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【小説】ソーマシティ・ブルース 『プロメテウスの落とし子たち』



『プロメテウスの落とし子たち』




第一章 灰色の街、蝕む鱗

灰色の空気が、都市の谷間によどんでいる。
2045年、人々が自動運転車という移動する「家」の中で完結した生活を送るようになったこの街では、かつての「地上」の活気は失われつつあった。
特に、再開発から取り残された旧第9セクターのような場所は、時代に取り残された者たちが吹き溜まる、エアポケットのような空間となっていた。
神代 アキラは、そんなセクターの一角にある、放棄されたネットカフェの奥まったブースで、モニターの青白い光を浴びていた。
ここは、彼女が「情報屋」として、そして「ユースユース」と呼ばれる若者たちの「相談役」として活動する、数少ない拠点の一つだ。
『……だから、アキラさん、何とかならない? 例の「ブツ」、手に入れば一発逆転なんだ』
モニターに映し出されたのは、まだ十代後半であろう、しかし年の割にはやけにけた目をした少年だった。
彼が言う「ブツ」とは、裏社会で囁かれる非合法な強化薬物、あるいはそれに類する何かだろう。
一時的な快楽と力を与えるが、その先にあるのは破滅だけだ。
「……やめておきなよ、ケンジ」
アキラは、感情を抑えた、平坦な声で答えた。
「そんなものに手を出しても、何も変わらない。利用されるだけだ」
『でも……! このままじゃ、どうしようもないんだ!』
ケンジの声が、悲痛な響きを帯びる。
アキラは、何も言えなかった。
彼らの抱える閉塞感、将来への絶望感は、痛いほど分かる。
自分も、かつてはその一人だったのだから。
家族に捨てられ、社会に見放され、生きる意味さえ見失いかけていた……あの時までは。
(……プロメテウスプロメテウス……)
その技術は、彼女に人間を超えた知能と身体能力を与えた。
だが、同時に、この忌まわしい「鱗」と、常に付きまとう「侵食感」、そして「暴走」への恐怖も与えたのだ。
ケンジたちが求める「強化」の先に、本当の救いなどないことを、アキラは身をもって知っていた。
「……仕事なら、紹介できるかもしれない。少し時間はかかるけど……」
アキラは、言葉を選びながら言う。
だが、ケンジはモニターの向こうで首を振った。
『……もういいよ。アキラさんには、俺たちの気持ちなんて分からないんだ』
一方的に通信が切れる。
アキラは、ふう、と深く息を吐いた。
また一人、闇に堕ちていくのかもしれない。
無力感が、重くのしかかる。
彼女は、無意識に、長袖の服の下で自らの腕を掻いていた。
手袋の下の皮膚が、僅かにざらつく。
鱗が、また少し広がったような気がした。

数日後。
アキラの元に、ユースのネットワークを通じて、不穏な情報が流れ込んできた。
ケンジが、姿を消したというのだ。
最後に目撃されたのは、第7セクターの旧データセンター周辺。
鳴海なるみが、以前ゼノゼノに襲撃された場所だ。
あそこは、非合法な薬物や技術の取引場所として、裏社会では知られた場所だった。
(……まさか、本当に……)
アキラは、すぐさまケンジの足取りを追跡し始めた。
ハッキングで街の監視カメラの記録を漁り、ユースの仲間たちに聞き込みを行う。
しかし、情報は錯綜さくそうしていた。
ケンジが、新型の強化薬物を手に入れようとしていたらしいこと。
その取引には、ロンウェイ派の下部組織が関わっていたらしいこと。
そして……ケンジとは別の、数人のユースメンバーも、最近になって姿を消していること。
嫌な予感が、確信に変わっていく。
これは、単なる個人の暴走ではない。
組織的な「何か」が動いている。
ユースを狙った、非合法な強化処置、あるいは……「実験」。
アキラは、自身が持つ情報網をフル回転させ、背後関係を探る。
浮かび上がってきたのは、やはりツォン・ロンウェイの名前と、そして……クロノス社の影。
ロンウェイ派は、クロノス社から流出した、あるいは模倣した技術を使って、ユースを対象に危険な人体実験を繰り返しているのではないか?
そして、失敗した「被験体」は、闇から闇へと葬られている……?
(……許せない……)
アキラの瞳に、冷たい怒りの光が宿った。
自分と同じ、あるいはそれ以上の苦しみを、彼らに味あわせるわけにはいかない。
彼女は、ケンジや他の消えた仲間たちを救い出すため、そして、この非道な連鎖を断ち切るため、自ら動くことを決意した。
たとえ、それが自身の秘密を危険に晒し、「侵食」を早めることになったとしても。

アキラは、まず、ユース内部の状況を探ることにした。
ネットワークを通じてコンタクトを取ったのは、ミカという少女。
彼女もまた、アキラと同じように、この灰色の街で何とか生き延びようとしている一人だった。
以前、アキラが情報を提供し、窮地を救ったことがある。
『……ケンジのこと、何か知らない?』
アキラは、暗号化されたチャットで尋ねる。
『……アキラさん……。ケンジ、ヤバい薬に手を出したって……。最近、様子がおかしかったんだ。急にキレたり、幻覚を見てるみたいだったり……』
『薬の出所は?』
『分かんない。でも、「力が手に入る」って、誰かから紹介されたって……。「蛇(スネーク)」って呼ばれてる奴らだったらしい』
蛇(スネーク)……サーペント社のことか。
あるいは、ロンウェイ派の隠語か。
『……ミカ、あなたも気をつけて。そういう連中には近づかないで』
『……うん。でも、アキラさんこそ……。最近、変な噂が流れてるよ。「鱗を持つ女がいる」って……』
(……!)
アキラは息をのんだ。
自分のことが、すでに裏社会に漏れている?
カイか?
それとも、ロンウェイ派か?
あるいは、ユース内部の裏切り者か……。
疑心暗鬼が、心をむしばむ。
誰を信じればいいのか。
アキラは、チャットウィンドウを閉じ、深く息をついた。
孤独な戦いは、思った以上に過酷になりそうだ。
だが、彼女は立ち止まらない。
仲間のため、そして、自らの「人間」としての尊厳のために。
彼女は、危険な闇の中心へと、自ら歩みを進め始めた。



第二章 蝕む影、揺れる絆

ケンジが最後に目撃されたという、第7セクターの旧データセンター周辺。
アキラは、夜の闇に紛れてその場所にいた。
建物の構造、監視カメラの配置、過去の通信ログ……。
彼女の「強化」された脳は、断片的な情報を繋ぎ合わせ、ケンジの足取りを再構築しようとしていた。

(……取引は、行われた可能性が高い。相手は……「蛇(スネーク)」……ロンウェイ派の下部組織か……)

だが、それ以上の情報は掴めない。
ケンジは、取引の後、どこへ消えたのか。
彼だけでなく、他の消えたユースたちも。

アキラは、壁に背を預け、端末を操作する。
ユースのSNS、裏掲示板、ダークウェブのフォーラム……。
あらゆるデジタルな痕跡を探るが、巧妙に消されているのか、あるいは元々存在しないのか、有力な手がかりは見つからない。

(……直接、動くしかない……?)

危険は承知している。
ミカからの警告もあった。
「鱗を持つ女」の噂。
自分が「新人類」であることは、絶対に知られてはならない。
特に、サーペント社やクロノス社には。

だが、このまま仲間たちが消えていくのを、黙って見ているわけにはいかない。
アキラは、意を決し、ユースの中でも特に「改造」や薬物に詳しいとされる数人に、慎重にコンタクトを取り始めた。
リスクは高い。
この中にも、裏切り者がいるかもしれないのだから。

「……最近、羽振りがいい奴がいるって話だ」

アキラが接触したユースの一人、タツヤという細身の男が、神経質そうに周囲を見回しながら言った。
彼は、かつてアキラと共に、この街の底辺でもがいていた仲間だった。
今は、小さな情報ブローカーのようなことをして糊口をしのいでいる。

「羽振りがいい?」
「ああ。『新しい仕事』を始めてから、急に良い車(自動運転機能付きのカスタムモデル)に乗るようになった奴がいてな……。シマダって言うんだが」
「どんな仕事か、分かるか」
「さあな。だが、夜中にこそこそと第7セクターあたりに出入りしてるって噂だ。……なあ、アキラ。お前、何を探ってるんだ? ヤバいことには、関わらない方が……」

シマダ……聞いたことのない名前だ。
だが、第7セクター……ケンジが消えた場所と一致する。

「……ありがとう、タツヤ。この情報は助かる。……借りは、いつか返す」
アキラは、わずかな仮想通貨を彼の口座に送金し、その場を後にした。
タツヤの心配そうな視線が、背中に突き刺さる。

シマダという男。
彼が、ケンジたちの失踪に関わっている可能性が高い。
アキラは、ハッキングで彼の個人情報や行動パターンを割り出し、接触を試みることにした。

シマダのアジトと思われる、旧居住区画の廃墟ビルに、アキラは音もなく潜入していた。
強化された俊敏性と、壁や天井を自在に移動できる身体能力(これも個人差の一つか?)を活かし、警備システムや人目を掻い潜って深部へと進む。

(……いる)

最上階の一室から、複数の人間の気配を感じる。
シマダと、そして……数人の屈強な男たち。
おそらく、ロンウェイ派の関係者だろう。

アキラは、ドアの隙間から内部の様子を窺った。
部屋の中央には、医療用カプセルのようなものが数台置かれ、中には……意識のないユースの若者たちの姿があった。
ケンジもいるかもしれない。

(……やはり、ここで……!)

アキラの怒りが、静かに燃え上がる。
だが、同時に、自身の体内で「侵食感」が高まるのを感じた。
怒りや恐怖といった強い感情は、能力を不安定にする。

(……冷静に……)

彼女は深呼吸し、状況を分析する。
部屋にいるのは、シマダと用心棒らしき男が3人。
それに加え、カプセルを管理していると思われる白衣の男が一人。
多勢に無勢。
正面から突入するのは無謀だ。

アキラは、端末を取り出し、この区画のネットワークに再びアクセスした。
カイの監視が及んでいない、古いインフラ。
そこから、施設の照明や空調を操作し、混乱を引き起こす。
陽動だ。

案の定、部屋の中から慌ただしい声が聞こえ、用心棒の男たちが二人、様子を見に外へ出てきた。
(……今!)

アキラは、残ったシマダと用心棒一人、そして白衣の男がいる部屋へと、影のように滑り込んだ。
手には、スタン機能付きの特殊警棒を握りしめている。
戦闘は専門外だが、俊敏性と奇襲でなら……!

アキラの奇襲は、半分成功し、半分失敗した。
白衣の男と用心棒は、彼女の電光石火の動きに反応できず、スタン警棒の一撃で無力化できた。
しかし、シマダは違った。
彼は、アキラの接近を予測していたかのように身を躱し、逆にカウンターの拳を繰り出してきたのだ。

(こいつ……!?)

その動きは、素人ではない。
しかも、その腕には、不自然な金属光沢が見える。
サイバネティクスによる強化か?
いや、もっと生々しい……。

アキラは咄嗟に後退し、シマダの拳を避ける。
シマダは、歪んだ笑みを浮かべた。
「……お前が、噂の『鱗』か。……思ったより、手こずらせてくれる」
彼は、自らの腕――金属質の、しかしどこか有機的なパーツが埋め込まれた腕――を誇示するように見せた。
「これも『力』だ。お前ら『出来損ない』とは違う、な!」

シマダもまた、「強化」を受けていたのだ。
だが、それはプロメテウス技術とは異なる、より粗悪で、危険な改造手術の痕跡。
おそらく、ロンウェイ派が行っている実験の一つ。

シマダが、再び襲いかかる。
そのパワーとスピードは、並の人間のものではない。
アキラは、俊敏性を活かして攻撃を避け続けるが、次第に追い詰められていく。
鱗のシールドを展開すれば防げるかもしれない。
だが、それを使えば、「侵食」が進む……!

