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【小説】ソーマシティ・ブルース 第一部 過去の残響



第一部 過去の残響、現在の凶兆


第一章 探偵と亡霊

コンクリートの壁に反響していた遠いサイレンの音が、不意に途絶える。
後に残ったのは、換気扇の低く唸る音と、自分の呼吸の音だけだった。
安物のオフィスチェアがきしむ。
鳴海 玲二なるみ れいじは、液晶モニターの青白い光に照らされながら、眉間に深い皺を刻んでいた。
もう何時間、この画面と睨み合っているだろうか。
思考が、同じ場所を堂々巡りしている。

事務所の空気は淀んでいた。
最後に窓を開けたのはいつだったか、思い出せない。
フィルターの掃除を怠ったエアコンが吐き出す生ぬるい風には、埃と、自身の疲労と、そして微かな諦観の臭いが混じっているような気がした。
壁際には、資料の詰まった段ボール箱が無造作に積み重ねられ、その影が、部屋の隅の暗がりを一層深くしていた。
床には、読み終えたデータディスクや、空になった栄養ドリンクの容器が散乱している。
およそ、人がまともに生活している空間とは思えなかった。

モニターに映し出されているのは、最近『ユース』と呼ばれる若者たちの間で、再び出回り始めたという非合法な『強化薬』に関する情報だ。
出所不明、成分不明。
ただ、使用者は一時的に常人離れした身体能力と高揚感を得られるが、その代償として重篤な精神汚染や、制御不能な攻撃性───最悪の場合、『暴走』に至るという。
どこかで聞いたような話だ。
いや、聞き覚えがありすぎる話だった。

鳴海は、無意識のうちに、デスクの引き出しの一番奥にしまい込んである、古い事件ファイルを思い浮かべていた。
鍵のかかった、開けてはならない記憶の箱。
その中には……。

外では、自動運転車が滑るように走り去る音が、途切れなく聞こえてくる。
2046年の日本。
人々は、政府から半ば強制的に推奨される車上生活を送り、日々のかてはベーシックインカムと、オンライン上の『社会貢献活動』によって得られる仮想通貨でまかなわれる。
土地や家といった『固定資産』は、もはや一部の富裕層か、時代に取り残された者の持ち物だ。
労働の概念は変容し、人々は移動する箱の中で教育を受け、仕事をし、仮想空間で他者と繋がる。
物質的には満たされた、効率的で、管理された社会。
そのシステムの恩恵を、鳴海もまた、最低限は受けている。
だが、その快適な表面の下で、何かが確実にむしばまれ、腐敗しているのを、彼は探偵として、そして元刑事として、嫌というほど見てきた。
システムのレールから一度外れた者は、容易には戻れない。
ユースのような若者たちは、そんな社会の隙間に吹き溜まり、刹那せつな的な快楽や、安易な『力』に救いを求める。
まるで、数十年前の、もっと混沌としていた時代の亡霊ぼうれいのように。
そして、その亡霊に、自分自身もまた、深くとらわれている。

「……沙耶さやさん……」

鳴海は、引き出しの奥のファイルに手を伸ばしかけたが、思い直して、冷え切ったコーヒー(これも安物のインスタントだ)を口にした。
苦い、泥水のような味が、乾いた喉を通り過ぎていく。
あの事件。
親友、桐島 譲きりしま じょうの妹、沙耶が命を奪われた事件。
犯人は、薬物におぼれた暴漢だった。
だが、彼女を死にいたらしめたのは、本当にその男だけだったのか?
彼を狂わせた薬物は、どこから来たのか?
その背後には、誰がいたのか?
真相は、厚い壁の向こうに隠されたまま、時間だけが過ぎた。
刑事として、自分は無力だった。
その記憶が、今もなまりのように重く、彼の肩にのしかかっている。
時折、悪夢として、彼の眠りをさまたげる。

(……同じことを繰り返すわけにはいかない……)

モニターに映る強化薬の情報。
そして、もう一つのファイル。
巨大企業クロノス社。
宇宙開発の旗手きしゅとして、月面都市『ソーマ・シティ』計画を推進する時代の寵児ちょうじ
彼らが進める『プロメテウス』と呼ばれる極秘の生体強化技術。
この二つの線が、鳴海の頭の中で、不吉な交点を結び始めていた。
彼の刑事としての勘が、警鐘を鳴らしている。
それは、予感というよりも、ほとんど確信に近いものだった。

