【小説】ソーマシティ・ブルース 第二部 絡み合う糸 ~ 第三部 戦士へのレクイエム
第二部 絡み合う糸
第六章 月への道標
1
桐島の道場に運び込まれた、サーペント(利益派)のコンテナから救出されたユースの若者たち。
彼らの多くは、非合法な強化薬物の投与や、粗悪な「改造」手術の影響で、心身ともに深く傷ついていた。
アキラは、自らのネットワークを使い、安全な場所へ彼らを移送し、治療の手はずを整える。
その過程で、彼女は若者たちの一人が、朦朧(もうろう)としながらも繰り返し呟く言葉に気づいた。
「……ソーマ……白い……蛇……」
ソーマ。
月面都市「ソーマ・シティ」のことか?
白い蛇……それは何を意味する?
アキラはその言葉を記録し、解析を試みる。
同時に、鳴海もまた、別の角度から核心へと迫っていた。
第五章で宗教派が襲撃したコンテナ。
鳴海は戦闘の混乱の中で、宗教派エージェントが回収していた情報端末とは別に、破損した別の記録媒体の破片を密かに回収していたのだ。
破損は酷かったが、アキラの技術をもってすれば、あるいは……。
「……これを見てくれ」
鳴海が、復元された断片的なデータをモニターに映し出す。
そこには、月面基地「ソーマ・シティ」の地下区画を示すと思われる設計図の一部と、「被験体移送リスト」、そして「闘技場運営記録」といったファイル名の残骸が表示されていた。
「やはり……月か」 桐島が静かに呟く。
「ええ。そして、このリスト……私たちが保護したユースの名前がいくつかある。彼らは、ソーマ・シティの地下施設……闘技場へ送られる予定だったのかもしれない」
アキラの声が震える。
「『白い蛇』……おそらく、ソーマ・シティ地下の闘技場、あるいはそれに関連するプロジェクトのコードネームか何かだろう」
鳴海が推測する。
「全ての元凶は月にある。間違いない」
2
月へ行く。
決意は固まった。
だが、問題はどうやって行くかだ。
ソーマ・シティはクロノス社が管理する、地球上で最も厳重なセキュリティで守られた場所の一つ。
正規のルートで民間人が立ち入れる場所ではない。
「クロノス社の輸送船スケジュール……カイの監視を掻い潜ってアクセスするのは至難の業ね」
アキラが、自らの端末で可能性を探りながら言う。
「それに、たとえスケジュールが分かっても、どうやって乗り込むか……」
「……一つ、可能性があるかもしれん」
鳴海が、古い情報屋のリストを調べていた手を止めた。
「ツォン・ロンウェイ……奴は、非合法な物資をソーマ・シティに運び込む独自のルートを持っているという噂がある」
「利益派のルートを? 危険すぎるわ」
「ああ。だが、現状、一番現実的な選択肢かもしれん」
鳴海は、アキラが集めたロンウェイ派の内部情報(第五章で得たものなど)と、自身の持つ裏社会のコネクションを組み合わせ、ロンウェイ派の輸送船の情報を探り始めた。
それは、蛇の巣に自ら足を踏み入れるような危険な賭けだった。
一方、桐島は、来るべき戦いに備え、道場で静かに精神を研ぎ澄ませていた。
彼の役割は、物理的な障害を排除し、二人を守ること。
月という未知の環境、そしてゼノや強化された敵との戦いを想定し、彼の集中力は極限まで高められていく。
3
数日後。
アキラのハッキングと鳴海の調査により、ロンウェイ派が秘密裏に運用していると思われる小型の貨物シャトルの存在が浮かび上がった。
打ち上げは数日後、太平洋上の偽装された海上プラットフォームから行われるらしい。
「……これしかないな」
鳴海は、入手したシャトルの構造図や警備体制のデータを睨みながら言った。
「警備は厳重よ。それに、カイが私たちの動きを掴んでいない保証はない」
アキラが警告する。
「分かっている。だが、行くしかない」
作戦は決まった。
アキラが打ち上げシーケンスと監視システムにハッキングを仕掛け、一時的に無力化する。
その隙に、鳴海と桐島が物理的に潜入し、貨物ベイに身を潜める。
成功の保証はない、綱渡りのような計画だった。
打ち上げ当日。
指定された海上プラットフォームへ、三人は偽造IDと隠密行動で接近する。
夜の闇と、打ち上げ前の喧騒が彼らの身を隠す。
アキラは近くの船舶から、ハッキングを開始した。
カイの防御壁との、息詰まるような攻防。
アキラの額には、再び汗が滲んでいた。
「……システムダウン、3分間だけ!」
アキラからの合図。
鳴海と桐島は、一気に動いた。
警備員の視線を掻い潜り、シャトルの貨物ベイへと滑り込む。
重いハッチが閉まる音。
そして、機体を震わせる、打ち上げへのカウントダウン。
(……行ったか)
通信を切断し、アキラは一人、船上で空を見上げた。
無事に月へたどり着けるのか。
そして、その先で待つものは……。
彼女は、自らの腕に広がる鱗の感触を確かめながら、祈るように目を閉じた。
鳴海と桐島を乗せたシャトルは、轟音と共に、夜空を切り裂き、一路、月を目指して上昇していった。
しかし、彼らはまだ知らない。
その航路の先に、カイが仕掛けた、あるいはオルロフ(ツォン・ロンウェイ)が用意した、更なる罠が待ち受けていることを―――。
第七章 変貌の代償
1
宇宙空間の絶対的な静寂の中を、小型の貨物シャトルは月面都市「\1・シティ」へと向かっていた。
狭い貨物ベイに身を潜める鳴海と桐島の間には、重い沈黙が流れていた。
窓のないこの空間では、外の景色を確認する術はない。
ただ、機体を伝わる微かな振動と、生命維持装置の単調な作動音だけが、彼らがまだ生きていることを示していた。
(……順調すぎる)
鳴海は、言いようのない不安を感じていた。
アキラのハッキングは完璧だったはずだ。
打ち上げ前のチェックも、追跡の兆候もなかった。
だが、カイ……あの実在感のない、コンピューターのような知性を持つ存在が、これほど容易く自分たちを見逃すだろうか?
これは、罠への誘導なのではないか?