(……どうすれば……!)

アキラが逡巡した、その一瞬。
シマダの金属化した拳が、アキラの腹部を捉えた。

「かはっ……!」

壁に叩きつけられ、息が詰まる。
視界が霞み、意識が遠のきかけた、その時――。

部屋のドアが、外から蹴破られた。
現れたのは……。

「……ミカ!? それに……タツヤ!?」

アキラが情報交換していた、ミカとタツヤだった。
彼らは、アキラの身を案じ、後を追ってきたのだ。
手には、どこから調達したのか、旧式のレーザーピストルを握りしめている。

「アキラさん! 大丈夫!?」
「シマダ! お前、仲間を売ったのか!」

突然の乱入者に、シマダの動きが一瞬止まる。
その隙を、アキラは見逃さなかった。
最後の力を振り絞り、床を蹴ってシマダの懐に飛び込むと、スタン警棒を彼の首筋に叩き込んだ。

「……ぐ……」

シマダは、白目を剥いて床に崩れ落ちた。
アキラもまた、その場に膝をつき、荒い息を繰り返す。
ミカとタツヤが駆け寄り、彼女を支える。

「……ありがとう……二人とも……」

仲間からの裏切りだけではない。
まだ、信じられる絆も、ここにはあったのだ。
アキラは、込み上げてくる感情を抑えながら、カプセルの中の仲間たちへと視線を向けた。
彼らを、ここから救い出さなければ。
そして、この悪夢を終わらせなければ。
彼女の戦いは、まだ続く。





第三章 制御不能な叫び

都市の喧騒けんそうが、嘘のように遠くに聞こえる。
旧第9セクター、その中心部に位置する、かつては市民のいこいの場であったはずのマーケット広場。
しかし今、そこは悪夢のような光景に支配されていた。
ひっくり返った屋台の残骸。
破壊された自動販売機から流れ出す、甘ったるい合成飲料の匂い。
衝突し、乗り捨てられた自動運転車。
そして、広場のあちこちに飛び散った、赤黒いみ───。
空気は、粉塵と、焦げ付いたような臭気、そして……濃厚な「恐怖」そのものの匂いで満ちていた。
『……誰か……助けて……!』
『……化け物だ!』
『……逃げろ!』
広場の周辺からは、まだ人々のパニックじみた悲鳴や、遠ざかっていく足音が聞こえてくる。
だが、広場の中心部は、奇妙な静寂に包まれていた。
いや、静寂ではない。
全ての音を飲み込むような、圧倒的な「存在」が、そこにはいた。
ケンジケンジ
数日前まで、アキラに非合法な「強化」への渇望《かつぼう》を訴えていた、あの少年。
だが、今そこにいるのは、もはやケンジではなかった。
彼の身体は、苦痛に歪みながらも、異常なまでに膨張している。
皮膚は引き攣れ、所々が硬質な、金属光沢を帯びた鱗のような組織に変貌し、あるいは内側からの圧力に耐えきれずに裂け、生々しい筋肉組織が覗いている。
両腕は、不自然に肥大化し、指は鋭い鉤爪かぎづめのように変形している。
そして、その赤い双眸そうぼうには、理性のかけらもなく、ただ純粋な破壊衝動と、耐え難い苦痛だけが、濁った光を放っていた。
「……ああ……あああああ……ッ!!」
ケンジの口から漏れるのは、言葉にならない、獣の咆哮ほうこうに近い絶叫。
彼は、近くにあった街灯のポールを、まるで小枝のようにへし折り、それを無差別に振り回し始めた。
ポールが空を切り、風圧だけで周囲の瓦礫がれきが吹き飛ぶ。
これが、「暴走」。
プロメテウス技術、あるいはその劣化した模倣品が生み出す、最悪の結末。
精神が急速に崩壊し、制御不能となった力が、不可逆的に増大し、自らの身体をも破壊しながら、ただ周囲を攻撃し続ける、破滅へのプロセス。
アキラは、広場を見下ろせる、近くのビルの屋上から、その光景を、息を殺して見つめていた。
全身の血の気が引いていくような、冷たい感覚。
足元が、ぐらりと揺れる。
屋上の風が、やけに強く、そして冷たく感じられた。
(……間に合わなかった……!)
後悔が、胸を締め付ける。
もっと強く、彼を止めていれば。
いや、違う。
自分の言葉など、あの時の彼には届かなかっただろう。
この結果は、彼自身が選んだ道なのかもしれない。
だが───。
(……それでも……!)
このまま見ていることなど、できなかった。
彼は、確かに道をあやまった。
だが、彼をそこまで追い詰めたのは、この社会であり、そして、彼のような若者を食い物にする、ロンウェイ派のような存在なのだ。
そして、自分もまた、同じ「力」をその身に宿している。
いつ、彼と同じように、この境界線を越えてしまうか分からない。
アキラの脳裏に、桐島きりしまの妹の、あの悲劇が蘇る。
暴走した力は、愛する者さえも牙を剥く。
そして、その結末は……。
(……止めなければ……!)
誰かが、彼を止めなければならない。
警察が来るのを待っていては、被害がさらに拡大する。
そして、ケンジ自身も、もはや救いようのない破滅へと突き進むだけだ。
自らの危険を承知の上で、アキラは覚悟を決めた。
たとえ、それが自らの「侵食」を早めることになったとしても。

アキラは、屋上から、最も気配を殺せるルートを選び、広場へと降り立った。
周囲には、まだ逃げ遅れた人々が、物陰に隠れて震えている気配がある。
彼らを巻き込むわけにはいかない。
「ケンジ!」
アキラは、できるだけ冷静に、しかし強く呼びかけた。
「私よ! アキラ! もうやめて!」
ケンジ(あるいは、かつてケンジだったもの)は、その声に反応したかのように、一瞬だけ動きを止めた。
そして、ゆっくりと、その破壊された顔をアキラへと向けた。
その赤い双眸には、一瞬だけ、苦痛と、そして……誰かを認識したかのような、僅かな光が宿った気がした。
「……ア……キ……ラ……?」
かすれた、うめき声のような響き。
「そうよ! 私が分かるのね!? ケンジ、お願い、自分を取り戻して!」
アキラは、必死に呼びかける。
もしかしたら、まだ間に合うかもしれない。
暴走の初期段階ならば……。
だが、その期待は、次の瞬間、打ち砕かれた。
ケンジの瞳から、理性の光が完全に消え失せる。
再び、獣のような咆哮を上げると、彼はアキラに向けて、一直線に突進してきたのだ!
その速度は、以前とは比較にならない。
地面が、彼の踏み込みによって砕ける。
(……ダメか……!)
アキラは、咄嗟に鱗のシールドを、身体の前面にだけ、最小限の範囲で展開した。
「侵食感」への恐怖。
だが、それ以上に、ここで自分が倒れるわけにはいかないという意志が、彼女を支える。
ドゴンッ!
ケンジの巨大な拳が、シールドに叩きつけられる。
凄まじい衝撃。
シールドに、蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
アキラの体にも、内側から破壊されるかのような激痛がはしる。
腕の鱗が、脈打つように熱を持ち、変形していく感覚。
(……抑えろ……! 抑えろ、私……!)
彼女は、必死に破壊衝動にあらがいながら、ケンジの攻撃をさばこうとする。
暴走状態の動きは単調だ。
俊敏性を活かせば、避けられるはず。
彼女は、シールドを維持したまま後退し、同時にスタン警棒でケンジの脚部を狙う。
だが、暴走によって強化された肉体には、ほとんど効果がない。
「ギャアアアア!」
ケンジは、さらに凶暴性を増し、アキラに殴りかかってくる。
アキラは、紙一重でそれを避け続けるが、体力と精神力は、確実に削られていく。
シールドの亀裂が、さらに広がっていく。
もう、限界が近い───。

その時だった。
バン! バン! バン!
乾いた、しかし重い発射音が、連続して響き渡った。
それは、通常の銃声ではない。
何か、特殊なエネルギー弾のような音。
ケンジの巨体が、まるで糸が切れたかのように、動きを止めた。
彼の体の数箇所から、白い煙のようなものが立ち上っている。
そして、ゆっくりと、巨大な彫像が崩れるかのように、彼は膝をつき、前のめりに倒れ込んだ。
ぴくりとも、動かない。
(……え……?)
呆然ぼうぜんとするアキラの前に、数人の人影が現れた。
いつの間に、こんな近くまで……。
彼らは、黒い、特殊な素材で作られた戦闘服に身を包み、その顔はヘルメットとバイザーで完全に覆われている。
手には、見たこともない形状の、大型のエネルギー兵器のようなものを構えていた。
その装備は、明らかに、一般の警察や軍隊のものではない。
そして、彼らの戦闘服の腕の部分には、蛇がからみつくような、あの意匠……サーペント社のエンブレムが、はっきりと刻まれていた。
(……サーペント……! それも……この装備は……宗教派……!?)
ゾロアゾシース魔術騎士団の、おそらくは「暴走」した強化人間の「処理」を専門とする部隊。
彼らは、ケンジの暴走をどこかで察知し、このタイミングで現れたのだ。
まるで、死神のように。
処理部隊のリーダー格と思しき男が、倒れたケンジを一瞥すると、そのヘルメットのバイザーを、ゆっくりとアキラへと向けた。
冷たく、無機質な、赤いセンサー光が、アキラを捉える。
「……プロメテウスの汚染を確認。……危険因子と認定」
男は、抑揚のない声で言った。
その声には、あわれみも、憎しみも、何も感じられない。
ただ、汚物を処理するかのような、冷たい事務的な響きだけがあった。
「……これより、浄化じょうかを実行する」
男が、手に持った特殊兵器の銃口を、ゆっくりとアキラへと向けた。
その銃口の奥に、青白いエネルギーが収束していくのが見えた。
まずい。
あれは、おそらく強化人間の肉体組織そのものを、分子レベルで分解するような兵器だ。
鱗のシールドでも、防ぎきれるかどうか……。
アキラは、最後の力を振り絞り、シールドを最大強度で展開しようとした。
体の内側で、何かが激しく軋み、悲鳴を上げる。
「侵食」が、限界点を超えようとしている。
意識が、再び遠のきかける。
それでも、彼女は、生きることをあきらめなかった。
閃光が、ほとばしった―――。

第四章 灰の中から見える光

閃光。
アキラは咄嗟に目を閉じ、うろこのシールドを最大強度で展開した。
特殊な弾丸がシールド表面で甲高い音を立てて弾ける。
衝撃でアキラの体は後方へ吹き飛ばされるが、致命傷は避けられた。

「……今だ!」

聞き覚えのある声。
ミカとタツヤだ。
彼らは、アキラがシマダのアジトで気を失いかけていた時とは違い、今は恐怖に震えながらも、その手に握った旧式のレーザーピストルを構え、黒い戦闘服の男たち――ゾロアゾシース魔術騎士団の処理部隊――に向けて発砲していたのだ。

レーザーの赤い光条が闇を切り裂く。
威力は低いが、その奇襲は、アキラへの止めを刺そうとしていた男たちの意表を突いた。
処理部隊の数人が怯んだ隙に、アキラは体勢を立て直し、スタン警棒を構える。