クロノス社が、ユースの間で流通する薬物に関与している?
馬鹿な。
リスクが大きすぎる。
彼らほどの巨大企業が、そんな裏社会の汚れ仕事に手をめる理由がない。
……いや、本当にそうだろうか?
あの企業には、何か底知そこしれない闇を感じる。
CEOエヴァ・ローゼンバーグは、おおやけの場にほとんど姿を見せず、AIではないかとさえうわさされている。
そして、彼女(?)の代理人として動く、カイという謎の側近……。

「……考えすぎ、か」
独り言ひとりごとちて、鳴海は椅子から立ち上がった。
固まった身体をばすと、関節が小さく音を立てた。
事務所の空気が、さらに重く、息苦しく感じられる。
外に出よう。
少し、頭を冷やす必要があった。
彼は、くたびれたコートを羽織はおると、重い足取あしどりで事務所のドアを開けた。
廊下の蛍光灯が、チカチカと不規則にまたたいていた。
まるで、これから起こるであろう、不吉な出来事の前兆のように。

夜風よかぜが、鳴海の火照ほてったほおでた。
昼間の熱気はいくらかやわらいだが、都市のアスファルトが放つ熱は、まだ足元からい上がってくる。
彼は、人通ひとどおりの少ない裏路地うらろじを選んで歩いていた。
表通おもてどおりを流れる自動運転車のれは、彼にはどこか遠い世界の出来事のように感じられた。
あの箱の中で、人々はどんな夢を見ているのだろうか。
自分が追っているような、この街の闇のことなど、想像もせずに。

『……例の件、少し動きがあった。』

スマートデバイスの秘匿ひとく通信アプリが、ポケットの中で短く振動した。
送信者は『A』。
鳴海は、周囲に注意を払いながら、落書きだらけのシャッターの前で立ち止まり、壁に背を預けてデバイスを開いた。
画面の光が、彼の疲れた顔を青白く照らし出す。

「A……神代かみしろアキラか」
鳴海は、その名前を小さく口にした。
警察時代、退職間際まぎわの先輩刑事から、「何かあったら、こいつを頼れ。……ただし、深入ふかいりはするな。……あいつは、『こっち側の人間じゃない』」と、半ば強引に引き継がされた情報屋。
元ユース。
ハッキングの腕は超一流。
裏社会の情報に精通している。
だが、その素性すじょうは謎に包まれていた。
彼女もまた、この灰色の街の影で、何かと戦っているのかもしれない。
その戦いが、自分の追うものと、どこかで交差しているような、そんな予感が、以前からしていた。

くわしく聞かせろ。』
鳴海は返信する。
彼女からの情報は、常に断片的で、核心を突くことは少ない。
だが、その断片を繋ぎ合わせるのが、鳴海の仕事だ。
そして、その断片は、しばしば、驚くほど正確だった。

『ユース内の運び屋はこびやが、今夜、クロノス社の関連施設で『何か』を受け取るらしい。例の強化薬の新型、という噂。』
『場所と時間は。』
『第7セクター、廃棄区画はいきくかくにある旧データセンター。おそらく午前2時。……でも、鳴海さん、これは危ない。相手は、ただの売人ばいにんじゃないかもしれない。……それに、その施設……最近、妙なエネルギー反応が観測されてるっていう、未確認情報もある。』
アキラからの返信には、めずらしく、明確な警告のひびきがあった。
彼女の『予感』のようなものか。
あるいは、彼女自身がつかんでいる、更なる情報があるのか。

添付されてきた不鮮明な監視カメラの画像。
施設の通用口つうようぐち
そこで密会する、二つの影。
鳴海は、その画像の一部を拡大した。
運び屋とおぼしき男の腕に、奇妙なあざのようなものが見える。
(……これ……は……!?)
見覚みおぼえがある。
そうだ、数年前、桐島の妹の事件で……!
あの時、押収された遺留品いりゅうひんの中に、これと酷似こくじした模様が……!
偶然か?
いや、偶然にしては、出来すぎている。
過去と現在が、ここで確実に繋がった。
鳴海の心臓が、激しく高鳴たかなる。
同時に、背筋を冷たいものが走った。
これは、単なる薬物取引やくぶつとりひきではない。
もっと、根深ねぶかい何かが……。

『分かっている。……対価たいかは?』
鳴海は、高鳴る鼓動を抑え、返信した。

『……例の資料……桐島さんの妹さんの事件の、未公開検死けんしデータ。……本当に、いいの? あなたにとっても……彼にとっても……辛いだけの記録かもしれないのに。』
アキラからのいかけ。
その文面には、情報屋としてのビジネスライクな態度とは裏腹うらはらな、人間的な気遣きづかいがにじんでいた。