隣で瞑目している桐島も、同じ空気を感じ取っているのかもしれない。
その表情は普段と変わらず静かだが、全身の気配は、抜身の刀のように研ぎ澄まされている。
『……鳴海さん、桐島さん、聞こえる?』
スマートデバイスから、アキラの小さな声が届いた。
地球からの通信は、厳重な秘匿回線を使っているはずだが、それでも不安がよぎる。
『航路に異常はない。予定通り、あと3時間でソーマ・シティの第5ドッキングベイに到着する』
『……分かった。アキラさん、そっちは大丈夫か』
『ええ、今のところは……。でも、カイの監視システムは、まるで生きているみたいに常に変化してる。いつ気づかれてもおかしくない。……本当に、気をつけて』
通信が途切れる。
鳴海は、過去の事件から持ち続けている、あのアンプルを収めたケースに無意識に触れていた。
これを使う日が、来ないことを願う。
だが……。
2
シャトルの速度が落ち、着陸シーケンスに入ったことを示す微かな衝撃が伝わる。
\1・シティ、第5ドッキングベイ。
ここまでは、計画通りだった。
『……カイからの干渉はない。警備体制も、通常レベル』
アキラからの最後の通信。
ハッチが開く。
鳴海と桐島は、息を殺して貨物ベイの影に潜む。
作業員と思われる数人が、無人ローダーを操作してコンテナを運び出していく。
その動きには、特に異常は見られない。
(……考えすぎだったのか?)
鳴海が、わずかに安堵しかけた、その時だった。
ブゥゥゥン……。
低い駆動音と共に、貨物ベイとドッキングポートを繋ぐ通路の隔壁が、警告灯の点滅もなく、静かに、しかし急速に閉鎖され始めたのだ。
「……!」
罠だ!
鳴海と桐島は、瞬時に状況を理解した。
二人は同時に駆け出す。
閉まりゆく隔壁の隙間を、滑り込むようにしてドッキングポートへと飛び出した。
しかし、彼らを待ち受けていたのは、がらんとした無人の空間ではなかった。
ドッキングポートの周囲には、すでに完全武装したクロノス社のセキュリティ部隊が、十数名、包囲するように展開していたのだ。
その中には、明らかに常人ではない、強化されたと思しき兵士の姿も数人混じっている。
そして、ポートの奥、監視モニターが並ぶコントロールブースの中から、スピーカーを通して、あの感情のない声が響いた。
『……予測された行動です、鳴海玲二探偵。そして、桐島譲氏』
カイの声だ。
『あなた方の目的も、能力も、そして限界も、全て分析済みです』
3
戦闘は、避けられなかった。
「鳴海さん、先へ!」
桐島が叫び、前に出る。
彼の役割は、鳴海を先に行かせ、この場を引き受けること。
狭いポート内で、桐島とセキュリティ部隊との激しい戦闘が始まった。
桐島の動きは、まさに神技だった。
銃弾の嵐を紙一重で躱し、強化兵の突進を柳のように受け流し、的確な打撃で次々と敵を無力化していく。
しかし、敵の数が多い。
そして、中には桐島ですら一瞬動きを止められるほどのパワーを持つ強化兵もいる。
さらに、カイは監視カメラと施設システムを駆使し、桐島の死角を突くように指示を出し、隔壁を操作して退路を断つなど、戦況を巧みにコントロールしていた。
(桐島だけでは……!)
鳴海は、施設のコントロールを奪い返すため、あるいは脱出路を見つけるために、近くの端末にアクセスしようとする。
だが、それすらもカイの予測の内だった。
端末に触れた瞬間、強力な電流が鳴海の体を襲う。
「ぐ……ああっ!」
壁に叩きつけられ、呼吸もままならない。
その隙を突き、強化兵の一人が鳴海に襲いかかろうとする。
「させん!」
桐島が、負傷も厭わず強引に割り込み、その強化兵を投げ飛ばす。
だが、その代償は大きかった。
別の強化兵が放ったレーザーが、桐島の左肩を貫いた。
「桐島ッ!」
鳴海の叫び。
桐島は膝をつき、左腕がだらりと垂れ下がる。
それでもなお、彼は右拳を握りしめ、敵を睨み据えている。
だが、限界は近い。
アキラとの通信も、妨害電波で完全に途絶していた。
絶体絶命。
(……ここまで、か……)
鳴海は、朦朧とする意識の中で、桐島の妹、沙耶の最期を思い出していた。
守れなかった。
また、同じことを繰り返すのか。
この、かけがえのない友まで……。
(……いやだ……!)
彼は、ポケットの中で、あのアンプルの冷たい感触を確かめた。
使うべきではない。
使えば、自分も「あちら側」に行ってしまうかもしれない。
だが、使わなければ、桐島が死ぬ。
アキラも、いずれ見つけ出されるだろう。
そして、真実は永遠に闇の中だ。
(……すまない、桐島……)
心の中で、友に詫びる。
鳴海は、震える指でアンプルを握りしめると、最後の力を振り絞り、それを自らの体に突き立てた。
ガラスの砕ける音。
体内に流れ込む、冷たいような、熱いような、未知の液体。
次の瞬間、鳴海の全身を、経験したことのない激痛と、脳が焼き切れるかのような情報の奔流が襲った。
視界が赤く染まり、意識が急速に遠のいていく……。
いや、遠のくのではない。
世界の速度が、変わったのだ。
ゆっくりと落下していく薬莢。
壁を伝う汗の雫。
桐島の苦悶の表情。
迫りくる敵兵の筋肉の収縮。
その全てが、驚くほど鮮明に、そしてスローモーションのように、彼の脳内に流れ込んでくる。
何かが、目覚めた。
何かが、壊れた。
鳴海玲二という人間の、内側で―――。
第八章 人間の敗北
1
世界が変貌していた。
鳴海玲二の脳内に、膨大な情報が絶え間なく流れ込み、再構築されていく。
強化された五感は、空気の微かな振動、金属の冷たさ、桐島の荒い呼吸、そして迫りくる死の気配――ゼノの存在を、異常なまでの解像度で捉えていた。
「……来たか」
鳴海の口から漏れたのは、自分のものではないような、底冷えのする静かな声だった。
目の前に立つゼノ。
その筋肉の動き、重心の移動、呼吸のリズム、瞳の奥に宿る殺意。
それら全てが、鳴海には手に取るように「読めて」いた。
ゼノは、目の前の探偵の変化に戸惑っていた。
先程までの、追い詰められた獲物の目ではない。
何か、決定的に異質なものへと変貌している。
だが、彼は任務を遂行する。
宗教派最強の刺客として、障害は排除するのみ。
ゼノが動く。
桐島との戦いで見せた超高速の踏み込み。
回転するハンドスピナーが、鳴海の心臓を正確に狙う。
必殺の間合い。
しかし――鳴海の体は、ゼノの攻撃が到達するよりも僅かに早く、「そこ」から消えていた。
最小限の動き。
最適な回避。
まるで、攻撃が来ることを事前に知っていたかのように。
「なっ……!?」
ゼノの攻撃が空を切る。
彼の脳が、目の前の現象を理解できずに警鐘を鳴らす。
偶然ではない。
この探偵は、何かを得たのだ。
人間ではない、何か―――。
鳴海が反撃に転じる。
その動きは、桐島のような洗練された「武」ではない。
だが、異常なまでの速度と、完璧なまでの正確性を持っていた。
ゼノの攻撃の「起こり」を潰し、体勢が整う前に急所を打ち、防御の隙間を的確に突く。
攻撃と防御が一体となった、無駄のない動き。
それは、ゼノがこれまで積み上げてきた戦闘経験や格闘理論では、到底説明のつかないものだった。
「貴様……何をした……!?」
ゼノは叫びながら、持てる技の全てを繰り出す。
MMAの打撃、投げ、関節技。
パワースピナーを使った予測不能な攻撃。
だが、その全てが、鳴海の前に無効化されていく。
見切られ、捌かれ、いなされる。
まるで、絶対的な未来予知能力を持つ相手と戦っているかのようだ。
2
ガッ! バキッ! ゴッ!