「邪魔だ……!」
処理部隊の一人が、ミカたちへ向けて銃口を向け直す。
だが、それよりも早く、アキラが動いた。
強化された俊敏性を活かし、一瞬で男の懐に飛び込むと、警棒を首筋に叩き込む。
短い呻き声を残し、男は崩れ落ちた。

「逃げるぞ!」
タツヤが叫ぶ。
多勢に無勢。
それに、ここは危険すぎる。
倒れたケンジの姿が、アキラの胸を締め付ける。
彼の犠牲を、無駄にはできない。

アキラは、ミカとタツヤに頷き返し、三人は連携してその場からの離脱を図った。
背後からは、宗教派の追撃の銃声が響いていた。

ユースの隠れ家の一つである、廃墟ビルのセーフハウス。
三人は、息を切らせながらそこにたどり着いた。
アキラは壁に背を預け、荒い呼吸を繰り返す。
シールドを最大強度で展開した代償は大きく、体内の「侵食感」がこれまでになく強い。
視界が時折、暗転しそうになる。

「……アキラさん、大丈夫?」
ミカが、心配そうにアキラの顔を覗き込む。
彼女の手には、まだレーザーピストルが握られている。
恐怖で震えているが、その瞳には強い意志が宿っていた。

「……ごめん。助かったわ」
アキラは、かろうじて答えた。
「……でも、どうして……」
「放っておけなかったんだよ!」
タツヤが、吐き捨てるように言った。
「シマダの件も、ケンジのことも……! あんな奴らの好きにはさせねえ!」
彼の目にも、怒りと決意の色が浮かんでいる。
いつもは臆病で、長いものに巻かれがちな彼が、変わろうとしている。

「……ありがとう。二人とも」
アキラは、素直に礼を言った。
この灰色の街にも、まだ信じられる繋がりがある。
その事実が、彼女に僅かながら力を与えてくれた。

アキラは、回収していたケンジの所持品――ボロボロになったスマートデバイス――を操作した。
データはほとんど破壊されていたが、彼女の能力をもってすれば、断片的な情報でも復元できる可能性がある。
ケンジが最後にアクセスしようとしていた場所、連絡を取っていた相手……。
そこに、手がかりがあるはずだ。

数時間後。
アキラは、復元したデータの断片から、衝撃的な事実を突き止めていた。
ケンジは、ロンウェイ派の下部組織から、最新の強化薬物(注射型)を入手していた。
だが、それはオルロフが独自に開発したものではなく、クロノス社から流出した、あるいは盗み出された「プロトタイプ」の一つだった可能性が高い。
そして、ケンジの「暴走」は、その不安定なプロトタイプの拒絶反応、あるいは……意図的に引き起こされた可能性があること。

「……まさか……実験、だったと……?」
アキラの声が震える。
ケンジは、ただ利用され、データ収集のために暴走させられ、そして用済みとして宗教派に「処理」されかけた……?

怒りが、再び込み上げてくる。
しかし、アキラはそれを押し殺し、さらにデータの解析を進めた。
そして、ついに核心的な情報にたどり着く。
ケンジが消える直前にアクセスしていたサーバーの記録。
それは、クロノス社ともサーペント社とも異なる、第三の組織……あるいは、オルロフが個人的に管理する秘密研究施設の位置情報を示していた。
場所は、この都市の臨海エリアにある、古いバイオ研究所跡地。

「……ここだわ」
アキラは、モニターに表示された地図を指さした。
「ケンジや、他の消えた子たちも……もしかしたら、ここに……。そして、暴走を引き起こす技術の秘密も」

ミカとタツヤが、息をのんで画面を見つめる。
「……行くのか? アキラさん」
タツヤが、不安そうに尋ねた。

「ええ」
アキラは、きっぱりと頷いた。
その瞳には、もはや迷いはなかった。
恐怖も、侵食感への懸念もある。
だが、それ以上に、仲間を救いたい、真実を暴きたいという強い意志が、彼女を突き動かしていた。
「……ここが、私たちの反撃の始まりよ」



第五章 反撃のプレリュード

セーフハウスの空気は、重く、そして冷え切っていた。
タツヤを失った悲しみと、ケンジや他の仲間たちの安否(あんぴ)への不安、そしてこれから挑むであろう危険な作戦への緊張感が、狭い空間に息苦しいほど充満している。
窓のない部屋。
壁のシミ。
いつ誰に見つかるか分からないという、常に付きまとう閉塞感へいそくかん
これが、2045年の豊かな社会の片隅で生きる、彼らの現実だった。

アキラは、床に広げられたホログラム――臨海エリアにある古いバイオ研究所けんきゅうじょ跡地の、推定される内部構造図――を、鋭い目で見つめていた。
隣では、ミカが、赤く腫(は)らした目で、しかし必死に涙を堪(こら)えながら、アキラの指示を待っている。
ドクター・アルトマン。
ケンジの通信ログに残されていた、その名前。
おそらく、この研究所で、ユースたちを「素材」として非道な実験じっけんを繰り返している張本人。
彼を止めなければ。
そして、囚(とら)われているかもしれない仲間たちを、救い出さなければ。
それが、タツヤの犠牲ぎせいに報(むく)いる、唯一の道だとアキラは信じていた。

「……警備は、予想以上に厳重よ」
アキラは、解析したデータを指し示しながら、低い声で言った。
彼女の声は、疲労で掠(かす)れていたが、その響きには、もはや迷いはなかった。
「表向きは閉鎖されているけど、内部ネットワークは生きている。それも、かなり高度なセキュリティで守られているわ。……おそらく、クロノス社、あるいは\1本体の技術が使われている」

「……そんなところに、私たちだけで……?」
ミカの声が、不安に震えた。
彼女の手には、まだタツヤが遺(のこ)した旧式のレーザーピストルが握られている。
それが、今の彼女にとって、唯一の武器であり、そして、タツヤとの絆(きずな)の証(あかし)だった。

「二人だけじゃない」
アキラは、首を振った。
「……他に、協力してくれる人を探す。……ユースのネットワークの中にだって、まだ……信じられる仲間がいるはずよ」
そうは言ったものの、アキラの心にも、一抹の不安があった。
ユースの繋がりは、脆(もろ)い。
貧困と絶望は、時に人を簡単に裏切らせる。
シマダのような例もあるのだ。
誰を信じ、誰を疑うべきか。
それは、常に彼女を悩ませる問題だった。

「でも、どうやって……? 私たち、武器だって……」
ミカが、さらに問いかける。
レーザーピストルは護身用にしかならない。
研究所の警備兵(強化されている可能性もある)に対抗するには、あまりにも非力だ。

「……それは……何とかするしかない」
アキラは、唇を噛んだ。
裏社会のルートを使えば、非合法な武器や装備を手に入れることは可能かもしれない。
だが、それには莫大(ばくだい)な仮想通貨が必要だし、何より、更なる危険を呼び込むことになる。
それでも……。

(……守りたい……。……もう、誰も失いたくない……)

彼女は、長袖の下で、自身の腕のうろこに触れた。
冷たく、硬い感触。
そして、その奥で疼(うず)くような「侵食感しんしょくかん」。
この力を使えば、あるいは……。
いや、ダメだ。
暴走すれば、全てが終わる。
彼女は、その危険な考えを、必死で振り払った。

部屋の空気が、重く沈む。
壁の時計の、秒針の音だけが、やけに大きく聞こえた。
まるで、彼らに残された時間が、刻一刻と減っていくのを告げるかのように。

数日が過ぎた。
アキラは、ユースのネットワークを通じて、信頼できる数少ない仲間たちに接触し、事情を説明した。
反応は、様々だった。
危険すぎると反対する者。
恐怖から協力を拒む者。
そして……少数だが、アキラの覚悟に共感し、力を貸してくれると申し出た者たち。

ミカと、そして新たに加わった数人のユース――ハッキングが得意なリョウ、機械いじりが得意なマサ、そして、かつて裏社会の運び屋をしていたというカズ――と共に、アキラは具体的な作戦さくせん計画を練り上げていった。

「潜入ルートは、やはり旧式の廃棄物処理ダクトしかないわ」
アキラが、ホログラムの図面を拡大しながら説明する。
「ここなら、最新のセンサー網を、ある程度回避できるはず。……問題は、その先の内部警備」

「監視カメラは、俺が何とかする」
リョウが、自信ありげに言った。
彼は、アキラほどではないが、ハッキングの腕は確かだ。
「一時的にループ映像を流すか、あるいは、システムにノイズを紛れ込ませる」

「物理ロックや、赤外線センサーは?」
ミカが尋ねる。

「それは、俺に任せろ」
マサが、工具セットを弄(いじ)りながら答えた。
「古いタイプのセンサーなら、バイパスできるかもしれん」

「……問題は、警備兵だ」
カズが、低い声で言った。
彼は、この中で唯一、実際の「戦闘」に近い経験を持っている。
「ロンウェイ派が使ってる連中は、そこらのチンピラとは違う。……強化されてる可能性も高い。……俺たちの装備じゃ、正面からやり合ったら勝ち目はないぞ」

アキラは、頷いた。
「だから、これは奇襲。……そして、時間との勝負になる。私が先行して、内部ネットワークを掌握し、可能な限り敵の動きを封じる。……その間に、あなたたちには、囚(とら)われている仲間たちの捜索と救出をお願いしたい」
彼女は、三人の顔を順番に見た。
「……そして、私は、研究データを確保、あるいは……破壊する」

「……アキラさん、一人で……?」
ミカが、再び不安そうな顔をする。
「……大丈夫よ」
アキラは、努めて明るく言った。
「……私には、これがあるから」
彼女は、自らの腕を、軽く叩いた。
鱗のことは、彼らには話していない。
ただ、自分には「特別な力」があることだけを、曖昧(あいまい)に伝えてある。

部屋に、再び沈黙が落ちる。
誰もが、この作戦の危険性を理解していた。
失敗すれば、待っているのは死か、あるいは、実験体として利用される、死よりも惨(みじ)めな未来。
それでも、彼らは引けなかった。
仲間のため、そして、自分たちのささやかな尊厳を守るために。

「……やろうぜ」
最初に口を開いたのは、タツヤの親友でもあった、カズだった。
「……タツヤの……弔(とむら)い合戦だ」
その言葉に、他のメンバーも、力なく、しかし確かに頷いた。
彼らの間に、脆(もろ)く、しかし確かな絆(きずな)と、覚悟が生まれた瞬間だった。

作戦決行の前夜。
アキラは、一人、セーフハウスの屋上にいた。
眼下には、眠らない都市の光が、無数に広がっている。
その光のほとんどは、自分たちのような存在とは無縁の世界のものだ。
それでも、その光の中に、ささやかな希望を見出そうとしている自分がいることに、アキラは気づいていた。

(……鳴海さん……桐島さん……)

彼らは、今頃どうしているだろうか。
彼らもまた、それぞれの場所で、巨大な闇と戦っているはずだ。
いつか、また会えるだろうか。
いや、会わなければならない。
伝えなければならないことがある。
この世界の真実と、そして……。

アキラは、空を見上げた。
月は、欠けていた。
だが、その周りには、無数の星々が、静かに輝いている。
その星々の光が、まるで、遠い未来からのメッセージのように、彼女の心に降り注いでくるような気がした。

彼女は、自身の腕に触れた。
「侵食感」は、相変わらず彼女を苛(さいな)んでいる。
だが、今は、それすらも、自分が生きている証(あかし)のように感じられた。
(……私は、まだ、人間だ……)