鳴海は、一瞬、ためらった。
あの記録を、再び掘り返すことの意味。
桐島の、そして自分自身の、えることのない傷に、塩を塗り込むような行為かもしれない。
だが、ここで躊躇ちゅうちょしていては、真実にはたどり着けない。
そして、アキラもまた、この情報を切実に必要としているのかもしれない。
彼女自身が抱える、あの秘密と、この事件は、どこかで繋がっているのではないか……?
そんな予感もあった。

『……ああ。データで送る。』

鳴海は、警察のデータベースの奥深くに眠る、封印されたファイルへのアクセスコードを、震える指で打ち込んだ。
送信ボタンを押した瞬間、ポケットの中のデバイスが、まるで生きているかのように、微かに熱を持った気がした。
気のせいではない。
何かが、動き出している。
過去の亡霊が、現在へと、その手を伸ばし始めている。
確実に。

『……受け取った。……ありがとう。……でも、本当に、気をつけて。……何か、『嫌な予感』がする。……とても、強く。』
アキラからの最後のメッセージ。
その言葉が、鳴海の胸に、冷たく、そして重いとげのように突き刺さった。
夜風が、ひときわ強く吹き抜け、路地裏ろじうらのゴミを舞い上げた。

旧データセンター周辺の空気は、予想以上によどんでいた。
廃棄された施設特有の、ほこり金属錆きんぞくさびの臭い。
そして、どこからかただよってくる、甘ったるいような、それでいて神経を逆撫さかなでするような、奇妙な臭気しゅうき
(……強化薬……? いや、もっと……危険な何かの……)

鳴海は、建物の影に身をひそめ、息を殺してターゲットが現れるのを待っていた。
午前2時を少し回った頃。
一台の黒いバンが、音もなく施設の前で停止した。
中から降りてきたのは、画像で見た、腕に痣のある運び屋の男。
そして、もう一人。
フードを目深まぶかに被り、顔は見えないが、そのたたずまいは、明らかに常人ではなかった。
ピリピリとした、危険なオーラを放っている。

(……あれが、クロノス社の……受け取り役うけとりやくか……?)

鳴海が身を乗り出そうとした、その時。
彼の背後、そして左右から、同時に複数の気配が現れた!
殺気!

わなだ!)

アキラの警告は、正しかった。
相手は、こちらが来ることを、完全に読んでいたのだ!
鳴海は、咄嗟とっさに身をひるがえし、物陰ものかげに飛び込んだ。
ほぼ同時に、彼がいた場所を、数条すうじょう閃光せんこうが走り、コンクリートの破片が飛び散った!
レーザー銃か、あるいはもっと強力な兵器か。
高熱でアスファルトが溶ける臭いが、鼻をつく。

鳴海は、壁に背をつけ、荒い息をつく。
完全に包囲されている。
相手の数は?
装備は?
目的は、鳴海の排除か、それとも……?(←地の文の「俺」を三人称に変更)

(……どうする……!?)

応援を呼ぶか?
いや、警察は信用できない。
アキラに連絡を?
彼女も、追われているかもしれない。
桐島は……?
彼を、これ以上巻き込むわけには……!

思考が、あせりで空転する。
冷たい汗が、ひたいを伝う。
足元が、ぐらつく。
『強化』の後遺症こういしょうか、それとも、純粋な恐怖か。

その時、鳴海の全ての思考を停止させるほどの、異様なまでのプレッシャーが、夜空よぞらから降ってきた。
建物の屋上。
そこには、いつの間にか、一つの人影が立っていた。
月明つきあかり(それは、今夜はやけに白く、冷たく感じられた)に照らし出された、そのシルエット。
長いコート。
そして、両手に、何か──高速で回転する、金属質きんぞくしつの物体──を持っている。

ゼノ。
間違いない。
サーペント社の、宗教派しゅうきょうは暗殺者あんさつしゃ

(……なぜ、奴がここに……!? これは、クロノス社か、ロンウェイ派の罠ではなかったのか……!?)

混乱する鳴海の思考を嘲笑あざわらうかのように、屋上のゼノが、ゆっくりと右腕を上げた。
その手に握られたハンドスピナーが、不気味なかがやきを放つ。
そして、その腕が、振り下ろされる。

鳴海が潜む物陰全体が、すさまじい衝撃と共に、粉砕ふんさいされた───!