鳴海の的確すぎる打撃が、ゼノの肉体を確実に捉えていく。
ゼノの腕が不自然な方向に捻じ曲げられ、サブミッションによって関節が破壊される鈍い音が響く。
「ぐ……あああああッ!!」
常人なら意識を失うほどの激痛。
それでもゼノは、戦士としての本能だけで立ち向かう。
折れた腕で、がむしゃらに拳を振るう。
だが、その悲壮な抵抗すら、鳴海には児戯に等しかった。
カウンターの掌打が、ゼノの顔面を的確に捉える。
「ゴァッ!!」
吹き飛ばされ、壁に叩きつけられ、ゼノは床に沈んだ。
口から血反吐を吐き、視界が霞む。
それでも、彼は壁に手をつき、よろめきながら、執念だけで立ち上がろうとした。
その瞳には、もはや理性はなく、ただ闘争本能と、理解不能な存在への憎悪だけが赤黒く燃えている。
そんなゼノの姿を、鳴海は冷然と見下ろしていた。
強化された身体は、疲労すら感じさせない。
その瞳は、底なしの闇のように昏く、静かだった。
「……もういい」
鳴海の声が、冷たく響く。
「これは、勝ち負けの問題ではない」
彼はゆっくりとポケットから、空になったアンプルを取り出した。
そして、それを跪(ひざまず)くゼノの目の前に、無造作に掲げてみせた。
「お前は終わった。……人間の、敗北だ」
その言葉と共に、鳴海の口元に、不気味な嗤(わら)いが浮かんだ。
それは勝利の悦びではない。
嘲りでもない。
まるで、世界の残酷な真理を知ってしまった者のような、乾いた、虚無的な響きを帯びていた。
瞬間、ゼノの全身を、生まれて初めて経験する種類の**『戦慄』が貫いた。
死や痛みへの恐怖ではない。
もっと根源的な、存在そのものが揺さぶられるような感覚。
目の前の男が放つ「人間の狂気を超えた狂気」。
それは、ゼノ自身の破壊衝動とは似て非なるもの。
冷え切った、計算され尽くされた、「絶対的な破壊」**の意志。
鳴海の冷ややかな目が、ゼノの存在そのものを否定するように射貫いていた。
まるで、将棋の盤面で、はるか先の詰みまで完全に見切っているかのように。
もはや、どんな抵抗も、どんな執念も、この男の前では完全に無意味なのだと、ゼノは本能で悟った。
「……ッ!」
言葉にならない呻きが、ゼノの喉から漏れた。
体中の骨が砕けるよりも深く、彼の魂が、その絶対的な敗北感の前に、音を立てて砕け散った。
彼は、ついに膝から崩れ落ち、床に突っ伏したまま、動かなくなった。
第九章 壊れた翼
1
意識が浮上する。
最初に感じたのは、全身を苛む鈍い痛みと、それ以上に心を抉る、絶対的な敗北感だった。
ゼノは、打ち捨てられたコンテナの陰で、冷たい床に横たわっていた。
どれくらいの時間が経ったのか分からない。
あの探偵――鳴海玲二に敗れた後、どうやってここまで逃げてきたのか、記憶が曖昧だった。
(……負けた……俺が……あんな男に……)
脳裏に、鳴海のあの「嗤い」と「冷ややかな目」が焼き付いて離れない。
人間の狂気を超えた狂気。
絶対的な破壊の意志。
そして、アンプル……。
あの、人の理(ことわり)を歪める禁断の力。
(あれが……力の答えだというのか……? 桐島が見せた、あの技の先にあるものが……これなのか……?)
違う。
断じて違うはずだ。
桐島の技には、鍛え抜かれた人間の精神と肉体の、揺るぎない輝きがあった。
無限の可能性を感じさせた。
だが、鳴海の力は、もっと冷たく、もっと虚無的で、そして抗いようのない「結末」だけを突きつけてきた。
人間の敗北。
あの言葉が、呪いのようにゼノの思考を縛る。
(俺は……終わった……?)
憎悪と絶望が、彼の心を黒く塗りつぶしていく。
最強であるはずの自分が、最も侮蔑していたはずの力によって打ち砕かれた。
戦士としてのプライドは、粉々になっていた。
存在意義そのものが、揺らいでいる。
「……まだだ……」
掠れた声が、ゼノ自身の喉から漏れた。
「まだ……終われない……!」
彼は、折れた腕の激痛に耐えながら、ゆっくりと体を起こした。
その瞳には、もはや以前の冷徹さはなく、代わりに、どす黒い炎のような、破滅的な光が宿っていた。
失ったプライドを取り戻す。
いや、そんな次元ではない。
あの探偵に、そしてこの理不尽な世界に、己の存在を刻みつけなければならない。
たとえ、それがどのような形になったとしても。
2
ゼノは、かつて自らが属していた「ゾロアゾシース魔術騎士団」とは別の、裏社会のネットワークを辿っていた。
ガギエル長老の思想も、騎士団の戒律も、今の彼にはどうでもよかった。
彼が求めているのは、ただ一つ。
力。
鳴海を打ち破った、あの「人間を超えた力」に匹敵する、あるいは凌駕する力だ。
情報は、金と暴力が支配する暗黒市場(ダークマーケット)にあった。
非合法な人体改造。
クロノス社のプロメテウス技術の粗悪な模倣品や、そこから派生したさらに危険な技術。
手を染めれば、二度と後戻りはできない。
人間としての何かを、決定的に失うことになるだろう。
(……構わない)
ゼノはある闇クリニックの扉を叩いた。
そこは、金さえ積めばどんな非人道的な処置も行うと噂される場所だった。
彼は、これまでの任務で得た全ての資金と、そして自らの肉体を対価として差し出した。
「……最高の『強化』をしろ。俺が、神をも超える力を手に入れるために」
手術台の上で、ゼノは麻酔が効いて遠のいていく意識の中、最後に桐島の姿を思い浮かべていた。
あの男が見せた、人間の可能性の輝き。
それを、自ら否定し、踏み越えようとしている。
自嘲的な笑みが、彼の唇に浮かんだ気がした。
3
数週間後。
ゼノは、生まれ変わっていた。
あるいは、死んでいたのかもしれない。
鏡に映る自分の姿に、以前の面影はほとんどなかった。
体には、生体部品なのか金属なのか判別できないパーツが埋め込まれ、皮膚の下では常に何かが蠢(うごめ)いているような感覚があった。
力は、以前とは比較にならないほど増大していた。
スピードも、耐久力も、そしておそらくは破壊衝動も。
だが、同時に、何か決定的なものが失われていた。
技の冴え。
極限の集中力。
そして、戦士としての誇り。
今の自分は、ただの強力な「兵器」であり、「怪物」でしかないのではないか?
