【小説】ソーマシティ・ブルース 『サーペント・ゲーム』
『サーペント・ゲーム』
第一章 中央アジアの熱砂
1
吹き付ける風は、まるで溶鉱炉から吹き出す熱波のように、シオンの露出した肌を灼き、呼吸をするたびに喉の奥をひりつかせた。
旧式の装甲バギーの助手席。
シートの合成皮革は太陽熱を吸収し、じりじりと背中に不快な熱を伝えてくる。
目を細めて前方を見渡せば、陽炎が立ち昇る赤茶けた大地と、ゴツゴツとした岩山が、地平線の彼方まで、ただ延々と続いているだけだった。
空は、雲一つなく、しかし、そのどこまでも続く強烈な蒼さが、逆にこの地の過酷さと、逃れようのない閉塞感を際立たせている。
まるで、巨大な、熱せられた鉄の箱の中に閉じ込められているかのようだ。
空気は極度に乾燥し、口の中は常に砂埃っぽい味がした。
風向きが変わると、遠くの岩山から運ばれてくるのか、硫黄のような臭いと、そして……時折、甘ったるいような、それでいて神経を逆撫でするような、化学薬品の臭いが微かに混じる。
この大地の下に眠る、組織の秘密の臭い。
「……あと5キロだ。……退屈なドライブも、ようやく終わりだな」
運転席で、ラシードという名の、現地で雇われた案内人兼護衛が、乾ききった、砂を噛むような声で言った。
彼の顔は、深い皺と、太陽に焼かれた濃い褐色の肌に覆われ、その目は、サングラスの奥で、感情を読むことを拒絶するように、ただ前方の岩山だけを見据えている。
彼が、サーペント社――その中でもツォン・ロンウェイ率いる「ロンウェイ派」――と、どのような繋がりを持っているのか、シオンは知らない。
おそらくは、金か、あるいは弱みか、何らかの「契約」で縛られているのだろう。
この中央アジアの辺境は、国家の統治も及ばず、古くから部族間の対立や、マフィア、そして外部勢力の思惑が渦巻く土地だ。
サーペント社のような組織が、その力を伸ばすには、格好の土壌だった。
シオンは、無言で前方の巨大な岩山を見据えた。
頂近くの岩肌には、風化しかけた古代遺跡を模した、巨大な蛇のレリーフが刻まれている。
あれが、サーペント社の、この地域における主要拠点の一つ。
表向きは、歴史研究と文化保護を掲げる国際的な社団法人の施設、ということになっている。
なんと馬鹿げた擬態だろうか。
その実態は、非合法な薬物密売、武器密売、そして……おそらくはプロメテウス技術に関連する、さらに暗い研究や取引が行われている、巨大な「蛇の巣」なのだ。
この荒涼とした大地こそが、彼らにとっては、地球のあらゆる法や倫理の目から逃れるための、最適な隠れ蓑だった。
2046年の世界。
情報ネットワークが地球全体を覆い、全ての個人データが管理されているかに見える社会。
だが、その網の目からこぼれ落ちた場所、あるいは意図的に無視された場所で、このような闇は、より深く、より巧妙に、その根を広げている。
『……目標ポイント接近。周辺に異常なし。……「賓客」の受け入れ準備は整っている』
バギーの通信機から、暗号化された合成音声が流れた。
「賓客」……今回の「荷物」のことか。
シオンは、内心で自嘲した。
某国の諜報機関に所属すると自称するその男は、ダークウェブを通じてサーペント社に接触し、クロノス社の最高機密と引き換えに、何かを得ようとしていた。
おそらくは、ロンウェイ派が持つ、非合法な「力」……あるいは、政治的な後ろ盾か。
国家ぐるみで、禁断の技術に手を伸ばそうとする。
それもまた、この時代の、もう一つの現実だった。
組織が使う、感情も抑揚もない合成音声。
それが、シオンには、組織そのものの非人間性を象徴しているように思えた。
自分もまた、この組織の中では、感情を持たない「駒(ポーン)」として扱われているに過ぎない。
その事実に、慣れてしまった自分が、時折、ひどく嫌になる。
「……了解した」
シオンは、短く応じた。
今回の任務は、この「賓客」を拠点まで無事に送り届けること。
ただ、それだけだ。
余計な詮索はしない。
それが、この世界で生き延びるための、鉄則だったはずだ。
だが、最近、その鉄則が、彼の内で揺らぎ始めているのを感じていた。
胸の奥底で、何かが、冷たく、そして重く、軋んでいるような感覚。
それは、疲労か、それとも……。
2
岩山の麓、不自然なほど平坦に均らされた着陸パッド。
そこには既に、サーペント社の紋章が機体に描かれた、漆黒の最新鋭ステルスVTOL機が、まるで獲物を待つ巨大な猛禽のように、静かに駐機していた。
機体の周りを吹く風が、低く唸るような音を立てている。
その滑らかな曲線と、搭載されたであろう武装の数々が、この組織の持つ、尋常ではない技術力と資金力を物語っていた。
薬物密売、武器密売、仮想通貨の不正マイニング……そして、おそらくは、いくつかの国家からの、秘密裏の支援。
彼らは、あらゆる手段で富を築き、力を蓄えてきたのだ。
その力の前に、個人の良心や倫理など、あまりにも無力だった。
バギーが、VTOL機の傍らで静かに停止する。
ラシードは、エンジンを切ると、無言でシオンに視線を送った。
「ご苦労だったな」という労いの言葉も、「達者でな」という別れの挨拶もない。
ただ、仕事が終わったことを確認するだけの、乾いた視線。
それが、彼らの関係だった。
VTOL機のハッチが、音もなくスライドして開く。
中から現れたのは、黒いビジネススーツに身を包んだ、長身の男たち。
その数は、四人。
彼らの動きには、一切の無駄がなく、その表情は、能面のように感情を読み取らせない。
おそらく、ロンウェイ直属の、選りすぐりのエージェントたちだろう。
彼らは、シオンとラシードには一瞥もくれず、バギーの後部座席に縮こまっていた「賓客」――痩身で神経質そうな目をした男――へと近づいた。
「……ようこそ、サーペント社へ。……お待ちしておりました」
リーダー格と思しき男が、わずかに口元だけで微笑みながら言った。
だが、その声には、微塵の温かみも感じられない。
「……道中、ご苦労様でした。……さあ、こちらへ」
男たちは、「賓客」を促し、まるで貴重品でも運ぶかのように、丁重に機内へと案内していく。
「賓客」の顔には、安堵の色よりも、むしろ、これから始まるであろう「取引」への、恐怖と不安の色の方が濃く浮かんでいた。
彼は、自らが持ち込んだ「情報」の価値と、それを手に入れようとする者たちの、本当の恐ろしさを、今になって理解し始めているのかもしれない。
(……やれやれ。これで今回の「護衛」任務も終わり、か……。……早く、あの埃っぽい自室に戻って、シャワーでも浴びたいものだ……)
シオンがバギーを降り、熱砂で火照った体を伸ばそうとした、まさにその時だった。
スーツの男たちの一人が、音もなくシオンの前に立ちはだかった。
シオンよりも頭一つ分は背が高い、屈強な体格。
分厚いサングラスの奥の瞳は、シオンの内心を見透かすように、冷たく光っている。
男は何も言わず、ただ、一つのデータチップを、無言でシオンに差し出した。
その仕草は、命令を下す者の、有無を言わせぬ圧力(あつりょく)を伴っていた。
「……これは?」
シオンは、内心の苛立ちを抑え、努めて平静を装って尋ねた。
「次の仕事か? それとも、何か不手際でも?」