第二章 静かなる拳

鳴海は、冷たいアスファルトの上を疾走していた。
肺が焼け付くようだ。
スマートデバイスに表示されたアキラからの警告――『罠だ』『奴(ゼノ)がそこにいる』――が、脳内で警鐘のように鳴り響いている。
事務所への襲撃。
そして、データセンターでの待ち伏せ。
相手は、こちらの動きを正確に、あるいはそれ以上に読んでいた。
恐るべき情報収集能力、あるいは予測能力。
クロノス社、あるいはサーペント。
そのどちらか、あるいは両方が、本気で自分を排除しようとしている。

タクシーを拾い、運転手に素っ気なく行き先を告げる。
自動運転に切り替わった車内で、鳴海は荒い呼吸を整えながら窓の外に目をやった。
流れていく都市の灯り。
2040年代のこの国は、完全な社会福祉が実現され、人々は物質的な不自由からは解放されたはずだった。
だが、その光の下には、より深く、暗い闇が広がっている。
ユース。
非合法な強化薬物。
人体改造。
そして、桐島の妹、沙耶の死……。
全てが繋がっている。
このままでは、また同じ悲劇が繰り返される。

(桐島……)

彼しかいない。
この状況で、自分を匿い、そしてあの『ゼノ』という異常な存在に対抗しうる人間がいるとすれば。
鳴海は、スマートデバイスの連絡先リストから、一つの名前を呼び出した。

都心から少し離れた、古い街並みが残る一角。
そこに、桐島譲の道場兼住まいはあった。
「桐島流」とだけ書かれた古風な木の看板が、周囲の近代的な建物とは異質な空気を放っている。
鳴海が重い木の門を叩くと、間もなく、内側から静かに開かれた。

「……来たか」

そこに立っていたのは、桐島 譲きりしま じょうだった。
道着姿ではなく、作務衣(さむえ)のような簡素な衣服を身に着けている。
その佇まいは、以前と少しも変わらない。
鍛え上げられた肉体は、威圧感ではなく、むしろ研ぎ澄まされた鋼のような静謐(せいひつ)さを感じさせる。

「……ああ。少し、厄介なことになった」
鳴海は、短く答える。
「だろうな。顔を見ればわかる」
桐島は、鳴海を道場の奥へと促した。
内部は、華美な装飾は一切なく、磨き上げられた板の間と、壁にかけられたいくつかの武具だけが、凛とした空気を醸し出している。
まるで、ここだけが時代の流れから取り残されたかのような、あるいは超越したかのような空間。

桐島は無言で茶を淹れる。
その流れるような所作を眺めながら、鳴海は先程までの追跡劇の緊張が、少しずつ解けていくのを感じていた。
だが、同時に、この静寂を破るであろう次の脅威が、すぐそこまで迫っていることも予感していた。

「奴は、強いのか」
桐島が、湯呑みを差し出しながら、静かに問うた。
「……ああ。次元が違うかもしれん」
鳴海は、ゼノの気配、そして事務所の惨状を思い出しながら答えた。
「そうか」
桐島は、それ以上何も聞かず、ただ静かに茶をすすった。
彼の目には、恐れも、驚きもない。
ただ、これから起こるであろうことに対する、静かな覚悟だけが宿っているように見えた。

その夜。
道場の外の空気が、再び張り詰めた。
先程まで聞こえていた虫の声が、ぴたりと止む。
暗闇の向こうから、ゆっくりと近づいてくる気配。
一つ。
間違いない、奴だ。

桐島が、すっくと立ち上がった。
鳴海も、腰の拳銃に手を伸ばしかけるが、桐島の静かな視線に制される。

「ここは、俺の場だ」

桐島は、道場の引き戸を自ら開け放ち、夜の闇の中へと歩み出た。
門の前。
街灯の光が届かない暗がりに、人影が立っていた。
ゼノだ。
両手のハンドスピナーは、今は回転を止めているが、その存在自体が異様な圧力を放っている。

「探偵を、渡せ」
ゼノの声が、静寂を破る。

「断る、と言ったはずだ」
桐島は、ゼノの前に、静かに、しかし揺るぎなく立ちはだかった。
古武術の構えではない。
ただ、そこに「いる」だけ。
だが、その自然体こそが、ゼノにとっては最も測り難い脅威と感じられた。