その疑念が、彼の精神を蝕む。
そんな彼の元に、新たな情報がもたらされた。
月面都市「ソーマ・シティ」の地下に存在する、非合法な強化人間たちの闘技場。
そこでは、様々な「強化」を受けた者たちが、富裕層の娯楽と賭けの対象として、あるいは軍事利用のためのデータ収集として、日夜死闘を繰り広げているという。
(闘技場……)
ゼノの口元に、再び歪んだ笑みが浮かんだ。
これだ。
これこそが、今の自分にふさわしい舞台だ。
もはや人間ではない自分を、この世で唯一受け入れてくれる場所。
最強を証明する場所。
そして……。
(……そこで、全てを終わらせる)
改造された体は、以前よりも遥かに強大な力を振るうことができる。
だが、その代償として、常に暴走の危険性と、精神の崩壊が隣り合わせにあることを、ゼノは本能的に理解していた。
この力は、長くは続かない。
ならば、最も華々しい舞台で、己の存在を燃やし尽くすまで。
彼は、闇のルートを通じて、ソーマ・シティ行きのチケットを手に入れた。
目的地は、月面地下闘技場。
彼にとっての、最後の戦場へ。
壊れた翼で、奈落へと飛翔する。
その先に待つのが、歪んだ栄光なのか、それとも完全な破滅なのか、彼自身にも分からなかった。
第十章 三つの決意
1
桐島の道場の奥、静かな一室。
窓から差し込む月明かりが、三人の影を長く床に落としていた。
鳴海は、先程までの戦闘と、「強化」による異常な感覚の余韻に、まだ身を強張らせていた。
アキラは、持ち込んだ端末を操作し、収集した情報を分析しながらも、時折苦しげに眉を顰(ひそ)めている。
桐島は、負傷した左肩の手当てを終え、壁に静かにもたれて瞑目していた。
重い沈黙を破ったのは、鳴海だった。
「……ゼノは、どこへ行ったと思う」
その声は、まだどこか彼自身のものではないような、硬質な響きを帯びていた。
アキラが、顔を上げる。
「彼の行動パターン、そして今の精神状態から予測すると……可能性が高いのは一つ」
彼女は端末の画面を操作し、一枚の衛星写真(おそらく非合法に入手したものだろう)を壁に投影した。
そこには、月面に存在する巨大なドーム都市、「ソーマ・シティ」が映し出されている。
「月……ソーマ・シティの地下に存在すると噂される、非合法の『闘技場』よ」
鳴海の脳裏に、ゼノの最後の表情が蘇る。
砕け散ったプライド。
深い絶望。
そして、その奥に宿っていた、破滅的な光。
「……奴は、死に場所を探しているのかもしれん」
鳴海が呟く。
「あるいは、最強を証明できる、最後の場所として……」
桐島が、静かに付け加えた。
彼もまた、ゼノという存在の行き着く先を、予感しているのかもしれない。
アキラが続ける。
「闘技場は、クロノス社やサーペント、そして各国の富裕層や軍事関係者が関与している可能性が高い。非合法な強化人間の実験、戦闘データの収集、そして……マネーロンダリング。あらゆる闇が、あそこに集約している」
彼女の分析は、これまでの断片的な情報を繋ぎ合わせ、確信に近いものとなっていた。
プロメテウス技術。
新人類。
サーペント。
ツォン・ロンウェイ。
ガギエル長老。
カイ。
そして、ゼノ。
全ての糸は、月へと繋がっている。
2
「……鳴海さん」
アキラが、意を決したように鳴海を見据えた。
「あなたの、その力……。あのアンプルは、一体……?」
鳴海は、自らの両手を見つめた。
まだ、微かに痺れるような感覚が残っている。
脳は依然として冴え渡り、世界が過剰なまでにクリアに見えている。
だが、同時に、何かが決定的に失われたような、空虚な感覚もあった。
「……桐島の妹さんの事件の、遺留品だ」
鳴海は、重い口を開いた。
「当時、押収品の中から密かに持ち出した。成分不明の試薬……。だが、これが『改造』と繋がっているという確信だけがあった。使うつもりはなかった。だが……」
アキラの表情が曇る。
「……危険すぎるわ。非正規の強化薬物は、効果が不安定なだけでなく、精神汚染や、最悪の場合……『暴走』を引き起こす。私の知る限り、安全に制御できた例はない」
彼女自身の「侵食感」も、その危険性を示唆している。
「分かっている」
鳴海は頷いた。
「だが、あの時、あれを使う以外に道はなかった。……そして、この力がなければ、月へは行けないだろう」
桐島が、瞑目したまま口を開いた。
「力には、代償が伴う。お前がそれをどう使うかだ、玲二」
その声は、静かだが、揺るぎない覚悟を秘めていた。
友の変貌を目の当たりにしても、彼は鳴海を信じている。
そして、共に行く覚悟を決めている。
3
「私も行きます」
アキラが、きっぱりと言った。
その瞳には、恐怖を乗り越えた、強い意志が宿っている。
「この技術の真実を、そして私自身の運命を知るために。それに……」
彼女は、鳴海の「強化」された状態を、分析的な目で見つめた。
「あなたのその状態……放置すれば、どうなるか分からない。私にできることがあるかもしれない」
それは情報屋としてか、あるいは、同じ「強化」を受けた者としての、共感か。
鳴海は、アキラと桐島の顔を交互に見た。
一人は、自らの危険も顧みず、真実と仲間(ユース)のために戦う、傷ついた新人類。
もう一人は、過去の悲劇を背負いながらも、友のために静かに、しかし絶対的な力で支えてくれる武道家。
そして、自分は……。
(……脆弱さ、か)
月面で、ゼノのハンドスピナーを手に、地球へ問いかける自分の姿が、ふと脳裏をよぎった。
人間は、弱い。
だからこそ、支え合い、立ち向かうのかもしれない。
「……ああ。行こう」
鳴海の声には、もう先程までの冷たさはなかった。
いつもの、少し疲れた、だが諦めを知らない探偵の声に戻っていた。
「月へ。全てのケリを、つけに」
三人の決意が、一つになった。
それぞれの傷と葛藤、そして僅かな希望を胸に、彼らは人類のフロンティアと呼ばれる場所の、最も深い闇へと挑む準備を始める。
彼らのソーマシティ・ブルースは、まだクライマックスを迎えてはいなかった。
第三部 戦士へのレクイエム
第十一章 蒼穹の彼方へ
1
地球の重力圏を離脱し、漆黒の宇宙空間へと躍り出た小型貨物シャトル。
その船倉の片隅で、鳴海、アキラ、桐島は息を潜めていた。
ここに至るまでの数日間は、まさに綱渡りだった。