彼女は、深く息を吸い込んだ。
夜の空気は冷たく、澄んでいた。
明日、何が起ころうとも、自分は自分の意志で戦う。
仲間と共に。
そして、信じるもののために。
彼女の瞳には、夜空の星々にも似た、静かで、しかし強い光が宿っていた。
反撃のプレリュード(前奏曲)は、もうすぐ終わる。
夜明けは、近い。



第六章 闇への潜行

作戦決行の夜。
臨海エリアに佇む古いバイオ研究所けんきゅうじょ跡地は、不気味な静寂に包まれていた。
海からの湿った風が、錆びたフェンスを鳴らし、打ち捨てられた建物の輪郭を闇の中に浮かび上がらせる。
表向きは閉鎖され、忘れ去られた場所。
だが、その地下深くでは、今も非道な実験が続けられているのかもしれない。

「……時間通りね」
近くの廃ビルの屋上から、アキラが低く呟いた。
手元の端末には、研究所周辺の監視カメラ映像と、内部ネットワークから引き出した断片的な警備スケジュールが表示されている。
隣には、暗視ゴーグルを装着し、固唾を飲んで研究所を見つめるミカとタツヤの姿があった。

「……本当に、大丈夫なんだろうな」
タツヤの声が、緊張で震えている。
「大丈夫じゃないわ。でも、やるしかない」
アキラは、彼らに視線を移さずに答えた。
「私が合図したら、3分以内にダクトへ。それ以上は、システムの制御が持たないかもしれない」

アキラは、再び端末に意識を集中させた。
研究所の古いネットワークインフラ。
カイが構築したものほどではないが、それでも外部からの侵入を拒む、幾重もの防御壁が存在する。
彼女は、慎重に、しかし大胆に、その壁を一つずつ突破していく。
指先が、目に見えないデジタルの糸を操る。
だが、そのたびに、脳の奥で鈍い痛みが走り、腕のうろこがざわつくような「侵食感」が襲う。

(……集中……!)

彼女は奥歯を噛み締め、精神力で痛みを捻じ伏せる。
そして、ついにターゲット――廃棄物処理ダクト周辺の監視システムとロック機構――へのアクセスに成功した。

「……今!」

アキラの短い合図と共に、ミカとタツヤが動いた。
廃ビルの屋上から、事前に準備していたロープを使って、音もなく地上へと降り立つ。
そして、研究所の敷地のフェンスを特殊なカッターで切断し、指定されたダクトの入り口へと急いだ。

廃棄物処理はいきぶつしょりダクトの中は、想像以上に狭く、そして不快な臭いが充満していた。
頭上からは、時折、正体不明の液体が滴り落ちてくる。
先頭を行くタツヤが、携帯用の小型ライトで前方を照らし、ミカがそれに続く。
アキラは、最後尾から端末で内部のセンサー反応を監視し、二人に指示を送っていた。

『……この先、赤外線センサー。床下を迂回できるはず』
『……了解』

タツヤが、床のグレーチング(格子蓋)を特殊な工具で静かに持ち上げる。
その下の狭い空間を、三人は這うようにして進んだ。
閉所恐怖症になりそうな圧迫感と、いつ敵に見つかるかもしれないという緊張感で、心臓が早鐘のように打つ。

『……センサーエリア通過。次の区画へ』
アキラが、安堵の息と共に告げる。

しかし、安堵したのも束の間だった。
ダクトの先に、微かな光と、話し声が聞こえてきたのだ。
巡回の警備兵か?
三人は咄嗟に動きを止め、息を殺す。

「……最近、物騒だよな、この辺も」
「ああ。オルロフ様……いや、ツォン様が来てから、特にピリピリしてる」
「また新しい『素材』が入ったらしいぜ。今度は、使い物になるといいんだが……」

ロンウェイ派の私兵たちの会話だ。
彼らは、ダクトのすぐ近くで立ち話をしているようだ。
「素材」……おそらく、ケンジたちユースのことだろう。
アキラの拳が、怒りで白くなる。

(……落ち着いて……)

彼女は、自分に言い聞かせる。
ここで見つかるわけにはいかない。
三人は、警備兵たちが立ち去るのを、ひたすら待ち続けた。
一分が一時間にも感じられるような、長い時間だった。

警備兵たちが立ち去り、再び静寂が戻る。
三人は、慎重にダクトを進み、ついに目的の分岐点へとたどり着いた。
ここから、施設の内部へと繋がる別のダクトへ移るのだ。

『……よし。この先のハッチを開ければ、研究所の地下3階、旧資料保管室エリアに出られるはず。そこは、今はほとんど使われていない。監視も手薄よ』
アキラが指示を出す。

タツヤが、ハッチのロックに工具を当て、慎重に開錠を試みる。
額には、大粒の汗が浮かんでいた。
ミカは、周囲を警戒しながら、固唾を飲んでタツヤの作業を見守っている。

カチリ、と小さな音がして、ロックが外れた。
タツヤが、ゆっくりとハッチを開ける。
その向こうには、埃っぽい、黴(かび)臭い空気と共に、薄暗い部屋が見えた。
ファイルキャビネットが乱雑に並ぶ、古い資料室のようだ。

「……よし、行くぞ」
タツヤが、先にダクトから降り立つ。
続いてミカ、そして最後にアキラが降りた。
三人は、ついに敵の拠点内部への潜入に成功したのだ。

だが、アキラは油断していなかった。
端末で周囲のネットワークを探る。
監視カメラは少ないが、ゼロではない。
そして、この静けさ……。
まるで、わざと侵入させられたかのような……。

(……罠、じゃないといいけど……)

不安を振り払い、アキラは仲間に合図を送る。
「ここからは、私が先行する。ネットワークを掌握して、監視を無力化しながら進む。二人は、私の指示に従って。……絶対に、はぐれないで」

三人は、音もなく資料室を出て、薄暗い廊下へと足を踏み出した。
未知の闇へと続く潜行が、今、始まった。



第七章 警鐘と代償

廃棄物処理ダクトの、息が詰まるような暗闇と悪臭から、ようやく解放された瞬間、彼らは一様に安堵の息を漏らした。
マサマサがこじ開けた古いメンテナンスハッチの向こうは、埃っぽく、黴臭い空気が淀む、旧資料保管室だった。
天井の照明は半分以上が切れ、壁一面に並ぶスチール製のキャビネットは錆びつき、床には用途不明のケーブルや、破れた紙の束が散乱している。
ここが、あの非道な実験が行われている施設の、ほんの一角だとは信じがたいほどの、打ち捨てられた静けさ。
だが、その静けさこそが、罠の予兆かもしれなかった。
空気は、ダクトの中とは違う意味で、重く冷たい。
まるで、忘れ去られた時間の墓場のような……そこだけが、この巨大な施設の中で異質に歪んでいるような、嫌な感覚。
「……よし、今のうちに。警戒は怠らないで。……空気が、変だ」
アキラアキラは、息を殺しながら、先行して部屋を出た。
手にした端末には、彼女がダクト内で解析した、この周辺区画の古いネットワークネットワーク情報が表示されている。
壁の材質が微妙に違う箇所、空気の流れが僅かに淀む場所……そこには隠しセンサーや、監視カメラが設置されている可能性が高い。
リョウリョウ、監視カメラは? ループ映像、まだ維持できてる?」
彼女の声は囁き声に近いが、その響きにはリーダーとしての、仲間を気遣う響きと、状況への強い警戒心が滲んでいた。
『……ギリギリだ。古いシステムだけど、妙に執念深いっていうか……。何か、こちらの干渉を探っているような動きがある。……あと、3分……いや、2分持つかどうか……』
最後尾から、リョウの緊張した声が応える。
彼の額からは、ダクト内でかいた汗とは別に、冷や汗が滲んでいるのだろう。
ハッキングは、常に精神をすり減らす作業だ。
失敗すれば、全てが終わる。
そのプレッシャープレッシャーが、彼の指先を微かに震わせている。
「マサ、センサー類は?」
アキラは、隣を歩くマサに尋ねる。
「……熱源、動体、音響……。数は多くないが、通路の要所要所に、まるで蜘蛛の巣みたいに仕掛けられてる」
マサは、自作のセンサー検知器の数値をにらみながら答えた。
彼の顔にも、緊張の色が濃い。
「……これ、多分、警備ルートと連動してるぞ。センサーが反応したら、近くの警備兵……あるいは、もっとヤバいもんが飛んでくるタイプだ。……ダクトみたいに、単純な迂回は難しい。……やるなら、一瞬で、完璧に無力化しないと……」
カズカズ、頼める?」
アキラは、先頭を行くカズに問いかけた。
「……ああ」
カズは、短く、しかし力強く頷いた。
彼は、無言で先頭を進む。
その動きには、裏社会で生き抜いてきた者特有の、研ぎ澄まされた警戒心と、どこか諦観ていかんにも似た静けさがあった。
床の材質の変化、壁の反響、空気の微かな流れ……それら全てから、彼は危険の兆候を読み取ろうとしている。
彼の広い背中が、後に続く者たちにとって、唯一の頼りに見えた。
ミカミカは、アキラのすぐ後ろに付き、不安げに、しかし必死に周囲を警戒していた。
彼女の手は、固く握りしめられていた。
タツヤタツヤを失った悲しみは、まだ生々しく彼女の心を抉っている。
それでも、彼女は前を向こうとしていた。
タツヤのためにも、そして、アキラのために。
一行は、息を殺し、壁際を慎重に進んでいく。
天井の照明は所々壊れており、壁には正体不明の染みが広がり、まるで巨大な生物の体内を進んでいるかのような、不気味な閉塞感があった。
空気はひんやりと冷たく、金属と、そしてやはり微かに、あの甘ったるい薬品臭が混じっていた。
それは、生命をもてあそぶ実験の臭いであり、死の臭いでもあった。
アキラの腕のうろこが、その臭気に反応し、ざわめきたつ。
不快感と、言いようのない怒り。
そして、自身の奥底から湧き上がる、原始的な恐怖。
捕まったら……自分も、あの中に……?
その考えが、彼女の思考を鈍らせようとする。
(……違う。……私は、違う……!)
彼女は、奥歯を強く噛み締め、恐怖を意志の力でじ伏せた。
今は、感傷に浸っている時ではない。
仲間を、そして自分自身を守るために、冷静でいなければ。
廊下の曲がり角。
カズが、静かに手で制止の合図を送った。
全員が、壁に身を寄せる。
角の向こうから、微かな金属音が聞こえる。
規則的で、冷たい音。
巡回する者の足音……ではない。
もっと軽く、そして複数。
空気が、ピンと張り詰める。
足元の床が、まるで氷のように、冷たく、硬く感じられた。
ピピピピピ……!!!
けたたましい警報音!
アキラの端末と、マサの検知器が、同時にそれを発した!
「まずい! 感圧センサーかんあつセンサー! それも広範囲型こうはんいがた!」
マサが叫ぶ!
「ネットワーク外だ! リョウ!」
「無理だ! 完全に独立してる!」
リョウの悲鳴!
それは、彼らが最も警戒していた、物理的な罠だった。
彼らが踏み込んだ床の一部が、侵入者の体重を検知したのだ。
そして、その信号は、即座に、この区画の自律型警備システムへと……!
次の瞬間、通路の前方と後方の天井パネルが、音もなく、しかし恐ろしいほどの速度でスライドした!
そこから現れたのは―――冷たい金属光沢を放つ、球形のボディ。
複数の赤いセンサーアイが、獲物を捉えるように、一斉に彼らに向けられる。
そして、下部に装着された、回転式のレーザー銃口が、青白い光を帯び始めた。
クロノス社製の、最新型自律警備ドローン!
その数、六機!
「……しまった! これは……!」
アキラは叫んだ。
「……誘導された! 最初から、ここへ追い込むための罠だったんだ!」
手薄に見えた区画。
古い監視システム。
全てが、彼らを油断させ、このキルゾーンキルゾーンへと誘い込むための、巧妙な罠だった。