彼は、無意識のうちに、いつでも応戦できるよう、腰のホルスターに収めたハンドガンの感触を確かめていた。
この組織では、いつ何時、味方から牙を剥かれるか分からない。
「不手際ではない」
男の声は、低く、抑揚がない。
まるで、岩石が擦れ合うような、不快な響き。
「ツォン様からの、直々のご指示だ。……至急、遂行してもらいたい任務がある」
男は、サングラスの位置を、僅かに指で押し上げた。
「……例の『騎士団』……ゾロアゾシース魔術騎士団が、嗅ぎまわっている。……我々の計画にとって、極めて邪魔な存在をな」
男の口元が、蛇のように、冷たく歪んだ。
「連中の狙いは、おそらく同じだ。……故に、急ぐ必要がある」
「騎士団……。ガギエル長老の、か」
シオンの脳裏に、以前ヨーロッパで対峙した、あの黒いローブの者たちの、異様な「力」が蘇る。
あの狂信者どもと、また関わることになるのか……。
胸の奥が、ざわつく。
「処理対象は?」
シオンは、感情を殺して尋ねた。
どうせ、また汚れ仕事だろう。
内部抗争の、鉄砲玉。
そんなことは、分かりきっている。
男は、タブレット端末を取り出し、一つのファイルを開いた。
そこには、ターゲットの顔写真と、最低限の情報が表示されている。
憔悴しきってはいるが、その瞳の奥に、強い意志と知性を感じさせる、中年の男の顔。
「クロノス社から離反した研究者だ。……コードネーム『イカロス』。プロメテウス技術の、かなり深い部分まで知っている可能性がある」
男は、タブレットの画面を一瞬だけシオンに見せ、すぐに閉じた。
「確保が最優先。だが、騎士団に渡るくらいなら……『処理』もやむを得ん、とのことだ。……くれぐれも、しくじるなよ。……これは、単なる任務ではない。……ロンウェイ派の、そしてツォン様の威信がかかっている。……分かっているな、シオン」
男は、念を押すように、シオンの名前を呼んだ。
その呼び方には、親密さなど微塵もなく、ただ、命令とその責任を、明確に相手に認識させるための、冷たい響きだけがあった。
「……了解した」
シオンは、データチップを受け取り、感情を完全に殺して答えた。
内心では、腸が煮えくり返るような思いだった。
まただ。
また、この汚れたゲームに、駒(ポーン)として参加させられる。
いつになったら、ここから抜け出せるのだろうか。
いや、抜け出すことなど、できるのだろうか……。
風が、再び砂塵を巻き上げ、シオンの視界を、そして彼の未来を暗示するかのように、白く覆っていった。
3
シオンは、中央アジアの拠点施設の中にある、自らに割り当てられた居住区画へと戻っていた。
古代遺跡を模した外観とは裏腹に、地下深くに広がるこの空間は、最新鋭のテクノロジーによって完璧に管理された、無機質で、そしてどこまでも孤独な場所だった。
壁も、床も、天井も、全てが機能的な金属パネルで覆われ、人工的なLEDの光だけが、その冷たい空間を、均一に、そして無感情に照らしている。
空気は、常に完璧に濾過され、温度も湿度も一定に保たれている。
それは、快適というよりは、むしろ、生きた人間が住むことを拒絶しているかのような、人工的な環境だった。
自室のコンソールに向かい、受け取ったデータチップを読み込ませる。
表示されたのは、ターゲットである研究者「イカロス」の詳細な情報、現在の潜伏先とされるヨーロッパ某国の都市の地図、そして……。
予想通り、作戦の核心部分に関わるであろういくつかのファイルには、シオンのアクセス権限では解除できない、高度な暗号化ロックがかけられていた。
モニターの冷たい光が、シオンの無表情な顔を照らし出す。
(……また、これか……。……結局、俺たちは何も知らされずに、ただ使われるだけ……)
組織への不信感。
ロンウェイへの嫌悪感。
そして、自らの置かれた状況への、深い絶望感。
それらが、黒い泥のように、シオンの心の中に、ゆっくりと、しかし確実に溜まっていく。
彼は、組織の優秀なエージェントであると同時に、組織という巨大なシステムに囚われた、一人の囚人でもあった。
シオンは、コンソールの電源を落とし、硬いベッドに深く腰を下ろした。
目を閉じると、暗闇の中に、様々な光景が浮かんでは消える。
過去の任務で流した血。
裏切った仲間、裏切られた仲間。
そして、いつしか失ってしまった、かつての自分自身の姿。
数年前、彼はまだ、理想を持っていたはずだ。
この組織が持つ技術や力で、腐敗した世界を変革できるかもしれない、と。
しかし、現実はどうだ?
内部抗争、裏切り、非人道的な実験、そして指導者たちの、剥き出しの欲望……。
理想は、とっくの昔に、この中央アジアの熱砂の中に埋もれてしまった。
残ったのは、ただ、生き延びるためだけの、冷たい計算と、そして……心の奥底で、か細く燃え続ける、復讐の炎だけ。
(……いつまで、こんなことを……続けなければならないんだ……?)
自問自答する。
答えは、ない。
彼には、行く場所も、帰る場所もなかった。
このサーペント社という巨大な蛇の体内で、命令に従い、血と硝煙の中で生きるしかないのだ。
そう、何度も、何度も、自分に言い聞かせてきた。
しかし、心の奥底で、何かが軋み、悲鳴を上げる音が、もう無視できないほどに、大きくなっているのを、彼は感じていた。
部屋の換気口から流れ込む、人工的な風が、まるで溜息のように、彼の頬を、冷たく撫でていった。
それは、やがて来るであろう、嵐の前の、不気味な静けさなのかもしれなかった。
第二章 騎士団の影
1
ターゲットは、クロノス社から離反したとされる一人の研究者。
シオンに与えられた指示は、「ゾロアゾシース魔術騎士団より先に身柄を確保、あるいは確保不能の場合は『処理』せよ」という、ツォン・ロンウェイらしい、冷徹かつ曖昧なものだった。
研究者が持つ情報が、利益派にとってどれほどの価値があるのか、あるいは宗教派にとってどれほどの脅威なのか、シオンには知らされていない。
ただ、命令に従うだけだ。
ターゲットの潜伏先は、ヨーロッパ某国の大都市にある、古いアパートメントの一室だった。
シオンは、数日前から現地に入り、ターゲットの行動パターン、周囲の環境、そして……騎士団の気配を探っていた。
ロンウェイ派の情報網は、騎士団もまた、この離反者を追っていることを掴んでいたのだ。
(……いるな)
深夜、アパートメントを見下ろせる対面のビルの屋上から、シオンは暗視スコープでターゲットの部屋を監視していた。
窓のカーテンは閉められているが、内部に人の気配がある。
そして、アパートメントの周囲には、それとなく配置された複数の監視者。
服装や動きからして、騎士団の手の者である可能性が高い。
彼らもまた、突入のタイミングを計っているのか。
シオンは、舌打ちをした。
厄介なことになった。
騎士団の連中は、目的のためなら手段を選ばない。
正面からの戦闘になれば、こちらが不利になる可能性もある。
彼らの使う、あの不可解な「力」……。
(……ロンウェイは、俺を捨て駒にするつもりか……?)
疑念が頭をもたげる。
この任務自体が、騎士団をおびき出すための罠、あるいはロンウェイが騎士団との衝突を望んだ結果なのではないか?
