突出した「玄人」は存在し得ないという事です。
さて、こうして全てが単数に還元されるのであれば、この数を束ねた人間が一番えらいという事になります。北村紗衣が平然と黙認している、北村の信者が敵を攻撃するいわゆる「ファンネル攻撃」というのに意味があると目されるは、全ての個人はみな等価値なので、その「数」をたくさん率いている「人気」の北村紗衣の方に正義があるという論理の故でしょう。
このあたりは相互依存的な関係にあるのではないでしょうか。北村紗衣がやたら素人向けのタイトルの本を出すのは、多くの人間に認証されないと不安である、自己確立できていない人間だという事でもあり、また、多くの不安な個人は、北村紗衣のような人物が大学の先生で権威のある、そういう人が自分達素人に近寄ってきてくれているのを好ましく感じるのではないでしょうか。
このあたりは、以前から言っている腐敗したアカデミズムと、大衆への媚びが融合したものだと思います。堕落して、しかも金のないアカデミズムや権威は大衆にすり寄る事によって社会的認証と金銭を得ようとし、また、知的努力をしない大衆は、そうした権威が自分達の方に降りてくるのを好感する。
わかりやすい架空の例を出すと、「大谷翔平が立ちションしたのを聞いてニンマリする人々」といったようなものです。大谷翔平という凄くて偉い人が、実は立ちションしていた、と聞くと人々は安心します。人々は高いものが低いところへ降りてくるのを好みます。というのは、彼らは努力して高みへ登ろうとは決してしないからです。
この文章を「"現象"としての北村紗衣」としたのは、北村紗衣という人が今言ったような、腐敗した権威と、大衆への媚びという要素を統合した現代的な存在と感じるからです。
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北村紗衣のやっている批判に対する対応は、私には昔のマルクス主義を思わせます。批判に対して批判で答えるのではなく、批判者そのものを「削除」していく、という方法です。
正義の主張、正義の行使というのは、たやすくその反対の(と見える)悪へ転んでいきます。歴史を顧みれば、これは日常茶飯事です。
また、北村紗衣とその取り巻きはいつも北村紗衣が誹謗中傷されたから仕方ないという風に言っていますが、加害意識は被害者意識と表裏一体です。
正義なんていうものは所詮は相対的なものでしかないので、それが悪へと転換するのはよくある話です。というか、悪はその内部においては正義に見えます。ナチスドイツは、ユダヤ人から受けた「被害」を強く意識していた為に強烈な加害を行いました。まともに、歴史とか文学とかを勉強していればこんな事はすぐにわかります。
しかしこうした事を理解できないのを見ると、こうした人達は歴史を見る目がなく、過去を見る目がなく、他者の立場に立つ事もできなくて、いつも自分の立場の正当性しか見えません。
もちろん、理性の弱い人々にはいつも自分達の正義しかありません。他者とか相手とかは存在しません。それでも人は生きていけます。人というのは、そもそもで言えば狂気の内にいないと生きていけないのかもしれないと最近私は思っています。
私も、自分の作り上げてきた理性の中にいて日常生活を送るのは不可能です。例えば友人が下手くそな詩を作って見せてくれば、それが駄目なものでもとりあえず褒めます。自分の知性を全開にして日常を生きる事はそもそも不可能なのではないか。
ですが、そうした事実が存在する事と、その事実が「正しい」と理性的に思い込もうとする事は違う事実です。その事実が存在するからといって、それを全面的に「正しい」とするのは間違いです。
三角絞めという人は、北村紗衣を人間関係故に擁護しようとしたのでしょうが、この発言は将来に禍根を残す可能性があると私は思います。北村紗衣がもしも「偽物」だったら、三角絞めという人もまた偽物を掴まされた可能性があるからです。
例えば、ジャンヌ・ダルクという人が過去にいて、彼女は今では聖人という事になっていますが、彼女は死ぬ時には犯罪者であり、群衆の見物の中で火炙りになって殺されました。「今」という地点に立って過去を振り返り、「ジャンヌ・ダルクは聖人だった」というのは簡単です。ですが、今のネットで正義を振りかざしている人々が、本当にその「当時」に、そう思う事は可能でしょうか?