アキラは、カイの鉄壁の監視網を掻い潜り、クロノス社の輸送船運行データの中から、最も警備が手薄になるであろうタイミングと、ツォン・ロンウェイが秘密裏に使用しているシャトルのIDを特定した。
しかし、そのIDで正規の宇宙港を使用するのは不可能。
鳴海は、かつて刑事時代に築いた裏社会のコネクションを辿り、太平洋上に存在する、今は使われていないはずの旧世代のマスドライバー施設(物資打ち上げ用の巨大カタパルト)と、そこを管理する「運び屋」に接触した。
多額の仮想通貨(アキラが別の手段で捻出した)と、いくつかの「貸し」を作ることで、彼らは打ち上げの黙認を取り付けた。
そして、打ち上げ当日。
偽装されたコンテナに身を隠し、旧式のマスドライバーから荒々しく射出されたシャトルに乗り込む際には、プラットフォームの警備システム(おそらくはロンウェイ派が独自に設置したもの)を、桐島が物理的に突破する必要があった。
音もなく警備兵を無力化し、分厚い隔壁をこじ開ける桐島の技は、常人離れしていたが、決して万能ではない。
彼もまた、限界ぎりぎりのところで潜入を成功させたのだ。
貨物ベイの中は、無機質なコンテナが並ぶだけで、生命の気配はない。
微かな振動と、宇宙空間特有の、体の芯が冷えるような感覚だけが現実味を帯びていた。
「……今のところ、追跡の兆候はない」
アキラが、携帯端末のセンサー情報を確認しながら呟く。
だが、安心はできない。
カイならば、このシャトルの航路も予測している可能性がある。
\1・シティに到着した瞬間が、最も危険かもしれない。
鳴海は、強化された感覚がもたらす、過剰なまでの情報奔流に耐えながら、思考を巡らせていた。
月で何をすべきか。
カイ、オルロフ(ロンウェイ)、ガギエル長老……。
そして、ゼノ。
どこから手をつける?
いや、考えるのは後だ。
今は、無事にたどり着くことだけを考えなければ。
桐島は、壁に寄りかかり、静かに目を閉じていた。
彼の精神は、すでに月での戦いを見据えているのかもしれない。
その静かな呼吸だけが、この密閉された空間での確かな「生」の証のように感じられた。
2
数時間の航行の後、シャトルの減速が始まった。
目的地、月面都市「\1・シティ」が近い。
アキラが再び端末を操作する。
「予定通り、第5ドッキングベイへ向かってる。……けど、何かおかしい」
「何がだ?」 鳴海が問う。
「通常業務の通信量が、異常に少ない。まるで……嵐の前の静けさみたい」
嫌な予感がした。
やはり、読まれていたのか。
ゴウン、という重い音と共に、シャトルがベイに接続される。
エアロックが開くシューという音。
外の気配を探る。
……静かすぎる。
本来なら、荷物の積み下ろしや、管制官とのやり取りがあるはずだ。
「……来るぞ」
桐島が、低く言った。
彼の研ぎ澄まされた感覚が、隔壁の向こうに複数の敵意を捉えている。
鳴海はアンプルに手をかけた。
使うべきか?
いや、まだだ。
切り札は、最後まで温存しなければ。
アキラが、端末を通じてベイの監視カメラ映像をハッキングする。
「……罠よ! ベイの内部に、クロノスの強化セキュリティ部隊が待ち伏せしてる! 数は……二十以上!」
ハッチが開くと同時に、閃光と銃撃が貨物ベイに叩き込まれる。
三人は咄嗟にコンテナの陰に身を隠した。
レーザーが金属を穿(うが)ち、火花が散る。
激しい銃撃音。
歓迎の挨拶にしては、あまりにも手荒すぎる。
「どうする!?」 鳴海が叫ぶ。
「突破するしかないわ!」 アキラが応じる。
「……道は、俺が開く」
桐島が、静かに、しかし確固たる意志を込めて言った。
彼は、コンテナの陰から飛び出すタイミングを計っている。
その背中には、絶望的な状況にも揺るがない、武道家の覚悟が滲んでいた。
第十二章 月下の死線
1
『道は、俺が開く』
桐島の静かな宣言と共に、彼の全身から放たれる気が一変した。
それまでの静謐(せいひつ)さが、一瞬にして研ぎ澄まされた「刃」へと変わる。
彼は、銃弾とレーザーが飛び交うコンテナの影から、矢のように飛び出した。
「桐島!」 鳴海の叫び。
しかし、桐島の動きは、人間の反射速度を超えていた。
彼は、銃口の向き、兵士たちの視線、空気の微かな流れさえも読み切り、弾道を予測しているかのように、その合間を縫って突き進む。
その動きは、舞いにも似て、しかし一瞬で敵の懐に飛び込み、急所を打ち抜く必殺の連撃へと繋がる。
「ぐあっ!」
「がはっ!」
強化されたボディアーマーを装着した\1部隊の兵士たちが、桐島の一撃を受けるたびに、まるで子供のように吹き飛ばされ、あるいは関節を砕かれて沈黙していく。
桐島は、徒手空拳。
だが、その拳は、鋼鉄をも砕くかのような鋭さと重さを秘めていた。
「怯むな!囲め! 制圧しろ!」
部隊の指揮官らしき男が叫ぶ。
強化兵数名が、桐島を取り囲むように同時に襲いかかる。
彼らの動きは常人離れしており、そのパワーは桐島ですら正面から受け止めれば危険だ。
だが、桐島は囲まれることを恐れない。
むしろ、その中心で、より流麗に、より鋭く動き出す。
一人の強化兵の腕を取り、それを盾にするようにして別の兵士の攻撃を受け流す。
同時に、軸足で円を描くように回転し、背後の敵の顎(あご)を蹴り上げる。
全ての動きが連動し、淀みがなく、まるで精密機械のようだ。
しかし、それは機械的な冷たさではなく、長年の鍛錬によって培われた、生きた「技」の輝きを放っていた。
2
「アキラさん、ドッキングベイのメインゲートを! ここを突破できれば……!」
鳴海は、コンテナの陰から指示を出す。
強化された彼の頭脳は、この混戦の中での最適解を弾き出していた。
桐島が敵を引きつけている間に、このベイエリアから脱出し、基地内部へ潜入するルートを確保する。
「……やってる! でも、カイの防御が……!」
アキラの指が、凄まじい速度で端末のキーを叩く。
画面には、複雑なコードと、それを阻む赤い警告表示が明滅している。
カイの構築したセキュリティは、アキラのハッキング能力をもってしても、容易には突破できない。
施設の照明が明滅し、スプリンクラーが誤作動を起こし始める。
カイが、システムを通じて直接的な妨害を行っているのだ。
「くそっ……!」
鳴海は舌打ちし、自らも行動を開始する。
彼の「強化」された力は、直接的な戦闘能力の向上だけではない。
状況認識能力、予測能力、そして、おそらくは物理法則に対する僅かな「干渉力」……?