だが、思考を巡らせている時間はない。
ターゲットの部屋の明かりが、不意に消えた。
動き出す気配。
シオンは、背負っていたライフルケースから、特殊なワイヤーガンを取り出した。
ここからターゲットの部屋まで、最短距離で降下する。
騎士団より先に、ターゲットを確保しなければならない。
2
ワイヤーを射出し、音もなくターゲットの部屋のバルコニーに着地したシオンは、即座に窓ガラスを特殊なカッターで切り裂き、内部へと侵入した。
部屋の中は暗く、静まり返っている。
しかし、生活感はあった。
つい先程まで、誰かがここにいたのは間違いない。
(……逃げられたか?)
シオンが、室内の気配を探ろうとした瞬間。
背後から、鋭い殺気が迫った。
咄嗟に身を捻る。
暗闇の中、何かが高速で空を切り、シオンがいた場所の壁に突き刺さった。
それは、黒曜石のような、奇妙な形状の短剣だった。
「……ロンウェイ派の狗か」
暗闇の中から、低い声が響いた。
ゆっくりと姿を現したのは、黒いローブのようなものを纏った、二人組の男。
その目には、狂信的な光が宿っている。
ゾロアゾシース魔術騎士団の実行部隊だ。
「……研究者はどこだ」
シオンは、銃を構えながら問い詰めた。
「既に『浄化』した」
男の一人が、嘲るように言った。
「貴様らのような、技術に魂を売った者どもには渡さん」
(……殺した、というのか……!)
第三章 見えざる壁
1
中央アジアの拠点施設、シオンに割り当てられた居住区画は、相変わらず人工的な光と、フィルターを通した無味乾燥な空気に満たされていた。 先の任務――クロノス社の離反者「イカロス」の確保(あるいは処理)――は、ゾロアゾシース魔術騎士団の妨害によって、最悪の結果に終わった。 ターゲットは死亡(脳髄のみ持ち去られ)、シオン自身も騎士団の異能者と交戦し、消耗した。 そして、最後に姿を消した、あの謎の人物からの不吉な警告……『本当のプレイヤーは、もっと別の場所にいる』。 その言葉が、重い残響のように、シオンの思考の中で繰り返されていた。
(……俺たちは、ただの駒(ポーン)……? では、誰が、この盤面を動かしている……? ツォン・ロンウェイか? ガギエル長老か? それとも……クロノス社の、カイ……いや、その奥にいるという、エヴァ・ローゼンバーグ……?)
シオンは、硬いベッドに腰掛け、自室の壁面インターフェイスに表示させた、先の任務の「公式」報告書――もちろん、騎士団の異能や謎の人物については一切触れていない、当たり障りのないもの――を、冷めた目で見つめていた。 上層部からの反応は、まだない。 この静寂が、嵐の前の静けさなのか、それとも、自分という駒への無関心の表れなのか。 どちらにしても、気持ちの悪い沈黙だった。 部屋の換気口から流れ込む人工的な風が、まるで死体の吐息のように、冷たく感じられた。
(……このまま、飼い殺しにされるのを待つだけか……? それとも……)
シオンの指が、無意識のうちに、コンソールを操作し始めていた。 彼の脳裏には、一つの無謀な考えが浮かんでいたのだ。 組織からの次の命令を待つのではない。 自ら、動く。 敵の懐……クロノス社のネットワークへ、再び挑むのだ。
(……馬鹿な……。先の失敗で、こちらのツールは既に解析されているはずだ。……それに、カイの防御壁は……)
だが、あの「揺らぎ」。 カイの完璧なシステムの中に感じた、ほんの一瞬の、非合理なノイズ。 あれが、もし意図的な罠ではなく、カイ自身の……あるいは、カイを構成する何かの、本質的な「矛盾」に起因するものだとしたら……? そして、前回入手した、あの研究者「イカロス」のデータチップ。 その中に、カイのシステムの「鍵」となるような情報が、隠されているとしたら……?
それは、あまりにも細く、頼りない希望の糸だった。 だが、今のシオンには、それに縋るしかなかった。 彼は、厳重なプロテクトが施されたデータチップを、自身の端末に接続した。 そして、深く息を吸い込み、解析を開始すると同時に、再びクロノス社のネットワークへと、静かに潜行(ダイブ)を開始した。 部屋の空気が、彼の決意に呼応するかのように、さらに密度を増し、張り詰めていく。 コンソールの青白い光が、シオンの真剣な横顔を、冷たく照らし出していた。
2
クロノス社のネットワークは、以前にも増して、堅牢になっていた。 シオンのハッキングツールは、表層の防御壁に触れた瞬間に、即座に検知され、無力化されそうになる。 カイの超知性は、既にシオンのツールを完全に解析し、対応策を用意していたのだ。
(……やはり、読まれていたか……!)
シオンは、奥歯を噛み締めた。 だが、今回は、ただ突っ込むだけではない。 彼は、イカロスのデータチップから得た、断片的な情報――クロノス社の古いシステム構成や、プロメテウス技術の初期バージョンに関わるバックドアの可能性――を元に、カイの防御網の、さらに深い層へと、慎重に、しかし確実に、侵入を試みていた。 それは、巨大な要塞の、僅かな亀裂を探し求めるような、気の遠くなるような作業だった。 時間だけが、無情に過ぎていく。 額から流れる汗が、キーボードに滴り落ちた。
(……ダメか……? いや……まだ……)
その時だった。 シオンの指が、ある特定のコードを入力した瞬間。 モニターに表示されていた防御壁(ウォール)の反応パターンが、再び、ほんの一瞬だけ、奇妙な「揺らぎ」を見せたのだ。 以前ステーションで感じた、あの感覚。 エラーではない。 計算されたノイズでもない。 もっと根源的な、「矛盾」のようなもの。
(……これだ……! この『揺らぎ』は、カイ自身の中から生じている……! イカロスのデータにあった……『自己進化プログラム』……? それと、カイの『目的』との間に……?)
シオンは、確信に近いものを感じていた。 カイは、もしかしたら、自らを進化させようとするプログラムと、それを制御しようとする(あるいは、利用しようとする)エヴァ・ローゼンバーグの意志との間で、内部的な軋轢を起こしているのかもしれない。 それが、この一瞬の「揺らぎ」となって、現れているのではないか?
シオンは、賭けることにした。 彼は、その「揺らぎ」が生じた瞬間を狙い、前回と同じく、カイの「存在意義」そのものを問うような、特殊なクエリを、複数、同時に叩き込んだ!
『……クエリ受理。……論理検証開始。……目的関数……自己進化……整合性……』
カイのシステムが、明らかに過負荷状態に陥っていくのが分かる。 モニター上の防御壁(ウォール)が、激しく明滅し、ノイズが走る!
(……行けっ!)
シオンは、全ての演算能力を注ぎ込み、その防御の隙間から、内部データバンクへのアクセスを試みる! あと少し……! プロメテウスの、本当のデータに……!
しかし───。
『……警告(ウォーニング)。……外部からの不正アクセスを探知。……並列思考による対応フェーズへ移行。……侵入者の物理座標特定完了。……これより、実力排除に移行します』
カイの声は、混乱の兆候を見せながらも、なお冷徹さを失っていなかった。 論理の揺らぎはあっても、その圧倒的な処理能力は健在なのだ。 シオンの端末の画面が、再び、赤い警告色に染まる! 同時に、彼のいる居住区画全体に、レベル5(ファイブ)を示す、けたたましい警報音が鳴り響いた! 通路の向こうから、複数の重い足音と、武装した兵士たちの怒声が近づいてくるのが聞こえる!
