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ガラス細工のプロメテウス ─ 偽りのアリア ─


硝子の 平和

上空から見下ろせば、そこは都市の肺胞だ。 陽光を浴びた芝生が、微かな土の匂いを放っている。噴水が撒き散らす水の粒子が、肌に刺さる無数の針のように冷たい。子供たちの歓声は、遠くで鳴り響く高周波のノイズとなって耳の奥を掻き乱す。 平和。 その言葉を具現化したような景色の中で、和泉漣はベンチに深く身を沈めていた。

膝に置いたバックパックの、硬いナイロンの感触。 その重みだけが、唯一のリアリティを持って漣の意識に食い込む。中にあるのは、破壊の種子。コードネーム「カサンドラ」。 「……遅いな」 呟きは、噴水の音に掻き消された。 ポケットのスマートフォンが、太腿を短く、執拗に叩く。 『計画ハ、最終段階ヘ』 無機質な振動。 風景の彩度が、一瞬にして色褪せた。 平和な公園は、薄氷の上に築かれた蜃気楼へと変貌する。指先一つで砕け散る、脆いガラス細工の舞台だ。

嘘の ぬくもり

「───漣くん!」

その声が、硝子の世界を切り裂いた。 白いワンピース。 午後の光を透過させる陽菜が、そこに立っていた。 手には、売れ残りのガーベラとカスミソウ。湿った茎の匂いと、彼女が纏う石鹸の香りが、殺伐とした漣の鼻腔をくすぐった。

「ごめんね。待った?」 「今、来たところだ」 嘘が、滑らかに唇を滑り落ちる。 差し出された花束を受け取る。指先が触れ合った瞬間、静電気のような痺れが走った。 この温もりを守るために世界を敵に回す自分と、その世界を灰に帰そうとする自分。 矛盾する二つの心音が、鼓膜の裏で重なり、不協和音を奏でる。

「漣くん、仕事はどう?」 不意に、隣に座った陽菜の旋律が変わった。 「ウェブデザイン。今は金融系のサイトを組んでる。壁を作るような、退屈な仕事だよ」 「壁、か。漣くんらしいかも」 彼女の視線が、コンマ数秒だけ鋭利な刃物となった。漣はそれを見逃さない。 「誰も入れない、自分だけの城壁を作ってるみたい」 冷たい風が、二人の間を吹き抜けた。

凍る 恋

「もしも明日、世界が終わるとしたら。漣くんはどうする?」

恋人同士の、他愛ない問いかけ。 だが、漣にはそれが、喉元に突きつけられた冷たい銃口のように感じられた。 心拍数が跳ね上がるのを、鉄の意志で抑え込む。 「……美味しいものを食べて、君ときれいな景色を見るかな」 「きれいな景色。どこがいい?」 「どこでもいい。君といられれば」

陽菜の表情から、一切の色彩が消えた。 それは、観測者が対象を解体する時の、無機質な「間」だった。 「嬉しい。……ねえ、漣くん」 「なに?」 「カサンドラって、知ってる?」

世界中の音が消失した。 真空の中に放り出されたような静寂。 「……ギリシャ神話の王女だろ」 声が震えないよう、喉の筋肉を硬直させる。

「そう。真実を語っても誰にも信じてもらえない、哀れな預言者」 陽菜が立ち上がる。 逆光。 彼女の影が、黒い染みのように漣の上に落ちた。 「警視庁公安部外事第三課、陽菜です」 金属的な手帳が開かれる音が、恋人たちの時間を無残に断ち切った。 「和泉漣。あなたを爆発物取締罰則違反の容疑で、任意同行します」

そこにいたのは、愛しい女ではない。 冷徹なシステムの一部。 漣は、深い絶望の淵で、奇妙な安堵を覚えていた。 やはり、この世界は守るに値しなかった。

脚本の 裏

カチリ。 手帳が閉じられる音が、世界の崩壊を告げる合図となる。 ベンチで新聞を広げていた男。ジョギング中の女。清掃員。 それらすべてが役割を脱ぎ捨て、包囲網という一つの有機体へと変貌した。 「見事な演技だ」 漣は立ち上がり、見知らぬ他人のような彼女を見下ろした。 「アカデミー賞ものだよ。俺は本気で、君という幻影を愛していた」