「……ならば」
ゼノの右手が、僅かに動いた。
ハンドスピナーが、再び回転を始める。
空気が震え、殺意が密度を増していく。

「お前の相手は、俺だ」

桐島の言葉が、最後の合図となった。
次の瞬間、ゼノの姿が消え、夜の闇の中で、人知を超えた二つの力が、激しくぶつかり合おうとしていた―――。


第三章 静と動の狭間

夜気が肌を刺す。
桐島譲とゼノ。
二人の間に流れる空気は、触れれば斬れるかのような鋭い緊張に満ちていた。
鳴海は、道場の入り口から固唾を飲んでその対峙を見守るしかない。
介入できるレベルの戦いではないことを、肌で感じていた。

先に動いたのは、ゼノだった。
予備動作がない。
地を蹴る音もなく、その姿が闇に溶けるように揺らぎ、瞬間移動したかのように桐島の眼前へと迫る。
右手のハンドスピナーが、高速回転による慣性エネルギーを乗せて、凶器と化し桐島の喉元を抉らんと突き出された。

しかし、桐島はそこにいなかった。
ゼノの拳が空を掻く。
幻影を殴ったかのような、手応えのない感覚。
桐島は、まるで水面に落ちた葉が波紋に合わせて動くように、ゼノの攻撃を予測したかのように、最小限の動きで死角へと滑り込んでいた。

(速い……! だが、それだけではない……!)

ゼノは即座に体勢を立て直し、今度は低く、鋭いローキックを放つ。
桐島の軸足を刈り取り、体勢を崩すための、総合格闘技(MMA)の定石。
しかし、その蹴りもまた、桐島の足が僅かに浮き上がることで、的を外れる。
まるで、攻撃そのものが存在しないかのように、桐島はその場に静かに立ち続けている。

「……面白い」
初めて、ゼノの口元に獰猛な笑みが浮かんだ。
ただ速いだけではない。
ただ避けるだけでもない。
この男は、自分の攻撃の「起こり」そのものを見切っている。
ならば―――

ゼノの動きが変わる。
直線的な突進から、フェイントを織り交ぜた、より複雑なステップへ。
回転するスピナーを陽動に、死角から肘が、膝が、予測不能な角度で桐島を襲う。
チャンピオンクラスの総合格闘家ですら反応できないであろう、変幻自在のコンビネーション。

パァン!
乾いた音が響く。
ゼノの肘が、ついに桐島のガードを僅かにかする。
衝撃で桐島の体がわずかに揺らぐ。
その瞬間を、ゼノは見逃さなかった。
一気に距離を詰め、クリンチからのテイクダウンを狙う!

(捕らえた!)

柔道やレスリングの技術を昇華させた、完璧なタイミングでのタックル。
桐島の流れるような体捌きも、密着状態、そして寝技(グラウンド)に持ち込めば封じられるはずだ。
ゼノは確信する。

床に叩きつけられる寸前、桐島の体が、水中の生物のようにしなやかに捻じれた。
ゼノの腕からするりと抜け出し、逆にゼノの体勢を崩そうとする。
だが、ゼノもまた、一流のグラップラーとしての技術を持っていた。
彼は執拗に桐島に食らいつき、もつれ合うようにして二人は板の間に倒れ込んだ。

寝技の攻防。
桐島の動きは、床という制限の中でもなお、常識を超えていた。
関節を狙うゼノの腕を、まるで意思がないかのように受け流し、逆に僅かな隙間から鋭い指突きをゼノの経絡(けいらく)に打ち込む。

「ぐ……ぅ……!」

電流が走るような痺れと痛みに、ゼノの動きが一瞬止まる。
その隙に、桐島は再び距離を取ろうとする。

(この男……寝技でも……!?)

ゼノの驚愕は、もはや隠しようもなかった。
立ち技での異常な体捌きに加え、寝技においてもこれほどの対応力を見せるとは。
プライドの高いゼノにとって、これは許容しがたい事態だった。

「舐めるなァッ!!」

獣のような咆哮と共に、ゼノは折られた(あるいは極められかけた)腕の痛みも無視し、強引に桐島に殴りかかる。
マウントポジションを取り、鉄槌のような拳を振り下ろす。
桐島はそれをガードし、あるいは受け流すが、そのパワーは凄まじく、受け止める腕に鈍い痛みが走る。
骨が軋む音が、聞こえるかのようだ。

血飛沫が飛ぶ。
どちらのものか分からない汗と血が、道場の床を濡らす。
ゼノの荒々しい呼吸と、桐島の極限まで集中した静かな呼吸が対照的だ。
パワーとキレのゼノ。
達人の消えるような動きと、急所を的確に打つ桐島。
二人の戦いは、互いの肉体を削り合う、まさに命を燃やす攻防となっていた。

