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細胞は戦う。そして、泣く。

白い 侵食

蛍光灯の白い光が、剥き出しの廊下を舐めていた。 それは死んだ魚の腹のような、生気のない白さだ。

ケンジの足音は、湿った静寂に吸い込まれては消える。 「……また、これか」

乾いた喉から絞り出した呟きが、白衣の襟元で霧散した。 指先が、震えを隠すようにピペットを置く。

ガラス皿の底。 そこでは、細胞が蠢いていた。 単なる物質の塊ではない。 石をひっくり返した時に這い出してくる幼虫のような、光を嫌う不気味な律動。

「ねえ、ケンジさん。これ、本当に見てるの?」 背後から、アユミの声がした。 低く、湿り気を帯びた声だ。

「見ているさ。網膜に焼き付くほどにな」 ケンジは顕微鏡から目を離さずに答えた。

「でも、これって、私たちが作ったものじゃない。別の何かが、皿の中で勝手に呼吸を始めたみたいで……」 アユミの指が、発光するモニターを指した。 滑らかな滑り台のようだった曲線が、断崖絶壁のごとく叩き落とされている。

「肉の塊が、溶けるように縮んでいる」
「……半分か」 ケンジは呟き、その言葉の重みを舌の上で転がした。 じりり、と鉄の味がした。

「半分って、たった数時間で?」
「そうだ。計算じゃない。これは、彼らの絶叫だ」

インキュベーターが、胃袋を鳴らす獣のような唸り声を上げている。 吐き出された論文の草稿からは、鼻を突くインクの脂臭さが立ち上った。

窓の外、街灯の黄色い円を、黒い影が横切った。 一匹の猫が、重力を嘲笑うような軽やかさで、闇の向こうへと消えていく。

凍る 鍵穴

同じ時刻。 地の底に近い地下実験室。

そこには、太陽の光を知らない沈黙があった。 ユウコは、霜の降りた結晶を抱き抱えるようにして立っていた。

冷凍庫を開けた瞬間、刃物のような冷気が肺を刺す。
「……っ、冷たい」

「交代するか?」 タカシが背後でコートの襟を立てた。

「いいえ。この冷たさが、今は心地いいわ」 ユウコは結晶を顕微鏡のステージへ、割れ物を扱うように滑らせた。 接眼レンズを覗き込む。

「牙を、剥いたわね」 タカシが、自分の吐息が白く濁るのを眺めながら、呼吸を止めた。

「見て。噛み合っているわ」 ユウコの視界の先。 複雑に絡み合った分子の鎖が、古びた門の錆びた鍵穴に、新しい鍵が吸い込まれるように密着していた。

メタノールがその隙間に滑り込み、火花を散らす。 目に見えない爆発が、エネルギーを産み落とす。

「これが世界を変える、鍵の音か」 「いいえ。これは、扉を壊す音よ」

足元の床には、冷え切ったコーヒーのカップが転がっていた。 表面には、澱のような膜が張っている。 誰も、その泥のような苦みさえ思い出そうとはしなかった。

静かな 絶滅

遠く離れた大陸。 砂漠の砂を噛むような熱気の中で、マルコスは膝を付いていた。

「また、これだ」 刷毛で砂を払うと、石化した時間の断片が顔を出した。 化石。 だが、その骨格はあまりに細く、脆い。

「これで八体目ですね、先生」 ソフィアが、汗に汚れた額を拭いながら言った。

「ああ。前の層のものより、さらに三割は小さい」
「進化……なんでしょうか」

「進化、なんて言葉で片付けたくはないな」 マルコスは、骨を愛撫するように撫でた。
「これは逃走だ。生き残るために、彼らは自分の体を削り取った。絶滅という名の壁にぶつかる前に、自分を捨てて、隙間を通り抜けようとしたんだ」