『侵入者探知たんち。脅威レベル4と判定。プロトコルに従い、排除はいじょを開始します』
ドローンのスピーカーから、抑揚のない合成音声が響き渡る。
それは、もはや死刑宣告に等しかった。
次の瞬間、六機のドローンから、赤いレーザーレーザーが一斉に発射された!
光の奔流ほんりゅうが、狭い通路を埋め尽くす!
「伏せて!」
アキラが叫び、反射的に体の前面に鱗のシールドを展開しようとする。
だが───!
(……体が……重い……! 思考が……かすむ……!)
先程までのハッキングによる精神的な消耗と、「侵食感しんしょくかん」による激痛が、彼女の能力の発動を致命的に鈍らせる。
シールドの展開が、間に合わない───!
「アキラさん!」
ミカが、アキラを突き飛ばすようにして、近くにあった頑丈そうなダクトの影へと押し込んだ。
ほぼ同時に、アキラがいた空間を、数条のレーザーが、灼熱の鞭のように薙ぎ払った!
壁が溶解し、火花と、金属の溶ける鼻をつく臭いが飛び散る。
床に着弾したレーザーが、小さなクレーターを作る。
空気が、高熱で陽炎のように揺らいだ。
「クソッたれが! このポンコツどもが!」
カズが、遮蔽物から飛び出し、持っていた旧式のサブマシンガンをドローン群に向けて乱射した。
銃声が、狭い通路に反響し、耳を劈く。
だが、実弾はドローンの強化装甲に弾かれ、空しく火花を散らすだけだ。
かてえ! 全然効かねえぞ! チクショウ! これだから最新の『オモチャ』は嫌なんだ!」
彼の悪態は、しかし悲鳴にも似ていた。
「こっちもだ! EMPも効かない! シールドが強すぎる!」
マサも、自作の電磁パルス発生装置を使うが、ドローンの防御フィールドに阻まれて効果がない。
「リョウ! なんとかしろ! 何か手はないのか!」
「……無理だよ! ネットワークから独立してるんだ! 外からじゃ、制御コードを書き換えられない! 入り口がないんだ!」
リョウは、端末を操作しながら、半ばパニックパニック状態で叫ぶ。
彼の指は震え、額からは滝のような汗が流れている。
絶望的な状況。
ドローンは、プログラムされた冷徹さで、アキラたちが隠れる遮蔽物を、正確に、そして効率的に破壊していく。
レーザーが、彼らのすぐ側をかすめる。
熱風が、肌を焼く。
コンクリートの破片が、頬を切り裂く。
絶対的な戦力差。
遮蔽物がなくなるのも、時間の問題だ。
このままでは、数分と持たないだろう。
死の予感が、冷たい手のように、彼らの首筋を撫でた。
(……私が……私が、もっとしっかりしていれば……! カズを……タツヤを……!)
アキラは、壁に背を預け、唇を強く噛み締めていた。
自分の不調が、仲間を危険に晒している。
「侵食」への恐怖よりも、仲間を失うかもしれないという恐怖の方が、今は遥かに大きい。
彼女は、痛む体に鞭打ち、再びシールドを展開しようと、精神を集中させた。
鱗が、ざわめく。
だが、力が……足りない……! 身体が、意志に応えてくれない!
その時だった。
「……ここは、俺に任せろ」
低い、しかし、揺るぎない声。
カズだった。
彼は、弾切れになったサブマシンガンを投げ捨てると、懐から、古びた、しかし明らかに危険な形状をした、手製の爆弾を取り出した。
それは、彼が裏社会で生き抜くために、最後の切り札として用意していたものだろう。
その瞳には、恐怖ではなく、むしろ、全てを覚悟した者の、静かな光が宿っていた。
「カズさん! 何をする気!?」
ミカが、悲鳴に近い声を上げた。
その表情は、恐怖と、そして……これから起ころうとしていることへの、絶望的な予感に彩られていた。
「ダメだよ! そんなことしたら……!」
彼女は、タツヤを失った時の悪夢を、再び見ているかのようだった。
「……タツヤに……よろしくな」
カズは、ミカに向かって、一瞬だけ、悪戯っぽく、しかしどこか寂しげに笑ってみせた。
その笑顔は、彼が普段見せることのない、素顔だったのかもしれない。
「……俺みたいなクズでもな……。たまには、カッコつけさせてくれや。……それに、お前らみたいな若い奴らが、こんな所で死んでいいわけねえだろうが」
彼は、アキラの方を向いて、力強く頷いた。
「……アキラ。……頼んだぞ。……俺たちの……いや、タツヤの……想いも……」
「待て! カズ!」
アキラが叫ぶが、もう遅い。
カズは、アキラたちの制止を振り切るように、遮蔽物から飛び出した。
そして、迫りくるドローン群の中心へと、一直線に突進していったのだ。
彼の動きは、決して速くはない。
だが、そこには、自分の命と引き換えに、仲間を守ろうとする、揺るぎない覚悟があった。
彼の背中が、やけに大きく見えた。
レーザーが、彼の体を焼く。
それでも、彼は止まらない。
彼は、最も近くにいたドローンの一機に組み付き、その機体に、手製の爆弾を強く押し付けた。
「……せいぜい、道連れにしてやるぜ……クソッタレども……! ……未来は……お前ら若ぇモンに……たくした……!」
それが、彼が最後に発した、魂からの叫びだった。
次の瞬間、閃光。
そして、通路全体を揺るがし、全てを飲み込むような、轟音。

爆風と衝撃波が、アキラたちを襲った。
咄嗟に身を伏せ、飛来する破片から頭部を守る。
鼓膜が破れそうなほどの轟音。
視界も、粉塵と煙で何も見えない。
熱風が、肌を焼く。
金属と、そして……何かが焼ける、嫌な臭い。
先程までの喧騒が嘘のように、後に残されたのは、耳鳴りと、壁や天井が崩落する不気味な音だけだった。
やがて、衝撃が収まり、粉塵がゆっくりと晴れていく。
そこに広がっていたのは……。
破壊され、歪んだ、ドローンの残骸。
そのほとんどが、機能を停止している。
そして……その中心で、壁に叩きつけられ、黒焦げになり、もはや人の形をとどめていない……カズの……。
彼は、自らの命を爆弾として、ドローン群の大部分を道連れにしたのだ。
その自己犠牲ぎせい的な行為だけが、アキラたちに、僅かな活路を切り開いた。
「……カズ……さん……。……嘘……でしょ……」
ミカは、その場に泣き崩れた。
嗚咽おえつが、静かになった通路に、痛々しく響く。
リョウとマサも、言葉なく立ち尽くし、ただ、目の前の凄惨な光景を、信じられないものを見るように見つめている。
彼らの顔は、恐怖と、怒りと、そして深い無力感で歪んでいた。
この社会は、なぜこうも簡単に、若者の命を奪うのか。
彼らの目には、そんなやり場のない怒りが浮かんでいた。
アキラは、震える足で立ち上がった。
喉の奥から、熱いものが込み上げてくる。
涙が、視界を滲ませる。
だが、彼女はそれを、強く、強く、こらえた。
今、泣いている場合ではない。
カズの死を、絶対に無駄にしてはならない。
彼がのこしてくれた、この「時間」と「道」を。
そして、彼の最後の言葉……「未来は、お前ら若ぇモンに託した」……その意味を。
「……行くわよ」
アキラは、仲間たちに、絞り出すような、しかし、これまでになく強い意志のこもった声で言った。
「……彼の覚悟を……私たちが、引き継ぐ。……そして、必ず、目的を果たす」
彼女は、カズが最後に守ろうとした仲間たちの顔を、一人一人、強く見つめた。
ミカ、リョウ、マサ……。
彼らの瞳の奥にも、悲しみを乗り越えようとする、小さな、しかし確かな決意の光が灯り始めていた。
この経験が、彼らを良くも悪くも変えてしまったことは、間違いなかった。
アキラは、きびすを返し、通路の奥へと、再び歩き始めた。
その足取りは、まだ僅かに震えていたが、その背中には、先程までとは比較にならないほどの、重く、そして揺るぎない覚悟が宿っていた。
残されたリョウとマサも、ミカを支えながら、黙ってアキラの後に続く。
彼らの胸には、仲間の死という、あまりにも大きな代償が刻み込まれた。
だが、同時に、その死が、彼らに、後戻りできない覚悟と、そして、この非道な現実を変えなければならないという、燃えるような意志を与えていた。
灰色の絶望の中から、一条の光を求めて。
彼らは、再び立ち上がり、最後の戦いが待つであろう、闇の奥深くへと、その歩みを進め始めた。
施設の奥から聞こえる、新たなアラート音が、まるで彼らの決意を促すかのように、あるいは、新たな警鐘けいしょうのように、不気味に鳴り響いていた。



第八章 闇の実験室

カズが最後に守ろうとしたもの。
それは、この先に待つであろう「真実」にたどり着くための、道だったのかもしれない。
アキラ、ミカ、リョウ、マサ。
残された四人は、互いを励(はげ)ます言葉もなく、ただ黙々と、施設の奥深くへと続く通路を進んでいた。
カズの最期の言葉、「未来は、お前ら若ぇモンに託(たく)した」……その言葉が、重く、そして痛みを伴って、彼らの胸に響いていた。
もう、後戻りはできない。
彼の死を、無駄にはしない。
その思いだけが、彼らを突き動かす唯一の力となっていた。

通路の空気は、深部へ進むにつれて、さらに冷たく、そして濃密な薬品臭と、微かな腐敗臭が混じり合い、呼吸をするたびに肺が軋(きし)むようだ。
壁や床は、より新しく、無機質な金属パネルで覆(おお)われている。
だが、その継ぎ目(つぎめ)から、時折、正体不明の気体が白い煙のように漏れ出している。
まるで、この施設自体が、内側からゆっくりと腐(くさ)り落ちているかのようだ。
遠くから聞こえていたアラート音は、今は止んでいる。
それが意味するのは、事態の収拾か、それとも……。
アキラの胸騒ぎは、強まるばかりだった。
足元の床が、彼らの不安を映すかのように、冷たく、硬く感じられた。

「……ここよ」

アキラは、一つの巨大な円形の扉の前で、足を止めた。
彼女の端末が示す座標。
そして、扉の隙間から漏れ出してくる、異常なまでのエネルギー反応と、微かな……呻(うめ)き声のような音。
間違いなく、この奥が、ドクター・アルトマンのラボであり、ケンジたちが囚(とら)われている場所だ。

扉の前には、監視カメラも、警備兵の姿も見えない。
あまりにも無防備。
しかし、それは逆に、絶対的な自信の表れなのか、それとも……この先には、もはや物理的な警備など不要なほどの「何か」が待ち受けているというのか。
アキラは、扉の脇にある、最新式の生体認証パネルを睨(にら)みつけた。
これは、リョウのハッキングでも突破は難しい。

「……私がやるしかない、か」
アキラは、覚悟を決めた。
彼女は、ミカたちに目配(めくば)せすると、震える指でパネルに触れ、自身の生体情報……おそらくはクロノス社やサーペント社にも記録されているであろう、自身の「新人類」としてのデータ──を利用して、認証解除を試みた。
リスクは高い。
自らの存在を、敵に知らせるようなものだ。
だが、これしか方法はない。
彼女の体が、再び「侵食感しんしょくかん」に軋(きし)む。
腕のうろこが、青白い光を放つ。
心臓が、早鐘のように打つ。

(……お願い……開いて……!)