陽菜の眉が、わずかに震える。鉄壁の仮面に生じた、微細な亀裂。 「仕事ですから」 「仕事か。素晴らしいな。人の心を弄ぶのが、君たちの正義か」 バックパックを背負い直す。 漣は両手を軽く広げ、無抵抗の意思を示した。 「一つだけ。あの花は?」 「……」 「いつも君がくれた売れ残りの花。あれも経費か?」

陽菜の瞳が揺れた。 プロファイリングが追いつかない、想定外のエラー。 「答える義務はありません」 「そうか。もういい」

漣は歩き出す。 すれ違いざま、彼女の耳元で囁く。 吐息のような、呪いの言葉。 「舞台は終わった。だが、君たちはまだ本当の脚本を読んでいない。カサンドラを捕らえても、予言は止まらない。……最後のスイッチが入った」

記憶の 鍵

警視庁本庁舎。 無機質な蛍光灯が、陽菜の青白い顔を照らし出す。 デジタルフォレンジックの結果は「白」。 漣のPCからは、何も出なかった。 あまりに綺麗すぎる。 まるで、誰かに見られることを前提とした、冷たい展示室のようだ。

陽菜は監視カメラの映像を見つめる。 取調室の漣は、一言も発しない。ただ静寂を纏い、虚空を睨んでいる。 デッドマンズ・スイッチ。 彼が社会から隔離された瞬間に作動する、何かがある。 陽菜は、彼と共有した時間という名の記憶の層を、指先を汚しながら掘り起こした。

ある雨の日。彼が愛したレコード。 『旅を経てきた後のアリアは、出発点と同じであって、同じではない』 円環。回帰。 陽菜は震える指でキーボードを叩いた。 J.S.バッハ。ゴールドベルク変奏曲。作品番号。 「BWV988」

画面上に、隠されたドライブが音もなく浮上した。 その名は、『プロメテウスの火』。

共犯の 刻

ファイルが開く。 画面を埋め尽くす文字列は、遺書であり、宣戦布告だった。 『陽菜。君がこれを見ているということは、第三のスイッチが入ったということだ』

彼が仕掛けたウイルス『タルタロス』。 それはシステムの破壊ではなく、そこに流れる「黒い血流」を白日の下に晒すためのライトアップだった。 汚職。マネーロンダリング。警察組織の裏金。 漣はテロリストではない。彼は、命を賭した告発者だった。

『解除コードは、君だけが知っている。思い出してほしい。我々が最後に会うはずだった、あの場所を』

公園。ベンチ。 それを入力し報告すれば、計画は止まる。世界は「平和」なままだ。 だが、それは腐敗の上に成り立つ偽りの平穏。 組織の闇を葬り、自分だけが生き残る道。

陽菜は目を閉じた。 瞼の裏に、漣の静かな微笑みが浮かぶ。 彼は信じたのだ。組織の駒ではない、花を愛した一人の人間としての彼女を。 真実を分かち合える、共犯者として。

陽菜は目を開ける。迷いは消えた。 彼女は本来の解除コードを消去し、彼が本当に望んでいた、もう一つの旋律を打ち込んだ。 『ARIA_DA_CAPO』

アリアへの回帰。 エンターキーを、強く、叩く。 瞬間、世界中のスクリーンに、隠されていた「嘘」が激流のように流れ出した。 廊下が騒がしくなる。上司の怒号。 陽菜は椅子に深くもたれかかり、窓の外を見た。 東京の夜景は、変わらず輝いている。だが、その光の意味は、もう昨日までとは違う。

「……バカね、漣くん」 机の上の、萎れたガーベラに触れる。 涙が溢れた。 「こんなことしたら、もう二度と、普通の恋人同士には戻れないじゃない」

彼女は笑った。 それは公安警察官の顔でも、花屋の店員の顔でもない。 ただの、共犯者の笑顔だった。 オフィスに捜査員たちが雪崩れ込んでくる。 陽菜はゆっくりと手を挙げた。その指先には、まだ微かに、花の香りと、革命の熱が残っていた。

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蘇芳 誠(すおう まこと) 「利益」をもたらすコンテンツは、すぐに廃れます。 不況、インフレ、円安などの経済不安から、短期的な利益を求める風潮があっても、真実は変わりません。 人の心を動かすのは「物語」以外にありません。 心を打つ物語を発信する。 時代が求めるのは、イノベーティブなブレークスルーです。