「でも、結局、ここに埋まっている」
「そうだ。逃げ切れなかった。だが、その執念だけは、数百万年経ってもこの骨に刻まれている」

砂嵐が、テントの布を激しく打ち据えた。 埃が舞い上がり、二人の間に壁を作る。

「先生、私たちも、いつかこうして削られていくんでしょうか」
「……予兆は、もう始まっているかもしれないな」

清掃員がモップで床を叩く。 一定の、だがどこか焦燥感を煽るリズムが、展示室の廊下に響き渡っていた。

刺さる 液体

数ヶ月後。 病院の空気は、消毒液の匂いに焼かれ、無機質な静寂に満たされていた。

看護師のミズキが、患者の青白い腕に指を添える。
「少し、熱くなりますよ。我慢しなくていいですからね」

注射器の筒の中に、あの夜の「刺客」たちがいた。 牙を研ぎ澄まされた細胞の末裔たちが、透明な液体に揺られている。

針が皮膚を破る。 静脈という名の、暗く濁った川へと彼らは放たれた。

「……う、あ」 患者の胸が、激しい鼓動で大きく波打った。 モニターの電子音が、誰かの悲鳴を代弁するように、部屋の空気を切り裂く。

廊下で壁を背負うケンジの背中に、冷たい汗が伝った。 「震えているんですか、ケンジさん」 隣に立つアユミの声が、鼓膜を痛烈に叩く。

「……マウスの叫びは、あんなに小さかったのにな」
「人間だって、声は出しませんよ。今は」

「いいや、聞こえる。細胞が、新しい領土を奪い合うために、既存の秩序を食い破る音が」 ケンジは拳を握りしめた。 指の関節が白く浮き上がり、爪が掌に食い込む。

扉が、軋んだ音を立てて開いた。 ミズキが顔を出した時、その表情には絶望も希望も、まだ何も記されていなかった。 ただ、重い沈黙だけが、彼女の背後から溢れ出してきた。

滲む 境界

夜明け。 紫色の闇が、研究室の窓に脂のようにへばりついていた。

ケンジは、空になったガラス皿を見つめていた。 あの獰猛な生命たちは、今頃、一人の男の体内で嵐を巻き起こしているはずだ。 敵を食らい、自らも壊れながら。

「……コーヒー、もう一杯飲みます? 胃が荒れますよ」 アユミが、湯気を立てるマグカップを差し出した。 カップの底が、机に触れて鈍い音を立てる。

「眠れないのか、アユミ」
「ケンジさんの横顔が、あまりに化石みたいに動かないから」

ケンジは力なく笑った。 頬の筋肉が、何年も油を差していない機械のように強張っている。

「なあ、アユミ。細胞って、泣くと思うか」
「……泣く、ですか」

「死ぬ間際、あるいは生まれ変わる瞬間。彼らは何かを叫んでいるんじゃないか。俺たちが、それを数字やグラフに置き換えて、聞かなかったことにしているだけで」

アユミはしばらく考え込み、それから窓の外を見つめた。
「……戦っていることだけは、確かです。言葉なんていらないくらい、必死に」

「そうだな」 ケンジはコーヒーを啜った。 舌を焼くような熱さが、喉を通り、胃に落ちる。 その不快なまでの刺激だけが、自分が今、この冷酷な世界に立っているという唯一の証明だった。

五つの場所に灯った光。 それらは互いを知ることも、交わることもない。 石の下の叫び。 氷の中の契約。 砂に埋もれた執念。 量子の沈黙。 そして、網膜を焼く光。

それらはすべて、一筋の細い、だが強靭な糸でつながり、巨大な扉を叩き続けている。 扉の向こうで待っているのが、眩い夜明けか、それとも底なしの泥沼か。 その答えを知る者は、まだ誰もいない。

雀が一羽、冷たい空気に羽音を響かせて飛び立った。 夜が、終わろうとしていた。

この物語はフィクションです

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蘇芳 誠(すおう まこと) 「利益」をもたらすコンテンツは、すぐに廃れます。 不況、インフレ、円安などの経済不安から、短期的な利益を求める風潮があっても、真実は変わりません。 人の心を動かすのは「物語」以外にありません。 心を打つ物語を発信する。 時代が求めるのは、イノベーティブなブレークスルーです。