ピ、という短い電子音。
そして、重厚な金属扉が、音もなく、ゆっくりと左右にスライドしていく。
成功したのだ。
だが、その代償は、確実に彼女の精神と肉体を蝕(むしば)んでいた。
視界が、一瞬、白く霞(かす)んだ。

「……アキラさん……!」
ミカが、心配そうに彼女の腕を支える。
「……大丈夫。……行きましょう。……みんなを、助け出す」
アキラは、気丈(きじょう)に頷(うなず)き、開かれた扉の向こう、深淵(しんえん)へと続く暗闇へと、先頭を切って足を踏み入れた。
ミカ、リョウ、マサも、息をのみ、彼女の後に続いた。
彼らの心臓の鼓動が、やけに大きく、そして不規則に響いていた。
まるで、破滅へのカウントダウンのように。

扉の向こうに広がっていた光景。
それは、彼らが想像していたどんな地獄よりも、遥(はる)かに、そして静かに、残酷(ざんこく)で、そして冒涜的ぼうとくてきなものだった。

広大な、ドーム型の空間。
しかし、そこは「実験室」というよりも、むしろ、生命を部品のように扱う「工場」であり、「解体場」と呼ぶべき場所だった。
壁際に沿って、無数の巨大な円筒形の水槽が、整然と、しかし冷酷に並べられている。
その数は、百を超えるか。
青白い、不気味な照明に照らされた、緑色の培養液ばいようえきの中には、かつて「人間」であっただろう存在が、無数のケーブルやチューブに繋(つな)がれ、まるで工業製品の部品のように、あるいは屠殺とさつを待つ家畜のように、静かに漂(ただよ)っていた。
培養液の濁(にご)り具合や、水槽のガラスに付着した汚れが、ここでの管理が決して十分ではないこと、そして中の「素材」が単なる消耗品として扱われていることを物語っていた。
部屋全体に、強いアンモニアのような刺激臭と、濃厚な死臭、そして……人間の尊厳そんげんが完全に踏みにじられた場所だけが放つ、絶望的な「無」の臭いが充満していた。
床は、|滑(ぬめ)るような感触があり、所々に黒い染(し)みが広がっている。
空気は重く、冷たく、まるで墓場の中にいるかのようだ。
規則的な機械の駆動音が、まるで巨大な、心ない怪物の鼓動のように聞こえた。

「……あ……ああ……。……ひどい……。こんな……ことが……。……神様……」
ミカは、その場にへたり込み、嗚咽(おえつ)を漏らした。
その瞳からは、涙が止めどなく溢(あふ)れ出ている。
吐き気を堪(こら)えるように、口元を押さえている。
リョウとマサも、顔面蒼白(そうはく)で、言葉を失い、ただ目の前の光景に打ちのめされていた。
彼らが普段、文句を言いながらも享受(きょうじゅ)していた「社会」……その豊かさや安全が、このような犠牲の上に成り立っているのかもしれないという、恐ろしい現実に直面していた。
足元の床が、まるで彼らの精神の動揺を反映するかのように、ぐらりと揺れた気がした。

アキラは、震える足で、水槽の一つに近づいた。
他のものより、わずかに小さい水槽。
その中にいたのは……。
見覚えのある顔だった。
数日前に姿を消した、ユースの仲間の一人。
まだ、あどけなさの残る少年……名前は、確か……ソウタだったか。
彼の体は、痛々しいほどに痩(や)せ細り、しかし、その背中には、不釣り合いなほど巨大な、昆虫の翅(はね)のようなものが、培養液の中で力なく揺れていた。
彼の瞳は、虚(うつ)ろに開かれたまま、どこか遠くを見つめている。
モニターには、彼の生体反応を示すグラフが表示されている。
……かろうじて、生きている。
だが、それは「生きている」と言える状態なのか?
彼の表情は、完全に「無」だった。
喜びも、悲しみも、苦痛さえも、感じていないかのように。
それこそが、最も恐ろしいことのようにアキラには思えた。
あの無邪気な笑顔は、もうどこにもない。
この冷たい水槽の中で、彼は何を思い、何を感じているのだろうか。
いや、もう何も感じていないのかもしれない。

「……ケンジは……? ケンジはどこ……!?」
アキラは、他の水槽も必死に確認していく。
あの子は、どこに?
生きていてくれ……!
彼女の叫びは、悲痛だった。
水槽の列を、一つ、また一つと確認していく。
どれもこれも、変わり果てた、かつての「仲間」たちの姿。
あるいは、もはや人間とは呼べない「何か」。
アキラは、彼らの名前を一人一人、心の中で呼びかけた。
応答はない。
ただ、水槽の中の液体が、彼女の動きに合わせて、静かに揺れるだけだった。
その揺らめきが、まるで彼らの最後の涙のように見えた。

そして……。
水槽の列の一番奥。
そこにあった水槽は、他のものとは違い、内部の培養液が赤黒く濁(にご)り、そして……空(から)だった。
ただ、底の方に、何か小さな、黒い塊のようなものが、ヘドロのように沈んでいるだけ。
そして、水槽の側面には、「被験体K_J_07 暴走ぼうそう反応後、活動停止。サンプル採取後、廃棄済はいきずみ」という、冷たく、事務的な表示が……。

(……ケンジ……。……やっぱり……ダメだったんだ……。……あんなに……あんなに力を欲しがっていたのに……これが、その……結末……。……ごめん……ごめんね、ケンジ……!)

アキラの中で、何かが、完全に砕け散った。
彼女の全身から、力が抜けていく。
膝(ひざ)から崩れ落ちそうになるのを、隣にいたミカが、必死で支えた。
怒りも、悲しみも、憎悪(ぞうお)も、もはや感じなかった。
ただ、あまりにも深い、底なしの絶望感だけが、彼女の心を、冷たく、重く、覆(おお)っていく。
自分のしてきたことは、全て無駄だったのか?
仲間を守ることも、真実を暴(あば)くことも……そして、生きることさえも……。
部屋の空気が、まるで彼女の絶望に共鳴するかのように、さらに重く、冷たくなった気がした。
機械の駆動音が、まるで死神の足音のように、不気味に響いていた。
世界から、色が消えたようだった。
彼女の腕の鱗が、鈍い灰色に変わったように見えた。

「───ほう……。素晴らしい……! 実に、素晴らしいサンプルだ! まさか、ここまで『感情』に呼応して、生体エネルギーが変化するとはね! これは大発見だ! 君の存在そのものが、私の理論の正しさを証明している!」

その声は、突然、背後から響いた。
まるで、貴重な美術品を鑑賞かんしょうするかのような、ゆがんだ愉悦ゆえつに満ちた声。
四人が、弾かれたように振り返る。
そこに立っていたのは、純白の白衣に身を包んだ、神経質そうな目をした、中年の男だった。
ドクター・アルトマン。
その手には、タブレット端末が握られ、その画面には、おそらくはアキラの、限界に近い生体データが表示されているのだろう。
彼の表情には、目の前の惨状さんじょうに対する罪悪感など微塵(みじん)もなく、ただ、新たな研究対象(アキラ)に対する、飽(あ)くなき好奇心と、ゆがんだ支配欲だけが浮かんでいた。
彼の立つ場所だけ、空気が違うように感じられた。
冷たく、乾燥し、そして……生命に対する冒涜(ぼうとく)とも言える、狂気に満ちている。
彼の白衣は、塵一つなく清潔で、それがこの実験室の汚れと、あまりにも不釣り合いだった。

「まさか、ここまでたどり着く『素材』が現れるとはね。……それも、お前のような、感情に左右されやすい、実に興味深い『初期型』が。……これは、ツォン・ロンウェイ様も、お喜びになるだろう。いや、このデータは、あるいはカイ様への、最高の『手土産』になるかもしれんぞ!」
アルトマンは、アキラの腕の鱗(うろこ)を一瞥(いちべつ)し、まるで獲物を見つけた蛇(へび)のように、舌なめずりをした。
その目は、科学者のそれというよりは、獲物を前にした、飢えた獣のそれに近かった。
「君のようなサンプルがあれば、私の研究は飛躍的に進む! 不安定な『暴走』を完全に制御し、意のままに力を引き出す……! まさに、神の領域だ! 私が、新たな神となるのだ!」

「……貴様……!」
アキラは、憎悪(ぞうお)にゆがむ顔で、掠(かす)れた声で、男の名を……いや、男を睨(にら)みつけた。
「ケンジに……仲間たちに、何をした……! 何のために!」
彼女の全身から、青白いオーラのようなものが、再び立ち昇り始めている。
それは、暴走の兆候。
だが、今の彼女には、それを抑え込むだけの理性は、もう残っていなかった。
ただ、目の前の男への、燃えるような怒りだけが、彼女を突き動かしていた。
足元の床が、彼女の怒りに呼応するかのように、微かに震えている。

「何をした、だと? ハッ、愚問(ぐもん)だな」
アルトマンは、心底おかしそうに肩をすくめた。
「決まっているだろう? 『進化』のための、尊い犠牲となってもらったのだよ。……素晴らしい貢献だとは思わないかね? 彼らのような、社会の底辺で、掃(は)き溜(だ)めのような場所で、何の意味もなく生きていたであろう『ユース』がだ! この私によって! 人類の輝かしい未来を切り拓くための、名誉ある『礎(いしずえ)』となったのだからな!」
彼は、恍惚(こうこつ)とした表情で、両手を広げた。
まるで、自らが救世主であるかのように。
「彼らのデータが、より完璧で、より安定した『強化人間きょうかにんげん』を生み出すのだ。……失敗は成功の母、と言うだろう? 彼らの『失敗』……例えば、ケンジくんのあの派手な『暴走』などは、実に有益なデータを提供してくれたよ。……感謝こそすれ、恨(うら)まれるいわれはないはずだがねえ? 君たちも、そうなるべきなのだ。人類の未来のために! この、私の偉大な研究のために!」
その言葉は、狂気に満ちていた。
人の命を、ただのデータ、ただの数字としか見ていない。
この男にとって、倫理や道徳など、古びた教科書の文字に過ぎないのだろう。
彼の歪んだ論理の中では、彼こそが「正義」であり、「神」なのだ。
彼の背後で、培養槽の中の歪な生命体が、まるで彼の言葉に呼応するかのように、ゆっくりと蠢(うごめ)いた。

「……許さない……! 絶対に……!」

アキラの中で、最後のタガが外れた。
憎悪(ぞうお)が、絶望が、悲しみが、全ての感情が、一つの巨大な破壊衝動へと変わる。
彼女の全身から、制御不能なエネルギーが、青白い稲妻のように迸(ほとばし)る!
床が、壁が、彼女の怒りに呼応するかのように、ビリビリと震える!
腕の鱗が、さらに鋭く、長く伸長し、全身を覆(おお)い尽くさんばかりに広がっていく!
瞳は、完全に赤く染まり、もはや人間のそれではない!
「暴走」───! その最終段階へと、彼女は足を踏み入れようとしていた。
部屋の温度が、急激に上昇したかのような錯覚。
空気が、焼け付くように痛い。

「ほう……! 来たか! これが、記録にあった……制御不能領域(リミットブレイク)! 素晴らしい! なんというエネルギー効率! なんという生命力! もっと! もっとだ! さあ、私に見せてみろ!」
アルトマンは、恐怖するどころか、両手を広げ、恍惚(こうこつ)とした表情でタブレットを構える。
その姿は、嵐の中心で、自らが引き起こした破壊に歓喜する、愚かな創造主のようだった。