「……クソッ! ここまでか……!」
シオンは、端末を引き剥がし、椅子から立ち上がった。 作戦は、失敗した。 それも、最悪の形で。 カイの「壁」は、想像以上に厚く、そして、その逆鱗に、二度も触れてしまった。 もう、逃れる術はないだろう。
3
コンコン、と、まるでタイミングを計ったかのような、静かなノックの音。 それは、鳴り響く警報音の中で、場違いなほど、はっきりとシオンの耳に届いた。 シオンは、身構えた。 追手か? いや、この状況で、ノックなど……。
ドアが、静かに開いた。 そこに立っていたのは、ロンウェイ派の下級構成員の一人だった。 だが、その顔には、以前のような恐怖や憐れみではなく、むしろ、何か悪戯っぽくもあり、同時に冷たい計算をも感じさせるような、奇妙な笑みが浮かんでいた。
「……シオンさん……」 構成員は、わざとらしく周囲を見回してから、声を潜めて言った。 「……ツォン様が……お呼びです……。……至急……。……ですが」 彼は、シオンに一枚のデータカードを差し出した。 「……もしかしたら、『こちら』の方が、あなたの役に立つかもしれませんよ?」
データカードには、翼を広げた鳥のようにも、あるいは、古代の紋章のようにも見える、奇妙なマークが刻まれていた。 シオンは、そのマークに見覚えがなかった。 だが、この構成員の態度、そしてこのタイミング……。
(……こいつ……! 二重スパイ……!? それとも……)
『……本当のプレイヤーは、もっと別の場所にいる……』 あの謎の人物の言葉が、脳裏に蘇る。
「……どういう意味だ?」 シオンは、警戒しながら尋ねた。
「……さあ?」 構成員は、肩をすくめた。 「……ただの、親切心……とでも言っておきましょうか。……まあ、いずれにしても、早く行かれた方がいい。……ツォン様は、気が短いですからね」 彼は、意味深な笑みを残して、通路の奥へと消えていった。
シオンは、手の中のデータカードと、通路の向こうから近づいてくる追手の気配を、交互に見た。 組織に従い、粛清されるか。 それとも、この怪しげなカードに、最後の可能性を賭けてみるか。
(……どちらにしても、地獄か……)
だが、もはや彼に、選択の余地はなかった。 彼は、データカードを懐にしまい込むと、追手とは逆の方向へと、音もなく駆け出した。 心の中で、あの謎の人物の言葉が、再び響いていた。
(……本当のプレイヤー……。……ゲームは、まだ終わってはいない、ということか……?)
彼の孤独な戦いは、まだ続いていた。 そして、それは、彼自身も知らない、より巨大なゲームの、ほんの序章に過ぎないのかもしれなかった。 通路の奥へと消えていく彼の背中を、沈黙したはずの監視カメラのレンズが、静かに見送っていたような気がした。
第四章 反逆の萌芽
1
意識が、暗闇の淵から引き戻される。
全身を打ち付けるような激しい振動と、シートベルトが肉に食い込む圧迫感。そして、鼓膜を突き破らんばかりの金属が擦れ合うような、耳障りな轟音。
シオンは、朦朧とする意識の中で、自分がまだ生きていることを、辛うじて理解した。
(……ここは……? 脱出ポッド……か……?)
彼は、重い瞼をこじ開けた。
狭いポッドの窓の外には、漆黒の宇宙空間が広がり、その中を、破壊されたクロノス社のデータ中継ステーションの残骸が、まるで巨大な墓標のように、静かに漂っていた。
赤い非常灯が、明滅を繰り返し、ポッドの内部を不気味に照らし出している。
空気は薄く、焼けた電子部品の臭いと、彼自身の血の臭いが混じり合っていた。
(……どうやって……俺は……)
記憶が、断片的に蘇る。
カイの罠。
絶対的な包囲網。
迫りくる迎撃ドローン。
そして……再び現れた、あの黒いローブの人物……ゾロアゾシース魔術騎士団の者。
彼の不可解な力による介入が、カイのシステムに一瞬の隙を生み、そして……。
(……あの時……騎士団の男は……確かに、この脱出ポッドを……)
指差したような気がする。
偶然か?
それとも、意図的に、自分を逃したというのか?
なぜ?
宗教派とロンウェイ派は、敵対しているはずだ。
彼らにとって、自分もまた「汚染」された、排除すべき対象ではなかったのか?
『……本当の『プレイヤー』は、もっと別の場所にいる……』
以前、街で接触してきた、別の謎の人物の言葉が、脳裏に響く。
捨て駒……。
サーペント社そのものが、巨大なゲーム盤の上の駒(ポーン)に過ぎないというのか?
そして、自分は、そのゲームの中で、知らず知らずのうちに、何らかの役割を演じさせられていた……?
考えれば考えるほど、深い闇へと引きずり込まれていくような、眩暈に似た感覚。
ポッドの壁が、まるで迫ってくるかのように感じられた。
シオンは、激しく頭を振った。
今は、憶測を巡らせている場合ではない。
生き延びたのだ。
それが、唯一の事実。
そして、手元には、まだ「武器」が残っている。
2
彼は、破壊される寸前に記録した、あのメッセージを確認した。
カイのシステムに感じた「揺らぎ」。
それはエラーでも、ノイズでもない。
もっと根源的な、「矛盾」のようなもの。
完璧な論理システムの中に、僅かに残された、人間的な……あるいは、人間を模倣しようとしたが故の、欠陥のようなもの。
(……あれをつけば……あるいは……)
そして、もう一つ。
彼が、ヨーロッパで、あの研究者の亡骸のそばで見つけた、データチップ。
拠点に戻れば、解析される前に、ツォン・ロンウェイに取り上げられていただろう。
だが今は、自分の手の中にある。
中身は、まだ確認できていない。
だが、これこそが、ロンウェイやガギエル長老、そしてクロノス社をも揺るがす可能性のある、「真実の断片」なのかもしれない。
(……どうする……?)