激しい打撃戦の中、ふと、両者の動きが止まる瞬間があった。
互いに浅くない傷を負い、呼吸を乱しながら、至近距離で睨み合う。
その瞳には、憎悪や殺意だけではない、別の感情が宿り始めていた。
それは、己の限界を引きずり出した相手に対する、戦士としての純粋な「認識」。
言葉はなくとも、互いが互いを、これまでの敵とは全く異なる、特別な存在として認め始めていることが、その視線の交錯から伝わってきた。

(この男……俺が今まで戦ってきた誰とも違う……!)ゼノは思う。
(これほどの強さ……これが、人間の……)桐島もまた、驚きを禁じ得ない。

再び、空気が震える。
次の一撃で、決着がつくかもしれない。
互いが、持てる全てをぶつけようとした、その時―――

―――キィィィン……。

遠くから、甲高いサイレンの音が、夜の静寂を破って近づいてくるのが聞こえた。
おそらく、先程の鳴海の事務所襲撃か、あるいはここでの戦闘の音を、誰かが通報したのだろう。

「……チッ」

ゼノは、忌々しげに舌打ちをした。
彼の表情には、戦いを中断されることへの明確な不満と、そして、目の前の好敵手に対する、名残惜しさのような複雑な感情が混じっていた。

彼は、一瞬だけ桐島を、そして道場の奥にいるであろう鳴海を鋭く見据えると、驚異的な跳躍力で闇の中へと後退し、その姿を完全に消した。
任務の障害であることに変わりはない。
だが、この「桐島譲」という男との決着は、いずれ、改めてつけなければならない。
そう、ゼノの本能が告げていた。

後に残されたのは、破壊された門の一部、飛び散った血痕、そして、静かに夜空を見上げ、ゆっくりと呼吸を整える桐島の姿だけだった。
鳴海は、ただ呆然と、その光景を見つめていた。


第四章 見えざる敵

遠ざかるサイレンの音を聞きながら、鳴海は桐島の道場の奥で、淹れ直された熱い茶をすすっていた。
先程までの死闘の痕跡――破壊された門、飛び散った血痕――は、桐島が音もなく片付けている。
その背中に、鳴海は声をかけられずにいた。

「……奴は、また来るだろうな」
片付けを終えた桐島が、静かに言った。
「ああ。だが、少し様子が変わるかもしれん」
「と、言うと?」
「最後に見た奴の目……。あれは、ただ任務を遂行するだけの者の目ではなかった。何かを知り、そして迷っているような……あるいは、己の限界を知って愕然としたような……そんな色があった」
桐島は、自らの掌を見つめる。
「あれほどの男が、だ。……不気味だな」

鳴海は桐島の分析に頷きつつ、スマートデバイスを取り出した。
アキラに、ゼノと宗教派――ゾロアゾシース魔術騎士団――についての追加情報を依頼する。
『奴は、単なる狂信者ではないかもしれない。何か個人的な理由で動いている可能性は?』
すぐに返信が来る。
『……依然として、ゼノ個人の情報はゼロ。でも、魔術騎士団の思想について少し分かったことがある。「原初の人間への回帰」「技術による魂の汚染の排除」「選ばれし者による世界の浄化」……危険なカルト思想ね』
『選ばれし者……ゼノのことか?』
『分からない。でも、彼らは特定の血筋や、古代の秘術のようなものを信奉している節がある』

古代の秘術。
まるで桐島の使う武術のようだ、と鳴海は思った。
だが、桐島のそれは、鍛錬と精神によって極められた「人間の技」だ。
宗教派の言う「選ばれし者」とは、恐らく違う。

アキラは、薄暗い自室のベッドに横たわっていた。
モニターの光が、彼女の青白い顔を照らしている。
宗教派のネットワークへの侵入は、予想以上に困難だった。
カイが構築したと思われるクロノス社の防御壁ほどではないにしろ、そこには物理的な防御とは異なる、ある種の「呪術的」とも言えるようなプロテクトが施されていた。
まるで、こちらの精神に直接干渉してくるかのような……。

(……また、だ……)

軽い眩暈(めまい)と共に、あの不快な感覚が襲ってくる。
侵食感しんしょくかん
能力を使うたびに、皮膚の下で、あるいは精神の奥底で、何かが自分を蝕んでいくような感覚。
手袋を外し、自らの腕を見る。
気のせいかもしれない。
だが、月光に照らされた肌の上で、鱗状の組織が、以前よりもわずかに範囲を広げているように見えた。

(このまま使い続ければ……いつか、本当に……)

脳裏に、桐島の妹の悲劇がよぎる。
制御不能になった力。
破壊と殺戮の衝動。
そして、訪れる破滅的な結末。
あれが、自分たちの未来だというのか?