彼の背後から、音もなく、数体の影が現れた。
それは、シオンたちが遭遇したのと同タイプの、戦闘用強化兵士きょうかへいし(エクソソルジャー)。
その数は、三体。
彼らは、無機質な動きでアキラを取り囲むように展開し、その武器(アサルトライフルや、腕に装着されたブレード)を、静かに構えた。
アルトマンを守るための、最後の壁。

「……さあ、実験の続きを始めようか」
アルトマンは、歪(ゆが)んだ笑みを浮かべ、叫んだ。
その声は、もはや科学者のものではなく、狂信者のそれに近かった。
「……君の『暴走』の、その限界点を……! 人類進化の、新たな一ページを、この私に、その目に、焼き付けさせてくれ!」

強化兵士たちが、暴走しかけたアキラへと、一斉に襲いかかる。
ミカ、リョウ、マサは、恐怖に立ち尽くすしかない。
絶望的な状況。
アキラは、憎悪と破壊衝動の奔流(ほんりゅう)に飲み込まれながら、最後の戦いを強いられようとしていた。
彼女の人間としての尊厳そんげんは、ここで完全に失われてしまうのか───。
ラボの冷たい空気が、彼女の悲鳴を待っているかのようだった。
培養槽(ばいようそう)の中で、変わり果てた仲間たちの目が、虚(うつ)ろに彼女を見つめている気がした。
彼らの無念が、アキラの怒りを、さらに増幅させていく。



第九章 鋼の涙、絆の盾

「───さあ、見せてみろ! プロトタイプ! 君の『暴走』の、その限界点を ……! 人類進化の、新たな一ページを、この私に、その目に、焼き付けさせてくれ!」
ドクター・アルトマンの、甲高く、粘つくような、狂気に満ちた声が、実験室じっけんしつの冷たい空気を切り裂いた。
彼の瞳は、好奇心と、歪んだ支配欲で、爛々と輝いている。まるで、これから始まるであろう惨劇を、最高のエンターテイメントとして楽しもうとしているかのようだ。
足元の床が、彼の興奮に呼応するかのように、微かに振動している。
その言葉を合図にしたかのように、三体の強化兵士が一斉に襲いかかってきた! 無慈悲な殺意をその赤い単眼センサーに宿し、アキラと、彼女を守るように立つミカ、リョウ、マサへと。
重い金属の足音が、床を打ち、壁に反響する。それは、まるで死刑執行のカウントダウンのように、アキラたちの鼓膜を圧迫した。
部屋に充満する薬品臭と死臭が、恐怖でさらに濃密になったように感じられる。培養槽の緑色の液体が、彼らの動きに合わせて不気味に揺らめいた。
「 ……アキラさん!」
ミカが悲鳴に近い声を上げる。リョウとマサも、顔面蒼白になりながら、それぞれ手に持った工具や、かろうじて機能するスタンガンを構えるが、その抵抗が巨大な暴力の前でどれほど無力か、彼ら自身が一番よく分かっていた。
足元の床が、彼らの絶望を映すかのように、冷たく、滑るように感じられた。
アキラの意識は、憎悪ぞうおと破壊衝動の赤い奔流に飲み込まれかけていた。
腕のうろこは、もはや服を突き破らんばかりに激しく隆起し、鋭い刃のように変貌している。全身から、制御不能なエネルギーが、青白い火花となって散っていた。
侵食感しんしょくかんは、もはや痛みではなく、彼女の「人間」としての輪郭そのものを融解させる、灼熱の奔流と化していた。
もう、どうなってもいい。この憎むべき科学者も、その「作品」たちも、そして …… この忌まわしい自分自身さえも、全て破壊はかいし尽くしてしまえば ─── 楽になれるのではないか?
そんな、甘美で、破滅的な誘惑が、彼女の思考を支配しようとしていた。
視界が、赤く、点滅する。世界が、歪んで見える。アルトマンの高笑いが、耳障りに響く。
強化兵士の一体が、アキラの前に立ちはだかるミカへと、その巨大な金属腕を振り下ろす!その動きは、残忍なほどに正確で、速い。
ミカの小さな体が、まるで紙屑のように吹き飛ばされる光景が、アキラの脳裏に焼き付いた。
「 ……ダメだ ……!! ミカを ……!!」
それは、本能的な叫びだった。
仲間を、守らなければ。たとえ、この身がどうなろうとも!
ガキン!!!
甲高い金属音。
アキラが、最後の理性を振り絞り、反射的に展開した鱗のシールドが、強化兵士の渾身の一撃を受け止めた。
シールドには、巨大な蜘蛛の巣状のが走り、アキラの口から、苦痛に満ちた呻き声が漏れた。腕の鱗の一部が砕け散り、激痛が全身を貫く。
だが、防いだ。ミカを守った。
シールドの隙間から、ミカの恐怖に歪んだ顔が見える。
「 ……アキラさん ……!」
ミカの瞳に、涙が浮かぶ。
「 ……しっかりして! ……お願い ……!」
「 ……素晴らしい! なんという自己修復・防御能力だ! やはり君は最高だ、サンプルΑアルファ! その負荷データ、実に興味深い! もっと! もっと見せろ!」
アルトマンの、恍惚とした声が響く。
彼は、タブレット端末を構え、アキラの限界反応を、興奮した様子で記録し続けている。その姿は、科学者というよりは、倒錯した芸術家、あるいは悪魔そのものだった。
彼の周囲だけ、空気が歪んでいるかのように、冷たく、そして粘りついている。
「 ……うるさい ……! あんたなんかの ……『サンプル』じゃない ……! 私たちは …… 人間だ ……!」
アキラの意識が、再び憎悪に染まっていく。
青白いオーラが、さらに強く、激しく、彼女の全身から放たれ始める。
鱗が脈打ち、その形態を、より鋭く、より攻撃的なフォルムへと変化させていく。瞳の赤い光が、周囲の闇を焼き尽くさんばかりに輝きを増す。
暴走の、最終段階。
もう、後戻りはできないかもしれない ───。
身体が、意志とは無関係に、目の前の強化兵士へと飛びかかろうとする。

「───アキラさん!!」
ミカの、たましいからの叫びが、赤い奔流に飲み込まれかけていたアキラの意識を、強く、強く、揺さぶった。
その声は、恐怖に震えながらも、決して諦めないという、強い意志を持っていた。
「 ……思い出して! ……タツヤさんのこと! カズさんのこと! ……そして、ケンジくんのこと! ……彼らが、何のために ……! あなたが、私たちに教えてくれたこと! 生きる意味は、力だけじゃないって! ……アキラさんが、言ったんじゃない!」
タツヤ …… カズ …… ケンジ ……。
失われた仲間たちの顔が、名前が、断片的に脳裏をよぎる。
彼らの死。彼らの最後の言葉。
「未来は …… 託した ……」
そうだ ……。
私は、彼らの想いを、引き継ぐと誓ったはずだ。
憎しみに身を任せ、破壊の限りを尽くすことが、彼らの弔いになるはずがない。
力に溺れたら、アルトマンと同じだ。ケンジのように、桐島の妹さんのように、悲劇を繰り返すだけだ。
ミカが、リョウが、マサが、私を信じてくれている。このきずなを、私が壊すわけにはいかない。
「 ……私は …… 私はまだ …… 人間だ ……!!」
アキラは、最後の力を振り絞り、内側から溢れ出そうとする、制御不能なエネルギーの奔流に、必死で抗った。
それは、嵐の中で、小さな舟の舵を握りしめ、巨大な波に立ち向かうような、絶望的なまでの戦いだった。
全身の骨が軋み、意識が明滅する。腕の鱗が、さらに鋭利な形状へと変化し、自らの肉体を傷つけ始める。
それでも、彼女は諦めなかった。ミカの叫び声が、仲間たちの存在が、彼女を繋ぎとめていた。
暴走しかけたエネルギーを、彼女は、破壊ではなく、別の方向へと、意識的に収束させようと試みた。それは、彼女の持つ、もう一つの力 ─── ハッキング能力と、解析能力。
「 ……リョウ! マサ!」
アキラは、歯を食いしばりながら、仲間の名を呼んだ。その声は、掠れてはいたが、確かな指示を含んでいた。
「 ……敵の動き …… パターンを …… 解析した ……! アルゴリズムの …… 隙間 ……! あの強化兵士 …… 関節部の制御サーボに …… 特定の周波数で …… 干渉できるはず ……!」
暴走しかけた彼女の脳は、しかし、同時に、驚異的な分析能力を発揮していたのだ。
「 ……マサ、あなたのEMP …… 周波数を合わせて! リョウ、タイミングを指示して!」
「 ……! ああ!」
「分かった! やってやる!」
アキラの言葉に、絶望しかけていたリョウとマサの目に、再び光が宿った。ミカも、涙を拭い、レーザーピストルを構え直す。
まだ、終わっていない!アキラは、戦っている!
リョウは、アキラから送られてくるデータを元に、自身の端末で強化兵士の動きを予測し、マサに最適なタイミングを指示する。
「 ……右のやつ、今だ!」
マサは、改造した電磁パルス発生装置を、リョウが指示したタイミングで、強化兵士の一体の関節部──アキラが示した、わずかな弱点──へと正確に照射した。
特定の周波数に調整された電磁パルスが、制御サーボを狂わせる!
『 ……エラー …… 制御不能 …… システム …… ダウン ……』
強化兵士の一体が、ぎこちない動きで停止し、その場に崩れ落ちた。
「 ……よし!」
「やった!」
リョウとマサが、小さく拳を握る。
残る強化兵士は、二体。そして、ドクター・アルトマン。
「 ……小癪な ……! だが、無駄だ! こいつは、外部からの干渉を受け付けない、最新モデルで ……!」
アルトマンが、狼狽しながらも、なおも勝ち誇ったように叫んだ、その時だった。
もう一体の強化兵士の動きも、突然停止した。その胸部には、ミカが放ったレーザーピストルの光弾が、数発、撃ち込まれていたのだ。
威力は低い。だが、リョウのハッキングによって一時的にシールド機能が低下していたのか、あるいは偶然にも、内部の重要回路を破壊したのか。
理由は分からない。だが、確かに、ミカの、諦めない一撃が、奇跡を起こしたのかもしれなかった。
「 ……な ……!?」
アルトマンは、完全に言葉を失った。
残る強化兵士は、一体。その一体が、アキラへと向き直る。
「 ……アキラさん!」
しかし、アキラは、もう限界だった。無理な力の制御と、侵食感によって、彼女の意識は、今度こそ完全に途切れようとしていた。
体が、ゆっくりと傾いでいく。赤い瞳の光が、弱まっていく。
最後の強化兵士が、アキラへと、その凶刃を振り上げた ───!