国家権力が承認し、社会が承認し、群衆が承認した犯罪者を焼き殺す、それが大いなる不正義だという事はありうるでしょうか? 同時代を見ればそんな事は絶対にありえないように見えます。あるいはありえない事と思い込みたいところです。
しかし歴史を振り返ればこんな事はよくありました。キリストが磔になるのを喜んでいた群衆、この群衆が千年後にはキリストを深く信仰し、またキリストの「権威」によって他者へ暴力を振るおうと、私は全く驚きません。キリストは「当時」にあっては犯罪者であり、それから時間が経てばそれはもはや「権威」そのものだからです。
「勝てば官軍」という力の論理で力ずくでやればその瞬間だけは強烈に勝つ事ができるかもしれません。権威・裁判での勝利・大衆からの承認。北村紗衣を取り巻く要素はまさにそうした力の論理であり、力に抗する精神の論理(私はキリストという存在は世界に"精神"を表した存在だと考えます)とは異質なものです。
例えば、歴史家の司馬遷には、自らが同時代の中では不遇であり、腐刑を処された人間ではない存在である事を自覚し、その正義を歴史の流れに委ねました。中国には、地上的権威とは違う天上的権威、すなわち「天」の概念が歴史的に生きていて、それが地上的権力への対抗として、すなわち私の言う「精神の論理」として働いていたように思います。
今の中国にはもはや「天」は消失し、それ故に、例えば毛沢東や習近平といった個別的な絶対的権威が全ての価値を決める放射物となっているようです。論理が一つしかなく、その中央には地上的権威しかない。しかしこうした世界もまた、歴史の大きな流れにおいては、より大きな「天」の論理によって裁かれていくのではないかと私は思います。この地上における正義がそのまま正義だと無邪気に信じ込む事は、キリストの磔に狂喜していた群衆の方に絶対的正義があると考えるようなものです。
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北村紗衣とやや離れた話になってしまいましたが、最後にざっくりとまとめたいと思います。
ネットで北村紗衣について検索すると、北村紗衣への批判はあまり見当たりません。北村紗衣の、誹謗中傷を取り締まる立派な行動のおかげで彼女への批判は沈黙しているようです。
ですが、表面的な批判が消えても、潜在的な批判は残っています。年間読書人さんの「私の記事「北村紗衣という人」(2024年8月30日付)が、通報削除されました。」という文章には「いいね」が600近くつけられています。
この文章に「いいね」をつけている人は、おそらくは、直接的に北村紗衣を批判すれば何をされるかわからないので、直接関わりたくはないが、北村紗衣に対する批判的意識を持っている人達だと思います。そうした人は、見えない形で潜在的に多くいるのでしょう。
北村紗衣が周囲に強いている環境は、彼女に対する批判を封殺し、彼女への賞賛しか許さない、そうした世界でしょう。それが彼女の理想郷であり、やりたい事なのでしょう。まわりには信者と取り巻きしかおらず、批判者は誹謗中傷のレッテルを貼られて排除される。しかしこうした人物に対する批判精神そのものを眠らせる事はできない。面従腹背という言葉があるように、表には出していなくても、人の心は常にブラックボックスだからです。
北村紗衣が全く、文学にしろ映画にしろ、作品の深みを感じ取る事ができず、精神とか心とか観念とかの深さが全くわからず、それ故に表面的な賞を取ったとか取らないとかいった権威主義に走るというのはある意味で当然の事です。しかし、そういう世界観の中に文学や映画といったものは収まりません。むしろ、優れた作品はそれとは反対の特徴を持っています。
本居宣長は、源氏物語を勧善懲悪的な、道徳的な見方から離れて、「もののあわれ」という観念で考えるべきだと唱えました。これは源氏物語という作品を政治的に読み解くのではなく、その心の深さによって読み解いていくべきものだという批評精神の現れと私は解します。本居宣長は極端な政治思想を持っていましたが、同時に「心」によって文学作品を読み解くべきだという当たり前の文芸批評精神を持っていたのだと思います。
北村紗衣は自分自身と対峙した事もなく、他人の心と対峙した事もないので、というより心と対峙するという状況それ自体が理解できないため、表面的な語句や論理を追いかけ回す事に終始しています。ひろゆきが称賛されるのと同じ事態ですが、人間の深さが理解できない人々にとってはこうした人達の紡ぎ出す表面的な論理は「頭の良さ」「正解」を出しているように思われるのです。
ドストエフスキーの作品に現れる人間はいつも矛盾を抱えていますが、それは人間というものは矛盾を抱えた複雑な存在であるからです。「人間とは矛盾した存在である」と考える事は、その観念それ自体としては矛盾していません。しかしこの人間を薄っぺらい単数形と捉え、心を虚脱させ、チェスの駒のように捉える事は、論理としては極めて正しいように見えるのですが、それは人間の本質、その深さ、すなわちドストエフスキーとの関連で言えばその矛盾性によって、「正解」それ自体が引き裂かれてしまうのです。