彼は、床に転がっていた消火ボンベを蹴り飛ばした。
それは、まるで計算されたかのように、監視カメラの死角を生み出し、セキュリティドローンのセンサーを一時的に狂わせる。
「桐島! 右翼の敵、三人!」
鳴海は、強化された動体視力で捉えた情報を、的確に桐島へ伝える。
桐島は、鳴海の言葉に即座に反応し、流れるような動きで右方の敵三人を瞬時に無力化する。
二人の間には、長年の信頼関係と、そして今、鳴海に発現した未知の力が、新たな連携を生み出していた。
3
「……ゲート、開く!」
アキラの声が響いた。
一瞬の隙をついて、彼女はメインゲートのロックを解除することに成功したのだ。
しかし、同時に、彼女の顔色は蒼白になり、口元を抑えて咳き込んでいる。
能力の酷使が、確実に彼女の体を蝕んでいた。
「行くぞ!」
鳴海はアキラの肩を支え、桐島に合図を送る。
桐島は、最後の一撃で残りの強化兵を蹴散らすと、凄まじい速度で二人と合流した。
三人は、開かれたゲートの向こう、ソーマ・シティの内部へと続く通路へ駆け込む。
背後で、隔壁が再び閉鎖される重い音が響いた。
カイは、彼らをベイエリアに閉じ込めることはできなかったが、その行く先は完全に把握しているだろう。
通路に飛び込んだ三人は、息を切らせながら壁に背を預けた。
桐島の左肩からは、まだ血が滲んでいる。
アキラの呼吸は浅く、苦しそうだ。
鳴海もまた、強化された力の反動なのか、激しい頭痛と眩暈(めまい)に襲われていた。
ソーマ・シティへの潜入は、まだ始まったばかり。
だが、その代償は、すでに小さくはなかった。
カイの知性、サーペントの狂気、そしてゼノの影……。
月面の闇は、彼らが想像していた以上に深く、そして危険なものだった。
「……少し、休む」
鳴海が、壁に手をつきながら言った。
「ああ。だが、時間はあまりないはずだ」
桐島が、周囲を警戒しながら応じる。
「……次のルートを探すわ」
アキラは、端末を取り出し、再びハッキングを開始した。
三者三様の傷と覚悟を抱え、彼らは再び顔を上げた。
この月下の迷宮で、真実を掴み、そして生きて帰るために。
彼らのブルースは、まだ終わらない。
第十三章 白亜の迷宮
1
重い隔壁が背後で完全に閉鎖されると、先程までの銃声や爆発音が嘘のように、通路は静寂に包まれた。
だが、それは安らぎをもたらす静寂ではない。
張り詰めた空気、壁や天井に無数に埋め込まれた監視カメラのレンズ、そしてどこからか聞こえる単調な機械の駆動音。
この月面都市「\1・シティ」全体が、巨大な監視システム――カイの支配下にあることを、三人は肌で感じていた。
「……ひどい出血だ、桐島」
鳴海が、桐島の左肩の傷を見て顔を顰める。
レーザーによる傷は深く、応急処置はしたものの、止血が完全ではない。
「問題ない」
桐島は、顔色一つ変えずに答えるが、その額には脂汗が滲んでいた。
「……医務室を探すのは危険すぎるわ」
アキラが、壁に手をつき、浅い呼吸を繰り返しながら言った。
先程のハッキングと能力使用の反動で、彼女の消耗も激しい。
「それに、カイは私たちの行動を完全にモニターしてるはず。どこへ行っても……」
「なら、どうする」
鳴海が問う。
このままでは、桐島の傷も、アキラの消耗も限界に達する。
時間は、彼らに味方しなかった。
「……分かれて動きましょう」
アキラが、意を決したように提案した。
「私がカイのシステムの注意を引きつける。その隙に、鳴海さんと桐島さんは、この施設のメインサーバー……あるいは、地下闘技場に繋がるルートを探して」
「危険すぎる!」 鳴海が反対する。
「一人でカイの相手をするなんて」
「今の私たちには、それしか選択肢がない」
アキラの瞳には、強い覚悟が宿っていた。
「それに、情報戦なら、私の方が有利。物理的な戦闘は、あなたたちに任せる」
彼女は、自らの端末を取り出すと、複雑な操作を始めた。
「囮(おとり)になるわ。カイの意識を、可能な限り私に集中させる。……でも、長くはもたない」
鳴海は、アキラの覚悟に言葉を失った。
だが、彼女の言う通りかもしれなかった。
このまま三人で行動していては、カイの掌の上で消耗させられるだけだ。
「……分かった」
鳴海は頷いた。
「桐島、行けるか」
「ああ」
桐島も、静かに頷く。
左肩の痛みを、精神力で抑え込んでいるようだった。
「必ず、合流する」
鳴海は、アキラの肩に手を置き、力強く言った。
「……ええ」
アキラは、一瞬だけ微笑んだように見えた。
三人は、短いアイコンタクトの後、別々の通路へと歩き出した。
アキラは、カイとの危険なチェスゲームを開始するために。
鳴海と桐島は、この白亜の迷宮の深淵へと続く道を探すために。
月面での、孤独で、過酷な戦いが、本格的に始まろうとしていた。
2
アキラは、施設のサービスダクトや、監視カメラの死角を縫うようにして、ソーマ・シティの情報インフラの中枢へと向かっていた。
彼女の目的は、カイの注意を引きつけることだけではない。
可能であれば、カイのシステムに侵入し、闘技場の正確な位置、運営実態、そしてプロメテウス技術に関する隠蔽されたデータを奪取することだ。
端末を操作しながら、彼女はカイが張り巡らせたデジタルな罠を次々とかわしていく。
偽のアクセスポイント、ループするデータ回廊、思考を読み取るかのような追跡アルゴリズム。
カイの知性は、想像を絶するレベルだった。
まるで、巨大な蜘蛛の巣の主に挑むような感覚。
(……でも、あなたにも隙はあるはず……)
カイの思考は、おそらく徹底的な合理性に基づいている。
ならば、非合理的な、あるいは予測不能な動きに弱いはずだ。
アキラは、自身の持つ「ユース」のネットワーク――混沌として、非論理的で、だからこそカイには解析しきれないであろう人間の繋がり――を利用することを考えた。
地球にいる仲間に、極秘の通信を送る。
それは、陽動のための偽情報を拡散させる指示だった。
ソーマ・シティ内部のシステムだけでなく、地球上のネットワークをも巻き込んだ、大規模な情報撹乱作戦。
『……ノイズが増大。情報汚染を確認。発信源を特定中……』
カイのシステムからの、内部的なアラート(アキラが傍受したもの)が、彼女の端末に表示される。
カイの意識が、一瞬、地球に向けられた。
(……今だ!)