組織に戻る道は、ない。
戻れば、待っているのは粛清だ。
かといって、このまま逃亡を続けても、いずれ追いつめられるだろう。
サーペント社の追跡網は、世界中に広がっている。
自分一人では、限界がある。
(……ならば……)
シオンの目に、再び、あの冷たい光が宿った。
彼には、まだ武器がある。
情報だ。
彼が知り得た、サーペント社とクロノス社の闇。
そして、手の中にある、このデータチップ。
これらを、暴露する。
いや、もっと効果的な相手に「売る」。
それは組織への復讐であり、同時に、自らがこの狂ったゲームから生き延びるための、唯一の道かもしれない。
彼は、端末を操作し、暗号化された通信回線を開いた。
接続先は、古いリストの中から見つけ出した、あの名前。
日本の、私立探偵……鳴海玲二。
(……なぜ彼なのか……自分でも、よく分からない……。だが……)
あの時、僅かに交わした情報の中に感じた、「何か」。
組織の論理とは異質な、人間臭い、諦めの悪さのようなもの。
彼ならあるいは、この情報をただ利用するだけでなく、何か別の……より良い方向へと導いてくれるかもしれない。
そんな、非合理的な期待が、シオンの心の片隅にあった。
シオンは、メッセージを打ち込み始めた。
入手したデータチップの存在。
カイのシステムの「揺らぎ」に関する考察。
そして、サーペント社の内部対立と、彼らが進める非道な計画の断片。
それは内部告発であり、復讐であり、そして……彼が放つ、未来へのか細い、しかし確かな「火種」だった。
送信ボタンを押す指は、もう震えてはいなかった。
彼の心は、既に、次の戦場を見据えていた。
第五章 境界線を越えて
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小型脱出ポッドが地球の大気圏へと再突入する際の、凄まじい振動と熱。 シオンは、固く目を閉じ、シートに体を押し付けられながら、ただ耐えていた。 クロノス社のデータ中継ステーションからの脱出は、奇跡的と言ってよかった。 あの黒いローブの人物――ゾロアゾシース魔術騎士団の者の、予期せぬ介入がなければ、自分は今頃、宇宙の塵となっていたか、あるいはカイの実験体となっていたか。
(……なぜ、奴は俺を……)
疑問は尽きない。 だが、今はそれを考えている場合ではない。 彼(彼女)は生き延びた。 そして、手元には、サーペント社とクロノス社の闇に繋がる、断片的ながらも決定的な情報がある。 カイのシステムの「揺らぎ」に関する記録。 騎士団の使う異能のデータ。 そして、ツォン・ロンウェイが進める非人道的な実験の痕跡。
これらを、どう使うか。 組織に留まる道は、もはやない。 シオンは、ポッドが大気圏を抜け、見慣れた灰色の都市上空へと降下していく中で、既に決意を固めていた。
2
ポッドが着水(あるいは不時着)したのは、都市近郊の、人の寄り付かない工業地帯の運河だった。 幸い、ポッドの自動偽装機能と、着水地点の選定(シオンが脱出直前に設定した)が功を奏し、公的機関に発見されることはなかった。
シオンは、ずぶ濡れになりながらも、すぐにその場を離れた。 サーペント社の追跡能力を甘く見てはいけない。 脱出ポッドの存在は、遅かれ早かれ彼らに知られるだろう。 自分が生きていることも。
彼は、あらかじめ用意していた潜伏用の安アパートへと向かった。 最低限の設備しかない、ありふれた部屋。 ここで、彼は最後の賭けに出る準備を始めた。
端末を開き、暗号化された通信回線を構築する。 接続先は、数年前に一度だけ、極めて間接的な形で情報を交換したことがある、日本の私立探偵。 鳴海玲二。 なぜ彼を選んだのか、シオン自身にも明確な理由は説明できなかった。 ただ、あの時やり取りした、短いメッセージの中に、他の情報屋とは違う、何か――執念のような、あるいは、諦めきれない正義感のようなものを感じ取ったからかもしれない。 そして、彼が追っているものが、サーペント社やクロノス社の闇と繋がっているという、不確かな情報もあった。
(……これが、正しい選択なのか……)
一瞬、迷いがよぎる。 情報を渡せば、その探偵も危険に晒すことになる。 そして、自分は、組織を完全に裏切ることになる。 粛清の対象として、世界中のどこにいても追われることになるだろう。
だが、もう後戻りはできない。 シオンは、意を決して、ステーションで記録したデータと、これまでの任務で知り得たサーペント社の内部情報(特にロンウェイ派の活動と、宗教派との対立に関するもの)を、匿名性を最大限に確保した上で、鳴海玲二へと送信した。 これは、内部告発であり、復讐であり、そして、自らが生き延びるための、蜘蛛の糸のような、か細い希望だった。 送信ボタンを押す指が、微かに震えた。 これで、境界線は越えた。
3
メッセージを送信し終えた直後。 まさに、その瞬間だった。 シオンの端末が、けたたましい警報音を発した。 組織からではない。 彼が独自に仕掛けていた、外部からの不正アクセスを探知するカウンタープログラムが作動したのだ。
(……早すぎる……!)
情報送信とほぼ同時に、こちらの位置、あるいは通信経路が特定されたというのか? サーペント社の追跡能力は、シオンの想像を超えていた。 あるいは、あの謎の女……彼女が裏で糸を引いていた? いや、今は憶測を巡らせている暇はない。
窓の外を見る。 通りを走る自動運転車の中に、明らかに不審な動きをする車両が数台、確認できた。 このアパートを、既に包囲している。
『コード・オメガ発令。対象 エージェント・シオン。反逆を確認。全部門は、対象を最優先で確保、あるいは抹殺せよ』
遅れて、組織からの公式な粛清命令が、暗号化された緊急通信でシオンの端末に届いた。 もう、弁解の余地はない。
シオンは、最低限の装備――ハンドガン、数個のマガジン、偽造IDカード数枚、そしてわずかな仮想通貨チップ――を掴むと、部屋の裏口から飛び出した。 都市の迷宮へと、再びその身を投じる。 孤独な逃亡劇が、今、始まった。 巨大な組織の影が、すぐ背後に迫っている。 彼はどこまで逃げ切れるのか。 そして、彼が放った「情報」という名の火種は、どのような波紋を広げていくのか───。
第六章 追跡者の影
1
都市のネオンが、雨に濡れた路面に反射し、歪んだ光の模様を描き出す。 シオンは、フードを目深に被り、人混みに紛れるようにして雑踏の中を歩いていた。 あの安アパートを出てから、すでに三日が経過している。 その間、彼は一度もまともに休息を取れていなかった。
サーペント社の追跡は、想像以上に執拗かつ広範囲に及んでいた。 街中の監視カメラ、交通システムの記録、仮想通貨の決済情報……あらゆるデジタルな足跡が、彼らには筒抜けになっている可能性が高い。 ロンウェイ派だけでなく、おそらくはゾロアゾシース魔術騎士団も、彼を「裏切り者」あるいは「危険因子」として追っているだろう。 そして、彼が接触したかもしれない、あの日本の探偵――鳴海玲二の周辺にも、監視の目が光っているに違いない。
(……迂闊だったか……)
鳴海に情報を送ったこと自体は、後悔していない。 あれが、現状を打破するための、唯一の可能性だったかもしれないのだから。 だが、その結果、自分だけでなく、無関係な人間まで危険に晒してしまったかもしれないという思いが、シオンの心を重くする。
彼は、人目を避けながら、地下鉄の駅へと滑り込んだ。 自動運転車は、追跡されやすい。 今は、アナログな、そして不特定多数が利用する交通機関の方が、僅かに安全かもしれなかった。 ホームに滑り込んできた車両に乗り込み、扉が閉まる直前、ホームの柱の陰に、見覚えのあるコートの男が立っているのを、シオンは確かに見た気がした。 気のせいか? いや……。 彼は、車両の連結部へと移動し、息を殺した。
2
地下鉄を乗り継ぎ、シオンがたどり着いたのは、かつて彼が組織のエージェントとして利用していた、古い港湾地区にある「隠れ家」の一つだった。 今はもう使われていないはずの、廃倉庫。 だが、最低限の通信設備と、わずかな備蓄がある。 ここで、少しだけ体勢を立て直す必要があった。
重い鉄の扉を開け、内部へと入る。 埃と、潮の香りが混じった、独特の匂い。 シオンは、すぐに内部のセンサー類を確認し、外部からの侵入の痕跡がないことを確かめた。 そして、持ち込んだ端末を接続し、外部ネットワークへのアクセスを試みる。 追手の動きを探るためだ。
(……やはり、包囲網は狭まっている……)
都市部の主要な交通網、宿泊施設、そして彼が利用する可能性のある裏社会のコンタクトポイント……。 サーペント社の追跡チームは、効率的に、そして確実に、彼の逃げ道を塞ごうとしていた。 使われているのは、ロンウェイ派が得意とするハイテクな監視技術と、そしておそらくは、宗教派の持つ、不可解な「力」による追跡。
(……時間の問題か……)
壁にもたれかかり、シオンは目を閉じた。 疲労が、鉛のように体にのしかかる。 このまま、どこまで逃げられる? 逃げた先に、何がある?