ここに文学作品を愛する人と、文学作品が全く理解できない人との間に大きな溝ができます。文学作品がくだらないガラクタにしか見えない人は、人間の深さというものがわかりません。しかしこの深さは潜航している為に、どのような表面的な論理でも捉えられません。
「文学作品の良さを科学的に証明してみろ! じゃなければ、文学の価値を俺は認めない!」といった人間がいるとして、彼にその良さを伝えるのは不可能です。この世界は一つの物差しでは測れないという真実を、彼に特有の一つ物差ししか持っていない人に伝えるのは元来不可能なのです。
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長々と書いてきましたが、このあたりでこの文章は締めようと思います。元々、北村紗衣についての文章は私は書かないつもりでした。北村紗衣に絡んで通報されたり、取り巻きに嫌がらせを受けたりされたら嫌だなと思っていたからです。もちろん、こうした自己規制を生む事自体が、言論弾圧の正体です。しかしそれを強いている側は(あなたが勝手に自己規制しているだけでしょ)と言う事ができます。いつの時代でもこんなものです。
私がこの文章を書こうと思ったのは、北村紗衣の批判封殺があまりにもひどいところまで行ってしまったと感じたからです。おそらくこれは北村紗衣の最初の意図よりも外れて、大きく拡大してしまったものではないでしょうか。
小さな範囲であれば、一般人からすれば、「フェミニストとオタクがなんかやってるな」ぐらいで済むでしょうが、今の感じだと、普通の人間の普通の言論すら抹殺されかねない状況です。なにせ、徹底的に批判するという意味で「本を切り刻む」という言葉を物理的に「切り刻む」と曲解されて、非難される、そんなところまで行ってしまっているからです。
ここまでくると、北村紗衣についての文章を書いただけで、好きなように曲解され、どのように攻撃されるかわかりません(しかもそれは「正義」らしいのです)。全く攻撃の意図のない文章だとしても、北村紗衣の曲解はその信者からすると「自由」らしいので、ひどい目に合う可能性があります。
ここまで来ると、もう誰も北村紗衣については触れようとしないでしょう。まともな人は触れようとせず、あるいは陰でこそこそと文句を言い、まわりにいるのは盲目の信者ばかり、という状況が現れています。そしてこれは北村紗衣という個人の精神構造の現実化なのだろうと思います。
まあ、それはそれで結構でしょうし、北村紗衣が表面的な理屈で人を断罪するのは正義であり、北村紗衣が批判を受けるのは全て「誹謗中傷」だとしても、この構造がそれほど長く続くのは無理だと私は思います。ここには明白な不均衡があって、その不均衡はやがて是正されていかなければならないからです。
私自身は今は北村紗衣がそれほど嫌いでもなく、全く興味が湧かなくなっていますが、しかし北村紗衣が現代の大衆性を代表していると考えるとそれなりに興味深い現象なのではないかと考えています。それは、先に書いたように、堕落した権威と、大衆への媚び、そして深さの否定、「遊び・趣味性」の誇張、玄人の排除、といった現象です。
堕落した権威と大衆への媚びというのは、例えば、今の政治家が、普段はまわりからは「先生」などと呼ばれて威張り散らしているのですが、選挙になると票を入れてくれる大衆に媚びへつらうといった現象と同じです。こうした現象は北村紗衣一人のものではないと思います。
これが今の社会状況であり、以前から言っている事です。北村紗衣という人はこうした状況を代表する人物の一人だと私には思われます。そしてその中心にあるのは、北村紗衣本人の心にある空虚であり、その空虚は空虚として意識されないが故に、外側に向かって過剰な攻撃性として現れてきます。(あるいはその攻撃性は、反動としては、急激な鬱状態のようなものとして現れているのかもしれません)
ちなみにこういう風に書くと、「北村紗衣の心は空虚だと言うのは誹謗中傷だ!」と怒る人がいるかもしれません。そういう人には、こう答えましょう。「そもそも全ての人間の心は空虚であるが、その空虚さを自覚できない人はより一層空虚である」と。他人の誹謗中傷に目くじらを立てる前に、まず自分の内部にある言葉と対話した方がいいように私は思います。キリストは当たり前の、次のような言葉を吐いています。
「なぜ、兄弟の目にある塵を見ながら、自分の目にある梁(はり)を認めないのか。」
私はこの言葉を、原始的な自己認識の言語として解しています。つまり、自分の目にある梁に気づく、という意味での自己認識・自己との対話です。しかしこの言葉の意味も、自己認識がない人には理解できないでしょう。
彼らには永遠に自分の目の中にある梁が見えない。いつも見えるのは他人の目の中にある塵だけです。そして彼らはその塵を払うために、この地上をどこまでさまよい歩き、そうしてとうとう自分自身から逃れる事ができず、どこかで力尽きて倒れるのです。他人の目の塵を払う事に専念させていたのが、自らの心の中にある梁であった、という真実に、彼らが決して到達する事はありません。
おそらく北村紗衣も自分自身に到達する事は決してないでしょう。それ故に彼女は永遠に、救済されざる輪廻のように、自己を肯定する為に権威と融合しようとし、敵対者をもぐら叩きのように叩き続けなければならないのでしょう。これは、俗人に課せられた天罰と見る事もできるでしょう。