その瞬間を、誰もが息をのんで見つめていた。絶望的な、瞬間。
だが ─── 強化兵士の刃が、アキラに届くことはなかった。
彼の動きが、不自然に、ぴたりと止まったのだ。
まるで、時間が停止したかのように。いや、違う。
彼の背後から、何かが、彼の装甲を貫通し、その動力源を破壊していた。
それは、マサが投げた、ただの金属製の工具だった。しかし、それは、アキラが最後の力を振り絞って展開した、極薄だが極めて硬質な鱗の破片によって、恐るべき速度と精度で「加速」され、誘導されていたのだ。
アキラの、最後の抵抗。最後の、仲間との連携。
強化兵士は、赤いセンサーライトの光を失い、音もなく床に崩れ落ちた。
残るは、ドクター・アルトマン、ただ一人。
彼は、もはや抵抗する術もなく、壁際に追い詰められ、腰を抜かしたように座り込んでいた。
その顔には、恐怖と、そして自らの研究が水泡に帰したことへの、完全な絶望の色が浮かんでいる。
「 ……なぜだ ……。なぜ、私の完璧な計画が ……。私の『進化』への道が ……。……こんな、出来損ないの、ユースの子供たちによって ……!」
彼は、うわ言のように呟いた。その言葉には、もはや以前のような傲慢さはなく、ただ、哀れなほどの自己憐憫だけが残っていた。
「 ……あなたは、間違っていたからよ」
声は、床に倒れ伏したアキラのものだった。彼女は、ミカに支えられながら、かろうじて顔を上げ、アルトマンを睨みつけていた。
その瞳には、まだ赤い光の残滓があったが、それはもはや暴走の光ではなく、人間の持つ、強い意志と、そして深い悲しみの光だった。
「 ……人間(ひと)の価値は …… 力や、効率だけじゃない ……。……私たちは …… 物じゃない ……! あなたが弄んだ命の、その痛みを …… あなたは、永遠に理解できない ……!」
その言葉は、アルトマンに届いただろうか。
ミカとリョウが、アルトマンを拘束する。マサは、アキラに駆け寄り、その体を心配そうに見つめている。
アキラは、薄れゆく意識の中、ミカたちが解放しようとしている、水槽の中の仲間たちの姿を見た。
ケンジは、もういない。タツヤも、カズも ……。多くのものを失った。
そして、自分自身も、大きな傷を負った。完全な勝利ではない。
だが ───。
確かに、一つの鎖を断ち切ることはできた。
そして、何よりも ……。
絶望的な状況の中で、仲間を信じ、自分自身を見失わずに戦い抜くことができた。
それこそが、彼女にとって、かけがえのない「勝利」なのかもしれない。
彼女の頬を、一筋の、鋼のような涙が伝った。
アキラは、駆け寄ってきたミカの腕の中で、静かに意識を手放した。
まだ、終わりじゃない。戦いは、始まったばかりなのだから ───。
ラボの外で、止んでいたはずのアラート音が、再び、しかし以前とは違う、何か新しい時代の始まりを告げるかのように、鳴り響き始めていた。
それは、まるで、灰の中から立ち上がる、小さな命たちの、産声のようにも聞こえた。
第十章 夜明けの誓い

実験室じっけんしつからセーフハウスへと戻る道は、文字通り、血と涙で濡れていた。
カズの自己犠牲じこぎせいによって開かれた活路。
しかし、脱出の過程で、ドクター・アルトマンが仕掛けた最後の罠か、あるいは崩壊し始めた施設の暴走か、彼らは更なる危険に晒された。
リョウが負傷し、マサもまた、アキラたちを庇って深手を負った。
救出できた「被験体ひけんたい」の若者たちも、その多くが衰弱しきっており、セーフハウスにたどり着くまでに、さらに二人の命が失われた。
セーフハウスの空気は、鉛のように重かった。
狭い部屋に、負傷者の呻き声と、ミカが彼らを懸命に介抱する音、そして、リョウが壁に向かって一人、肩を震わせる音だけが響いていた。
床には、使い古された医療キットの残骸と、汚れた包帯が散乱している。
窓のない部屋。換気扇は壊れているのか、動いていない。
空気は淀み、血と汗、消毒液、そして …… どうしようもない絶望の臭いが、濃密に漂っていた。
アキラは、部屋の隅で、壁に背を預け、じっと目を閉じていた。
彼女自身の消耗も激しい。今もなお、彼女の全身を蝕む侵食感として、鈍い痛みと、意識の混濁をもたらしていた。
腕の鱗は、もはや隠しようもなく広がり、その硬質な感触が、彼女がもはや「普通の人間」ではないことを、残酷なまでに突きつけてくる。
「 ……タツヤ …… カズ …… ケンジ …… そして、名前も知らない、あの子たち ……」
失われた命の重みが、アキラの心を押し潰そうとしていた。自分たちの行動は、正しかったのか?
仲間を救うため、真実を暴くためとはいえ、あまりにも多くの犠牲を払いすぎたのではないか?
そして、生き残ったこの者たちに、果たして「未来」はあるのだろうか?この灰色の都市で、社会から見捨てられ、そして、その身体には,いつ暴発するとも知れない爆弾を抱えて ……。
ぐるぐると、暗い思考が、彼女の頭の中を巡る。
足元の床が、まるで奈落の底へと続いていくかのように,どこまでも沈んでいくような感覚。
「 ……アキラさん ……」
ミカが,そっとアキラの隣に座り,彼女の冷たい手に,自らの手を重ねた。ミカの目も、赤く腫れている。
だが、その眼差しには,悲しみだけでなく,アキラを気遣う,深い優しさが宿っていた。
「 ……少し,休んだ方がいいよ。……ずっと,無理してたんだから」
「 ……ミカ ……」
アキラは,か細い声で,友の名を呼んだ。
「 ……ごめん ……。……私のせいで …… みんなを ……」
「 ……ううん」
ミカは,静かに首を横に振った。
「 ……誰も,アキラさんのせいだなんて思ってない。……カズさんだって,タツヤさんだって …… きっと,自分で選んだんだよ。……私たちを守るために」
その言葉は,慰めかもしれない。だが,今の弱りきったアキラの心には,温かい光のように沁み通った。
「 ……だから,アキラさんも,自分を責めないで。……ね?」
アキラは,何も答えられなかった。ただ,ミカの手を,弱々しく握り返す。
その温かさだけが,今の彼女を,この深い絶望の淵から繋ぎとめている,唯一の絆のように感じられた。

数日が過ぎた。
アキラの体力は,少しずつ回復し始めていた。侵食感は依然として残っているが,暴走の兆候は,今のところは見られない。
リョウとマサの傷も,ミカの懸命な看病と,ユースの仲間たちが闇ルートで手に入れてきた薬品のおかげで,快方に向かっていた。
救出された若者たちも,まだ予断は許さないが,少しずつ落ち着きを取り戻しつつある。
セーフハウスには,重苦しいながらも,ほんの少しだけ,日常に近い空気が戻り始めていた。
しかし,アキラの心は,決して休まってはいなかった。
彼女は,アルトマンのラボから持ち出したデータチップを,自身の端末に接続し,その解析を続けていたのだ。それは,彼女の「強化」された知能をもってしても,あまりにも巨大で,そしておぞましい情報だった。
プロメテウス技術の初期データ。その不安定さ。
被験者の人権を無視した,非道な実験記録。
「暴走」のメカニズム(それは,やはり精神的な負荷や,特定の外部刺激によって誘発されるらしい)。そして,失敗した被験体の「処理」 …… その多くが,月面の闘技場へと送られていたという記録。
「 ……やはり,繋がっていたのね ……」
アキラは,モニターに表示されたデータを見ながら,冷たく呟いた。
地球の,都市の最下層で行われていた非道な実験と,月の裏側で行われているという狂気のショー。
それらは,クロノス社とサーペント社(特にロンウェイ派)という,巨大な組織によって,密接に結びついていたのだ。
ユースは,地上で「素材」として消費され,生き残ったとしても,月で「商品」として見世物にされるか,あるいは兵器として利用される。
どちらにしても,待っているのは,使い捨てられる運命だけ。
これが,この世界のシステムの一部なのかもしれない。見えないところで,弱い者が,強い者の利益のために,徹底的に搾取される構造。
「 ……この連鎖を,断ち切らなければ ……!」
アキラの中で,再び決意が固まる。アルトマンを排除しただけでは,何も変わらない。
ロンウェイも,ガギエル長老も,そして,その頂点にいるであろうカイやエヴァ・ローゼンバーグ …… 彼らを止めなければ,この悲劇は終わらない。
そのためには ……。
アキラは,端末の通信履歴を開いた。そこには,鳴海玲二という,古い知人である探偵の名前が残っている。
彼ならば ……。彼もまた,この闇と戦っている。
そして,彼には,自分にはない「何か」 …… 経験,人脈,そして,どんな状況でも諦めない,強い意志がある。
「 ……彼に,託そう ……」
アキラは,決意した。
この情報を,鳴海玲二に送る。それが,現状を打破するための,最善の策だと信じて。
もちろん,リスクはある。彼を,さらに危険な戦いへと引きずり込むことになるだろう。
だが,それでも ……。
彼女は,暗号化された通信プロトコルを起動した。
そして,アルトマンのラボから得た,全ての重要なデータを,一つのファイルにまとめ,送信する。
それは,未来への希望を託す,小さな,しかし,とてつもなく重いメッセージだった。

「 ……行くの? アキラさん」
セーフハウスの入り口で,ミカが不安そうな顔でアキラを見送っていた。リョウとマサも,心配そうに後ろに立っている。
「ええ」
アキラは,頷いた。身支度は,もう済んでいる。
「 ……私は,私にしかできないことをするために。……あなたたちは,ここで,仲間たちのことをお願い」
「 ……でも ……」
ミカの瞳が,再び潤む。
「 ……アキラさんの身体 ……。それに,外は ……」
アルトマンの研究所を潰したことで,サーペント社(ロンウェイ派)は,躍起になって犯人を探しているはずだ。アキラが「鱗を持つ女」であるという噂も,さらに広がっているかもしれない。
一歩外に出れば,いつ追手が現れてもおかしくない。
「 ……大丈夫よ」
アキラは,努めて明るく微笑んでみせた。
「 ……私には,これがあるから」
彼女は,自身の腕 …… 鱗に覆われた腕を,隠すことなく見せた。
「 ……これは,呪いかもしれない。……でも,使い方によっては,力にもなる。……それに」
彼女は,ミカ,リョウ,マサの顔を,順番に,しっかりと見つめた。
「 ……私には,信じられる仲間がいるから」
その言葉に,三人は,はっとしたように顔を上げた。
アキラの瞳には,以前のような孤独や絶望の色はなかった。そこには,仲間への信頼と,未来への,かすかな,しかし確かな光が宿っていた。
「 ……必ず,戻ってくるわ。……だから,それまで ……」
アキラは,言葉を続けようとしたが,込み上げてくる感情に,声が詰まった。
「 ……うん」
ミカが,涙を拭って,力強く頷いた。
「 ……待ってる。……絶対,待ってるから!」
リョウとマサも,黙って,しかし力強く頷いた。
アキラは,彼らに背を向け,セーフハウスの扉を開けた。外には,灰色の,しかし確実に新しい一日が始まろうとしている,都市の風景が広がっていた。
彼女は,深く息を吸い込んだ。冷たい,しかし新鮮な空気が,肺を満たす。
「 ……待っていて,鳴海さん,桐島さん ……」
彼女は,空を見上げた。厚い雲の切れ間から,一筋の,強い光が差し込んでいる。
それは,まるで,これから始まる,より大きな戦いへの,祝福のようにも,あるいは,警告のようにも見えた。
アキラは,その光に向かって,ゆっくりと,しかし確かな一歩を踏み出した。
彼女の,そして「プロメテウスの落とし子たち」の,本当の戦いは,ここから始まるのだ。
『プロメテウスの落とし子たち』 了
この物語はフィクションです

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蘇芳 誠(すおう まこと) 「利益」をもたらすコンテンツは、すぐに廃れます。 不況、インフレ、円安などの経済不安から、短期的な利益を求める風潮があっても、真実は変わりません。 人の心を動かすのは「物語」以外にありません。 心を打つ物語を発信する。 時代が求めるのは、イノベーティブなブレークスルーです。