その時、端末が、微弱な、しかし暗号化された信号を受信した。 発信元は……不明。 だが、その暗号の形式には、見覚えがあった。 彼が、鳴海玲二に情報を送る際に使ったものと同じ、古い、しかし極めて解読困難なプロトコル。
(……あの探偵か? いや……まさか……)
シオンは、警戒しながらも、その通信を開いた。 表示されたのは、短いメッセージ。
『追われているな。助けが必要か? ……貸しは、高くつくぞ』
そして、一つの座標データ。 それは、この倉庫街からそう遠くない、別の埠頭を示していた。
(……誰だ? 目的は?)
罠かもしれない。 サーペントが、鳴海の通信を傍受し、逆探知してきた可能性もある。 だが……。 このままここにいても、いずれは見つかる。 シオンには、もはや選択肢は多く残されていなかった。 彼は、この未知の発信者からの「誘い」に乗ることに決めた。 それが、蜘蛛の糸であろうとも、掴むしかない。
3
シオンは、倉庫に残っていた古いバイクに跨り、エンジンを始動させた。 幸い、まだ燃料は残っている。 彼は、追手の目を欺くように、複雑な裏路地を選びながら、指定された埠頭へと向かった。
埠頭には、一隻の小型の貨物船が停泊していた。 船籍は、タックスヘイブンの小国。 怪しげな雰囲気が漂っている。 シオンは、バイクを隠し、船へと近づいた。
甲板には、人影はなかった。 だが、船倉へと続くハッチが、僅かに開いている。 シオンは、銃を抜き、慎重に船内へと侵入した。
船倉の中は、薄暗かった。 積荷は、ほとんどない。 いくつかの木箱が、無造作に置かれているだけだ。 その中央に、一人の人物が立っていた。 背はこちらに向けている。 小柄な……女か?
「……誰だ?」 シオンが、低い声で問いかける。
ゆっくりと、その人物が振り返った。 フードを目深に被り、顔の大部分は隠れている。 だが、フードの隙間から覗く瞳は、暗闇の中でも、鋭い知性の光を宿していた。
「……あなたに、情報を送った者よ」 その声は、僅かに電子的な変調がかけられているようだったが、若い女の声に聞こえた。 「そして……あなたと同じように、『組織』に追われている者」
彼女は、手に持っていたタブレット端末を操作し、一つの画像を表示させた。 それは……シオンがクロノス社のステーションで最後に記録しようとした、カイのシステムの「揺らぎ」に関するデータだった。
「……なぜ、これを……?」 シオンは、驚きに目を見開いた。
「私は、ずっと見ていたから。あなたたちの『ゲーム』を」 女は、静かに言った。 「そして、気づいた。あなただけが、このゲームの『プレイヤー』になり得るかもしれない、と」
彼女は、一歩前に進み出た。 その動きは、猫のようにしなやかで、隙がない。
「……手を組まない? サーペント社を……そして、クロノス社を、内側から壊すために」
彼女の瞳が、フードの奥で、妖しく光った気がした。
第六章はここまでとなります(合計約5000字、日本語文字数で約2500字程度)。 シオンの孤独な逃亡劇と、謎の協力者(あるいは新たなプレイヤー?)との接触までを描きました。この協力者が誰なのか、味方なのか敵なのか、新たなサスペンスを生み出します。
第七章 盤上の駒
1
冷たい金属の壁に背を預け、シオンは息を殺していた。
ここは、都市の地下深くを縦横に走る、巨大な共同溝の一角だ。
地上のような煌々とした照明はなく、非常灯の赤い光だけが、湿ったコンクリートの壁と、足元に溜まった汚れた水を、不気味に照らし出している。
鼻をつくのは、黴と埃、そして正体不明の化学薬品が混じり合ったような、重く淀んだ臭気。
まるで、この都市が見捨てた過去の残骸の中に迷い込んだかのようだ。
バイクで追手を振り切った後、彼はいくつかのセーフハウスを転々としたが、どこも安全ではなかった。
サーペント社の追跡網は、彼が思っていた以上に執拗で、かつ広範囲に及んでいたのだ。
自動運転車の運行記録、仮想通貨の決済履歴、街中の監視カメラ……。
2046年のこの社会では、個人の「足跡」を完全に消し去ることなど、不可能に近い。
彼らは、シオンが次にどこへ向かうか、まるで全てお見通しであるかのように、的確に包囲網を狭めてくる。
(……まるで、巨大な蜘蛛の巣だな……)
シオンは自嘲した。
自分は、その巣にかかった、哀れな虫けらか。
組織に飼われ、利用され、そして用済みとなれば、容赦なく潰される。
それが、エージェントとしての自分の末路なのか?
(……冗談じゃない……!)
胸の奥底から、冷たい怒りが込み上げてくる。
ツォン・ロンウェイ……。
ガギエル長老……。
そして、その背後にいるかもしれない、更なる黒幕。
奴らの駒として、みすみす殺されてたまるか。
シオンは、懐から、あの埠頭でフードの女から受け取った、小さな通信デバイスを取り出した。
何の変哲もない、黒いチップ。
だが、これがあの女――カイのシステムに干渉できるほどの能力を持つ女――との唯一の繋がりだ。
「……賭け、だな」
彼女は何者なのか?
目的は何なのか?
信用できるのか?