彼女は、薬箱から取り出した抑制剤(効果は一時的で、気休めにしかならない)を飲み下し、再びモニターに向かう。
恐怖に屈しているわけにはいかない。
この力の正体、そしてそれを生み出した者たちを突き止めなければ、自分にも、そして同じ苦しみを抱えるかもしれない他の「新人類」たちにも、未来はない。
彼女は、痛む頭を押さえながら、再びハッキングを開始した。
ターゲットは、サーペント利益派――ロンウェイ派のリーダー、丛 龍偉ツォン ロンウェイの金の流れだ。

鳴海は、過去の事件資料と、アキラから送られてくる断片的な情報を照らし合わせながら、都内の再開発地区を歩いていた。
ここは、かつて桐島の妹の事件に関わる薬物が流通していたエリアの一つだ。
当時、この地域の再開発を巡って、いくつかの企業や組織が暗躍していた。
その中に、ツォン・ロンウェイが関与していたとされるペーパーカンパニーの名前を見つけた。

聞き込みを続けるが、当時のことを知る者は少ない。
街の景色はすっかり変わり、古い記憶は新しいビルの下に埋もれてしまっている。
ユースの溜まり場になっていた公園も、今は整備され、家族連れの姿が目立つ。
だが、鳴海の目は、その綺麗に整備された風景の裏にある歪みを見逃さない。
高価なウェアラブルデバイスを身に着けながらも、虚ろな目をした若者。
高級自動運転車から降りてきて、人目を忍ぶように裏路地へ消える男。
薬物の匂い。
絶望の匂い。
形を変えながらも、闇は確実に存在し続けていた。

ふと、視線を感じた。
雑踏に紛れるようにして、一人の男がこちらを見ている。
目が合うと、男はすぐに視線を逸らし、足早に去っていった。
(……見られている?)
鳴海は警戒レベルを引き上げる。
オルロフ(ロンウェイ)派か、それとも宗教派か。
あるいは、クロノス社か。
敵は、すぐ近くにいる。

彼は、近くのオープンカフェに入り、周囲を警戒しながらアキラに短いメッセージを送った。
『ロンウェイは、数年前、この地区の再開発に絡んでユースを利用し、非合法な薬物実験を行っていた可能性が高い。証拠を探しているが、妨害も入っているようだ』
すぐに返信。
『……気をつけて。ロンウェイ派は、邪魔者を消すのに躊躇しない』

鳴海は、カフェの窓から見える、きらびやかな都市の風景を眺めた。
この平和に見える社会の、すぐ足元で、人間が「物」のように扱われ、使い潰されている現実。
それを変えなければならない。
強く、そう思った。


第五章 蛇たちの饗宴

鳴海は、古い倉庫の屋上から、眼下の埠頭(ふとう)を見下ろしていた。
夜の闇に紛れて、数人の男たちがコンテナの間を移動している。
アキラが傍受した情報によれば、今夜、ロンウェイ派がダークウェブ経由で仕入れた最新の軍事用ドローンを受け取る手筈(てはず)になっているという。
おそらく、クロノス社への次の作戦、あるいは宗教派への攻撃に使用するのだろう。

(来たか……)

埠頭のゲートから、数台の大型トレーラーが入ってくる。
コンテナの前に停車し、中から出てきたのは、明らかに裏社会の人間とわかる風貌の男たち。
ロンウェイ派のメンバーと、武器商人との取引が始まろうとしていた。

その時だった。
どこからともなく、甲高い金属音が響き渡った。
次の瞬間、トレーラーの一台が、轟音と共に爆発、炎上した!

「なっ……!?」

現場は一瞬で混乱に陥る。
銃声が響き渡り、利益派のメンバーと武器商人が応戦しようとするが、彼らを襲ったのは、物理的な攻撃だけではなかった。

(なんだ……あれは……?)

鳴海の目には、爆炎の中から現れた、黒い影が見えた。
それは一人ではない。
複数。
そして、彼らが動くと、周囲の金属片や瓦礫が、まるで意思を持ったかのように宙を舞い、利益派の男たちに襲いかかっている。

(……念動力、だと……? いや、違う……磁場操作か……?)