アキラは、その僅かな隙を突き、ソーマ・シティの深層ネットワークへの侵入を試みる。
指が、再びキーボードの上で激しく踊る。
だが、同時に、あの「侵食感」が、これまで以上の強さで彼女を襲った。
視界が歪み、体の内側から鱗が突き破ってきそうな激痛。
それでも、彼女は指を止めなかった。
3
一方、鳴海と桐島は、アキラが稼いでくれた時間を利用し、施設の地下へと向かうルートを探していた。
鳴海の「強化」された感覚は、壁の向こうの構造や、微かな空気の流れ、警備兵の気配などを捉えるのに役立ったが、同時に、この施設の異様なまでの静けさと、そこに潜む悪意のようなものも感じ取っていた。
「……こっちだ」
鳴海が、一見、ただの壁に見える部分を指さした。
「隠し通路がある」
桐島が頷き、壁の一部に力を込めると、音もなく通路への入り口が開いた。
おそらく、通常は使われていないメンテナンス用の通路だろう。
薄暗く、狭い通路を進む。
時折、上階から響いてくる重低音や、微かな振動が伝わってくる。
(……闘技場が近いのか?)
彼らは、息を殺してさらに奥へと進んだ。
そして、一つの広大な空間へと出る。
そこは……。
巨大なガラス窓の向こうに、信じられない光景が広がっていた。
眩い照明に照らされた、円形のアリーナ。
熱狂する(ように見える)観客席のホログラム。
そして、アリーナの中央で、二つの異形の影が、死闘を繰り広げていた。
強化された人間……いや、もはや人間とは呼べないかもしれない存在。
「……ここが……」
鳴海が、息をのむ。
噂に聞いていた、月面地下闘技場。
その存在は、想像を遥かに超えて、禍々(まがまが)しく、そして現実のものとして、彼らの目の前にあった。
桐島の目が、鋭く細められる。
彼は、アリーナで戦う者たちの動きの中に、かつて対峙したゼノの面影を見たのかもしれない。
あるいは、自らの手で葬った、妹の最後の姿を……。
その時、彼らの背後で、静かに、しかし確実な足音が響いた。
振り返る間もなく、鋭い殺気が二人を襲う。
カイの罠か?
それとも、別の……。
第十四章 月下の悪党
1
背後からの殺気。
それは、ゼノやクロノス社のセキュリティとは、また質の異なる、もっと生々しく、欲望に根差したような粘りつく気配だった。
鳴海と桐島は、ほぼ同時に振り返る。
薄暗い通路の奥から、ゆっくりと姿を現したのは、数人の男たち。
そして、その中心に立つ人物を見て、鳴海の表情が凍り付いた。
「……ツォン・ロンウェイ(丛 龍偉)……!」
サーペント利益派のリーダー。
かつて、鳴海が追っていた非合法な新薬開発とユースの搾取に関与していた男。
その顔には、老獪(ろうかい)さと、隠しきれない貪欲さが浮かんでいる。
高級そうなスーツを着ているが、その佇まいは洗練されたビジネスマンというより、裏社会でのし上がってきた叩き上げのそれだ。
「ほう……探偵屋か。こんなところまで嗅ぎつけてくるとはな。……しぶとい蝿(ハエ)だ」
ロンウェイは、歪んだ笑みを浮かべた。
その両脇には、屈強な体躯の男たちが二人。
彼らの目つきや、不自然に隆起した筋肉は、通常の人間のものではない。
オルロフ……いや、ロンウェイが独自に開発・投与した、「強化」薬物の影響だろうか。
「お前が……闘技場の黒幕か」
鳴海が、低い声で問う。
「黒幕? 人聞きの悪いことを言うな。ワシは、ビジネスをしているだけだ。……クロノス社に奪われた、ワシの『市場』を取り戻すためのな」
ロンウェイは、憎悪を込めて吐き捨てた。
「それに、ここはそのための重要な『施設』でな。部外者には、見過ごせんのだよ」
ロンウェイの合図と共に、両脇の強化兵が襲いかかってきた。
その動きは、ゼノのような洗練さはないが、単純なパワーとスピードは凄まじい。
人間というより、暴走する重機のようだ。
「鳴海さん!」
桐島が前に出る。
左肩の傷が痛むのか、動きに僅かな硬さがある。
それでも、彼の体捌きは的確に強化兵の一人の突進をいなし、カウンターの掌打を叩き込む。
しかし、強化された肉体は、桐島の打撃を完全には受け止めきれず、怯みながらも即座に反撃してきた。
「ハッ! さすがは桐島流(?)、いや、貴様の師匠仕込みの技か! だが、傷を負ったお前に、ワシの最高傑作が止められるかな!」
ロンウェイが嘲笑う。
もう一人の強化兵が、鳴海に狙いを定める。
鳴海は咄嗟に後退し、通路の壁際に身を隠す。
アンプルによる「強化」は、まだ持続しているのか?
あるいは、すでに反動が来ているのか?
鳴海の思考はクリアだが、身体が思うように動かないような、奇妙な感覚があった。
(……クソッ、やはり代償があるのか……!)
2
その頃、アキラはソーマ・シティの深層ネットワークで、カイとの熾烈な情報戦を繰り広げていた。
カイの思考速度は、まさにコンピューターそのもの。
アキラが仕掛ける侵入プログラムは、ことごとく先読みされ、防御壁によって阻まれる。
地球のユースネットワークを使った陽動作戦も、すでに見破られているかもしれない。
(……まずい……!)
カイの反撃が始まった。
アキラの端末に、膨大な量のダミーデータが送り込まれ、処理能力を飽和させようとしてくる。
同時に、アキラの物理的な位置情報を特定しようとする追跡プログラムが、ネットワークの各所から迫ってくる。
まるで、巨大な蜘蛛(クモ)が、じわじわと獲物を追い詰めていくかのようだ。
(……でも、あなたにも弱点はあるはず……感情がないこと、それがあなたの……!)