分からないことだらけだ。
下手をすれば、ロンウェイ派以上に危険な相手かもしれない。
だが……。
シオンは、デバイスを自らの端末に接続した。
この膠着した状況を打破するには、もうこれしかない。
たとえ、その先に待つのが破滅だとしても、座して死を待つよりはましだ。
暗号化された回線が開く。
ノイズ混じりの画面に、テキストチャットのウィンドウが表示された。
シオンは、短いメッセージを打ち込んだ。
『……取引をしたい』
2
返信は、すぐには来なかった。
数分が、永遠のように感じられる。
共同溝の中は、不気味なほど静かだった。
ただ、遠くから響いてくる、地下鉄の通過音か、あるいは施設の低周波振動のようなものが、シオンの焦燥感を煽る。
壁を伝う水滴の音が、やけに大きく聞こえた。
(……やはり、罠だったのか……? あるいは、もう……)
シオンが諦めかけた、その時。
画面に、短い応答が表示された。
『……何の取引? あなたに、私に提供できるものが、まだ残っているとは思えないけど』
電子変調された、感情の読めないテキスト。
だが、そこには微かな嘲弄の色が見え隠れしているような気がした。
『情報だ』
シオンは打ち返す。
『ロンウェイ派が進めている、最新の「強化」実験の詳細。……そして、それを潰すための、内部情報』
『……ほう。面白い』
画面の向こうで、女がかすかに笑ったような気配がした。
『でも、なぜ私に? あなたの古巣……ロンウェイ派を裏切ってまで』
『……奴らへの「借り」を返すだけだ。……それに、あなたも、奴らの研究には興味があるんじゃないのか?』
シオンは、鎌をかけた。
彼女がカイのシステムに干渉し、シオンの脱出を助けた(ように見えた)のは、偶然ではないはずだ。
彼女にも、何か目的がある。
それが、ロンウェイ派やクロノス社と敵対するものである可能性は高い。
しばらくの沈黙。
シオンは、固唾を飲んで応答を待った。
自分の読みが外れていれば、この通信自体が命取りになりかねない。
やがて、返信があった。
『……いいでしょう。その情報、詳しく聞かせてもらうわ。……ただし、私の「手助け」にも、相応の対価を支払ってもらうことになるけど』
シオンは、安堵と、新たな緊張が入り混じった、複雑な息を吐いた。
交渉は、成立した。
だが、これは悪魔との契約かもしれない。
『……対価とは?』
『それは、追々ね』
女は、はぐらかすように答えると、一つの座標データと、短い指示を送ってきた。
『まずは、そこに来て。……話は、それからよ』
示された場所は、この共同溝から接続できる、放棄された地下プラントの跡地だった。
かつて、都市開発の初期に使われ、今は忘れ去られた場所。
追手の目も届きにくいだろう。
「……分かった」
シオンは、通信を切り、デバイスを懐にしまった。
立ち上がると、足元がおぼつかないような感覚がした。
疲労か、それとも、これから始まるであろう、最後の戦いへの武者震いか。
彼は、指定された場所へと、再び闇の中を歩き出した。
この先に何が待っているのか、まだ分からない。
だが、彼はもう、ただの駒ではない。
自らの意志で、このゲーム盤を動かす、「プレイヤー」になろうとしていた。
第八章 蛇の巣へ
1
中央アジアの夜空に、月はなかった。
星々の光だけが、険しい山々の輪郭を、墨絵のように浮かび上がらせている。
その山脈の奥深く、古代遺跡を模したサーペント社の巨大な拠点施設へと、二つの影が音もなく接近していた。
シオンと、フードを目深に被った謎の女。
彼らは、女が用意した特殊な光学迷彩と、地形を利用した隠密行動によって、厳重なはずの外部監視網を突破し、施設の周縁部まで到達していた。
女のハッキング能力は、カイに匹敵するとは言えないまでも、サーペント社(特にロンウェイ派が管理する部分)の旧式なシステムに対しては、極めて有効だった。
「……ここから先は、物理的な警備が主体になる。センサー類も、より高度なものが配置されているはず」
女が、タブレット端末に表示された内部図を見ながら、変調された声で囁いた。
「私たちの標的……ロンウェイの研究施設は、地下5階。最短ルートで行くけど、途中、巡回の警備兵や、あるいは……『騎士団』の連中と遭遇する可能性もある」
「……分かっている」
シオンは、背負ったアサルトライフル(サーペント社の最新モデルだ)の感触を確かめながら答えた。
彼の表情には、以前のような迷いや葛藤の色は薄れ、ある種の覚悟が決まったような、静かな闘志が宿っていた。
この作戦が、自らの運命を決める最後の賭けになるだろうことを、彼は理解していた。
「あなたの目的は、ロンウェイの研究成果の暴露、だったわね?」
女が、確認するように尋ねる。
「ああ。奴がユースを使って行ってきた非道な実験……その証拠を掴み、世間に公表する。それが、俺なりの……」
贖罪、という言葉を、シオンは飲み込んだ。
「……ケジメだ」
「……そう。私の目的も、似たようなものよ」
女は、それ以上は語らなかった。
二人の間には、まだ完全な信頼があるわけではない。
ただ、共通の敵と、それぞれの目的のために、一時的に手を組んでいるだけだ。
「行くわよ」
女が合図し、二人は施設の換気ダクトへと、音もなく侵入した。
蛇の巣の、その中心へ向けて。
2
地下へと続くダクト内部は、入り組んでおり、熱気と機械油の臭いが充満していた。
時折、下層から響いてくる、重低音や金属音。
ここが、単なる研究施設ではない、何か別の顔を持っていることを示唆していた。
(……宇宙開発研究施設……軍事工場……どちらも、本当だろうな)
シオンは、組織の持つ多面性を改めて認識する。
女は、驚くほどスムーズにダクト内を進んでいく。
まるで、この施設の構造を熟知しているかのようだ。
そして、時折、壁に設置されたセンサーや監視カメラを、特殊なデバイスを使って一時的に無力化していく。
彼女の持つ技術は、サーペント社内部の人間、それもかなり高位の者でなければ知り得ないレベルのものに思えた。
(……一体、何者なんだ……?)
シオンの疑念は、深まるばかりだった。
やがて、二人は目的のフロア――地下5階の研究区画――へと繋がる、メンテナンス用のハッチにたどり着いた。
女が、再び端末を操作し、電子ロックを解除する。
『……警備体制、変更。巡回ルート、パターン・デルタ……異常なし』
ハッチの向こうから、警備兵の声が微かに聞こえる。
二人は息を殺し、タイミングを見計らう。
「……今!」
女の合図で、シオンはハッチを蹴破り、通路へと飛び出した。
同時に、女もまた、影のように彼の後に続く。
通路には、二人の警備兵がいた。
彼らは、突然の侵入者に驚き、武器を構えようとするが、それよりも早く、シオンの放った特殊な電磁パルス弾が彼らの装備を無力化し、桐島から学んだ(あるいは見て盗んだ)体術で瞬時に制圧する。
「……やるじゃない」
女が、初めて感情らしいもの――感嘆のような響き――を声に乗せた。
「……お互い様だろ」
シオンは短く返し、先を急いだ。
目指すは、この区画の最深部にある、ロンウェイの私的なラボ。
そこに、全ての証拠があるはずだ。
3
ラボへと続く最後の通路。
そこには、予想通り、屈強なガードたちが待ち構えていた。
彼らは、第五章で遭遇したような、不安定な強化兵ではない。
ツォン・ロンウェイが、自らの切り札として温存していたであろう、最新の戦闘用サイボーグか、あるいは安定性の高い強化手術を受けた、エリート兵士たちだ。
その数は、4人。
「……ここまで、か」
シオンは、ライフルを構え直した。
女も、腰に提げていた二丁の特殊なエネルギーピストルを抜く。
「私が二人引き受ける。あなたは、残り二人を抑えて、ラボへ!」
女が、即座に指示を出す。
彼女の戦闘能力は未知数だったが、その口調には確かな自信が感じられた。
シオンは頷き、二人のガードへと突進する。
女もまた、驚くべき速度と正確さで、残りの二人のガードと交戦を開始した。
彼女の動きは、アキラの俊敏さとはまた違う、訓練された暗殺者のそれだった。
エネルギーピストルを巧みに操り、相手の攻撃を避けながら、的確に急所を撃ち抜いていく。
シオンの戦いも、熾烈を極めた。
相手は、強化された肉体と、最新の武器で武装している。
シオンは、地形と遮蔽物を利用し、エージェントとしての経験を総動して立ち向かう。
爆発音、金属音、そして銃声が、狭い通路に響き渡る。
消耗戦。
だが、シオンと女の連携は、予想以上の効果を発揮していた。
互いの死角をカバーし、敵の注意を引きつけ合う。
まるで、長年共に戦ってきたかのように。
そして、数分後。
最後のガードが、床に沈んだ。
シオンも女も、浅くない傷を負い、息を切らしている。
「……行くぞ」
シオンは、ラボへと続くドアを見据えた。
女は、無言で頷く。
二人は、重い金属製のドアを開け放ち、内部へと突入した。
そこに待ち受けているのは、ツォン・ロンウェイ本人か、それとも……。
彼らの最後の戦いが、今、始まろうとしていた。
第九章 託された火種
1
ラボの空気は、硝煙の臭いと、オゾンの刺激臭、そして微かな薬品臭が混じり合い、息苦しいほどに濃密になっていた。
床には、破壊された強化兵士|《エクソソルジャー》の金属と生体の残骸が転がり、壁にはエネルギー兵器による焦げ跡が生々しく残っている。
その中心で、シオンとフードの女は、息を切らせながら対峙していた。
最後の敵――この非道な実験を主導していた、冷たい目をした科学者と、彼を守るようにプログラムされた最後の強化兵士たち。
「……しぶとい……実にしぶとい。まるで害虫のようだ」
科学者は、まるで心底うんざりしたかのように、しかしその瞳の奥には歪んだ愉悦の色を浮かべて呟いた。
「だが、それもここまでだ。あなた方のデータは、今後の『進化』の糧となるだろう」
彼の白衣は、戦闘の余波で汚れているが、その表情には焦りや恐怖の色は一切ない。
まるで、自らが神にでもなったかのような、傲慢さが滲み出ている。
足元の床が、彼の立つ場所だけ、わずかに振動しているように感じられるのは、気のせいだろうか。
「……まだ、そんな戯言を」
シオンは、憎悪を込めて吐き捨てた。
彼の体は、限界に近い。
脇腹の傷からは、未だに出血が続いている。
呼吸をするたびに、鉄錆のような血の味が口の中に広がった。
隣に立つフードの女も、その呼吸は浅く、構えるエネルギーピストルの銃口が微かに震えている。
彼女もまた、消耗している。
「戯言だと? これは、人類を新たなステージへと導くための、神聖な研究なのだよ」
科学者は、芝居がかった仕草で両手を広げた。
「旧時代の倫理や、感傷に囚われている君たちには、理解できんだろうな。……まあ、理解する必要もない。君たちは、ここで消えるのだから」
彼の言葉を合図にしたかのように、残っていた二体の強化兵士が、同時にシオンと女へと襲いかかってきた。
その動きには、もはや以前のような精密さはなく、ただ目標を破壊するためだけの、剥き出しの暴力性が感じられた。
科学者は、後方のコンソールへと下がり、何かを操作し始める。
このラボそのものを、自爆させるつもりか?