理解不能な現象。
だが、鳴海の脳裏には、アキラから送られてきた、ゾロアゾシース魔術騎士団に関する断片的な情報が浮かんでいた。
「古代の秘術」「超常的な力」「悪魔召喚」……。
馬鹿げていると思っていた。
だが、目の前で起きていることは、明らかに通常の物理法則を超えている。
宗教派は、ゼノのような超人的な暗殺者だけでなく、このような異能を持つ者たちをも擁しているというのか。

戦闘は一方的だった。
利益派の最新兵器(ドローンなど)も、異能の前には無力だった。
武器商人は逃げ出し、ロンウェイ派のメンバーは次々と倒されていく。
宗教派の目的は、取引の阻止、そして利益派への打撃。
彼らは、コンテナに残されたドローンには目もくれず、倒した敵から何か(情報端末か?)を回収すると、再び闇の中へと消えていった。

鳴海は、ただ呆然とその光景を見つめていた。
サーペントの内部抗争は、想像以上に根が深く、そして異様だった。
これは、単なる組織の主導権争いではない。
思想と、そしておそらくは「人間」そのものの定義を巡る、歪んだ聖戦なのかもしれない。

桐島の道場に戻った鳴海は、アキラ、そして桐島と、今夜目撃した出来事を共有した。
アキラは、ハッキングによって得た宗教派の内部資料(断片的だが)と、鳴海の目撃情報を照合する。

「……間違いない。ゾロアゾシース魔術騎士団は、科学技術とは異なる、ある種の『力』を使う集団のようです。おそらく、指導者であるガギエル長老が、その力の源泉、あるいは制御方法を握っている……」
アキラの声には、僅かな恐怖の色が混じっていた。
彼女自身、プロメテウス技術という科学の産物でありながら、その能力の根源には未知の部分(精神力?)があることを感じている。
宗教派の使う「力」は、それと同質、あるいは対極にあるものなのかもしれない。

「ロンウェイ派は、最新技術と裏社会のネットワークで対抗しようとしているが、宗教派の異能の前には苦戦しているようだ」
鳴海が続ける。
「だが、連中も一枚岩じゃない。互いに潰し合うことで、結果的に我々が動く隙が生まれている可能性もある」

「しかし……」
桐島が、静かに口を開いた。
「その『力』が、どのようなものかは分からないが、どちらの派閥も、人間を『道具』として扱っている点では同じだ。ロンウェイは利益のために、長老は己の思想のために」

桐島の言葉は、重く響いた。
新人類も、ユースも、そしてゼノのような暗殺者でさえも。
この巨大な陰謀の中で、彼らは皆、誰かの目的のために利用され、使い潰される駒に過ぎないのかもしれない。

「……全ての元凶は、やはり月にある」
鳴海が、モニターに表示されたソーマ・シティの概念図を指さした。
「クロノス社のプロメテウス技術。それを利用しようとするオルロフ……いや、ツォン・ロンウェイ。そして、それを破壊しようとするガギエル長老……。そして、地下の闘技場……。あそこに行けば、全ての答えがあるはずだ」

「でも、どうやって……」
アキラが不安げに呟く。
「カイの監視網は完璧に近い。それに、サーペントも月での活動を強化しているはず」

「道はあるはずだ」
鳴海は、強い意志を目に宿して言った。
「どんな鉄壁の守りにも、必ず隙はある。アキラさんの情報、桐島の力、そして俺の……足掻き。それらを合わせれば、必ず……」

三人の間に、沈黙が流れる。
それぞれが、これから挑む戦いの困難さと、その先にあるかもしれない僅かな希望を見つめていた。
アキラは、自身の「侵食感」への恐怖を押し殺し、静かに頷いた。
桐島もまた、無言で頷き返す。
鳴海は、二人の覚悟を確認し、改めてモニターに向き直った。

月へ。
ソーマ・シティへ。
全ての始まりと、終わりがある場所へ。
彼らの長い夜は、まだ始まったばかりだった。


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蘇芳 誠(すおう まこと) 「利益」をもたらすコンテンツは、すぐに廃れます。 不況、インフレ、円安などの経済不安から、短期的な利益を求める風潮があっても、真実は変わりません。 人の心を動かすのは「物語」以外にありません。 心を打つ物語を発信する。 時代が求めるのは、イノベーティブなブレークスルーです。