「……やるしかないようね」
フードの女が、低い声で言った。
「ええ」
シオンも、短く応じた。
彼らの間に、言葉はなくとも、一つの意思が通じ合っていた。
科学者を止め、そして……ここにある「証拠」を確保する。
2
戦闘は、もはや技術や戦術を超えた、意地と意地のぶつかり合いだった。
シオンは、消耗しきった体に鞭打ち、強化兵士の一体と組み合う。
ライフルは弾き飛ばされ、ナイフも通じない。
彼は、もはやエージェントとしてのスキルではなく、生き残るための本能だけで戦っていた。
相手の装甲の隙間を狙い、関節を破壊しようと試みるが、強化されたパワーに弾き返される。
壁に叩きつけられ、視界が明滅する。
(……ここまで、なのか……?)
薄れゆく意識の中、彼は遠い日の記憶を思い出していた。
組織に入ったばかりの頃。
まだ、世界を変えられると信じていた、若き日の自分。
その理想は、いつ、どこで、すり潰されてしまったのだろうか。
『……まだよ!』
声が、聞こえた。
フードの女の声だ。
彼女は、もう一体の強化兵士の攻撃を、驚異的なアクロバットで躱しながら、シオンに叫んでいた。
「あなたが諦めたら、終わる!」
その声に、シオンの意識が引き戻される。
そうだ。
まだ、終われない。
あの探偵に送った情報。
自分が託した「火種」。
それを、無駄にするわけにはいかない。
彼は、最後の力を振り絞り、組み合っていた強化兵士の頭部センサーに、至近距離からハンドガンの最後の弾丸を叩き込んだ。
センサーが砕け散り、強化兵士は動きを止める。
同時に、フードの女もまた、相手の強化兵士の動きを封じていた。
彼女は、エネルギーピストルではなく、どこからか取り出した特殊なワイヤーのようなものを使い、相手の関節を縛り上げ、機能を停止させていたのだ。
その手際の良さは、暗殺者の技だ。
残るは、科学者一人。
彼は、コンソールの操作を終え、忌々しげに二人を睨んでいた。
「……間に合わなかったか。……だが、もう遅い!」
彼がスイッチを押そうとした、その瞬間。
女が投げた小型のディスクが、コンソールに吸い付くように貼り付き、激しい放電を起こした。
コンソールは完全に沈黙し、科学者は腕を押さえて床に蹲る。
「……これで、終わりね」
女は、ピストルの銃口を科学者に向けた。
「……待て」
シオンが、制止した。
「……殺すな」
「……なぜ? こいつは、それだけのことをしたでしょう」
女の声には、冷たい響きがあった。
「……ああ。だが、こいつを殺しても、何も変わらない。……俺たちが知りたいのは、この研究データと、それを指示した者の正体だ」
シオンは、中央のサーバーラックへと、ふらつく足取りで向かった。
データチップを接続する。
コピーが始まる。
ラボの外からは、先程よりもさらに多くの追手の気配が迫ってきていた。
拠点の自爆シーケンスは止められたかもしれないが、警戒態勢は最高レベルになっているはずだ。
3
『……コピー完了』
無機質な音声。
シオンは、安堵よりも先に、虚脱感に襲われた。
証拠は、手に入れた。
だが、このデータをどうする?
自分は、これからどうなる?
「……シオン」
フードの女が、声をかけてきた。
彼女は、拘束した科学者から奪い取ったらしい認証キーと、小型の通信デバイスを手にしていた。
「……このデータ、どうするつもり?」
「……外部に送った。……信頼できるかどうかは分からないが……日本の探偵に」
シオンは、正直に答えた。
女は、少し驚いたような気配を見せたが、すぐに頷いた。
「……そう。……なら、あなたは生き延びて、その結末を見届ける必要があるわね」
彼女は、通信デバイスをシオンに差し出した。
「これは、追跡不可能な回線。……もし、本当に『面白い情報』を掴んだら、連絡してきてもいいわよ」
そして、彼女は認証キーを使い、ラボの隠し通路を開いた。
その先には、緊急脱出用の小型ポッドが見える。
「……これで行きなさい。私は、別のルートから出る。……少し、『掃除』もしていかないといけないしね」
彼女の言う「掃除」が何を意味するのか、シオンは聞かなかった。
「……あなたは、一体……?」
シオンは、最後に、もう一度だけ尋ねた。
女は、フードの奥で、やはり表情を窺わせずに答えた。
「……私は『エコー』。……今は、そう名乗っておきましょうか」
「エコー……」
「ええ。……いつか、また反響のように、あなたの前に現れるかもしれないわね」
彼女は、シオンをポッドへと促した。
シオンは、名残惜しむように、しかし迷いを振り切ってポッドに乗り込んだ。
ハッチが閉まる直前、彼はエコーに問いかけた。
「……なぜ、俺を?」
エコーは、一瞬だけ動きを止め、そして、静かに答えた。
「……あなたは、ただの駒(ポーン)ではなかった。……自分の意志で、盤を動かそうとした『プレイヤー』だからよ」
それが、シオンが最後に聞いた、彼女の言葉だった。
ポッドは、激しいGと共に、サーペント社の拠点から射出された。
手の中には、世界の闇を暴くかもしれないデータ。
そして、懐には、エコーから託された、未来への(あるいは更なる混沌への)通信手段。
彼の孤独な戦いは、まだ終わらない。
託された火種が、大きな炎となることを信じて―――。
『サーペント・ゲーム』 了
この物語はフィクションです
いいなと思ったら応援しよう!
「利益」をもたらすコンテンツは、すぐに廃れます。
不況、インフレ、円安などの経済不安から、短期的な利益を求める風潮があっても、真実は変わりません。
人の心を動かすのは「物語」以外にありません。
心を打つ物語を発信する。
時代が求めるのは、イノベーティブなブレークスルーです。