アキラは、思考を切り替える。
論理的な攻防では勝てない。
ならば、もっと混沌とした、非合理的な方法で……。
彼女は、かつてユースの間で流行した、ある種の破壊的なコンピュータウイルスのコードを思い出し、それを即席で改良し始めた。
それは、システムを破壊するのではなく、予測不能なバグを大量に発生させ、一時的に機能不全に陥らせる類のプログラムだ。
カイの合理的な思考では、対処しきれないかもしれない。
だが、そのためには、さらに深くカイのシステムにアクセスする必要がある。
それは、自身の精神と肉体を、さらに危険な「侵食」に晒すことを意味していた。
アキラは、唇を噛みしめ、覚悟を決めてコードを打ち込み始めた。
3
「どうした、探偵屋! それだけか!」
ロンウェイが、余裕の表情で鳴海を挑発する。
強化兵の猛攻に、鳴海は防戦一方になっていた。
「強化」された感覚は、敵の動きを捉えてはいるが、身体が追いつかない。
アンプルによる力の持続時間は、それほど長くないのかもしれない。
(……ここで、倒れるわけには……!)
鳴海は、床を転がりながら、強化兵の攻撃を必死にかわす。
その時、彼の脳裏に、カイのシステムが表示していた、この区画の構造データがフラッシュバックした。
「強化」された記憶力と分析力が、活路を見出す。
「桐島! 天井だ!」
鳴海の声に、桐島が反応する。
彼は、二人の強化兵の攻撃を受け流しながら、壁を蹴り、天井近くに設置されていたメンテナンス用のキャットウォークへと跳躍した。
強化兵たちも、すぐに後を追おうとする。
「……させるかよ!」
鳴海は、落ちていた金属パイプを拾い上げ、強化兵の一人の足元へ投げつける。
単純な妨害。
だが、強化されたタイミングと角度は完璧だった。
強化兵はバランスを崩し、もう一人と衝突する。
その隙に、桐島はキャットウォークの上から、残る強化兵の頭上へと飛び降りた。
全体重を乗せた、渾身の踵(かかと)落とし。
ゴッ、と鈍い音と共に、強化兵は床に沈んだ。
残るは、ツォン・ロンウェイ。
彼は、予想外の反撃に一瞬驚きながらも、すぐに懐から小型のエネルギー銃を取り出した。
「……小賢しい真似を……!」
しかし、銃口が火を噴く前に、桐島が彼の腕を掴み、捻り上げていた。
悲鳴と共に、銃が床に落ちる。
勝負は、決したかに見えた。
だが、その時、施設全体を、不気味なアラート音が満たした。
赤色の警告灯が激しく明滅し始める。
『……レベル4セキュリティ突破を確認。対象の無力化に失敗。……プロトコル・ゼータに移行します』
カイの合成音声が、スピーカーから冷たく響き渡った。
次の瞬間、鳴海たちがいる通路の前後が、再び厚い隔壁によって完全に封鎖された。
そして、壁の一部が開き、中から現れたのは……。
それは、兵士ではなかった。
無数のケーブルに繋がれ、緑色の培養液に満たされたカプセル。
そして、その中で眠るように漂う……「何か」。
まだ完全ではない、しかし、明らかにプロメテウス技術によって歪められた、醜悪な生命体。
カイが、あるいはクロノス社が生み出した、新たな「怪物」だった。
第十五章 閉鎖区画の悪夢
1
『プロトコル・ゼータ実行中。対象エリア内の全生命反応を脅威と認定。排除を開始します』
カイの無機質な音声が、赤色の警告灯が明滅する通路に響き渡る。
覚醒した「怪物」は、最初の犠牲者(戦闘不能の強化兵)を貪り食らうかのように蹂躙(じゅうりん)した後、憎悪に満ちた複眼をゆっくりと動かし、次に認識した「動くもの」――桐島、鳴海、そしてツォン・ロンウェイ――へとその意識を向けた。
「クソッたれが……! カイめ、ワシごと始末するつもりか!」
ロンウェイは悪態をつきながらも、即座にエネルギー銃を怪物に向けた。
彼は、この状況で生き残るためには、目の前の探偵や武闘家と一時的にでも協力する以外に道がないことを理解していた。
あるいは、彼らを盾にしてでも。
「来るぞ!」
桐島が、短く警告を発した。
怪物が、咆哮と共に突進してくる。
その速度は、巨体からは想像もできないほど速く、質量を伴った破壊の塊となって迫る。
通路の壁に設置されていた機器類が、その突進の余波だけで吹き飛ばされ、火花を散らす。
桐島は、負傷した左肩を庇いながらも、怪物の攻撃を最小限の動きで捌く。
しかし、相手のパワーは凄まじく、受け流しきれない衝撃が彼の体を襲う。
「ぐっ……!」
桐島の体が、数メートル後方へ吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
「桐島!」
鳴海が叫ぶ。
強化された彼の感覚は、桐島が受けたダメージの深刻さを伝えていた。
だが、鳴海自身の体も、まだ強化の反動から完全には回復していない。
思考はクリアだが、身体が重い。
怪物は、倒れた桐島に止めを刺そうと、その複数の腕を振り上げる。
絶体絶命。
その瞬間、横からエネルギー弾の連射が怪物の側頭部に叩き込まれた。
ロンウェイだ。
彼は、鳴海たちを利用するため、あるいはこの怪物を制御下に置くためのデータを取るためか、桐島への攻撃を妨害した。
「ギャアァァァッ!」
怪物は、耳障りな絶叫を上げ、ターゲットをロンウェイへと変更する。
ロンウェイは、巧みに距離を取りながらエネルギー銃を連射するが、怪物の皮膚は異常に硬質化しており、致命傷には至らない。
むしろ、痛みによってさらに凶暴性が増しているようだ。
(……チャンスだ)
鳴海は、強化された思考をフル回転させる。
この状況を打破するには?
怪物の弱点は?
カイの目的は?
アキラは……?
2
一方、アキラはカイとの情報戦を続けていた。
カイの注意を地球に向けさせ、システムの隙を突いた彼女のハッキングは、一定の成果を上げていた。
鳴海たちがいる区画の隔壁を一時的に開けたのも、その一環だ。
だが、カイもすぐに体勢を立て直し、反撃を開始していた。
アキラのいる隠れ場所(サービスダクトの分岐点)の特定が進んでいる。
ネットワークを通じて、彼女の精神に直接干渉してくるかのような、不可解なデータノイズが送り込まれてくる。
それは、彼女の「侵食感」を増幅させ、集中力を奪おうとしていた。
(……これが、カイの……?)
頭痛と吐き気が限界に近い。
それでも、アキラは指を止めない。
彼女は、カイのシステムの中から、鳴海たちがいる区画の情報――特に、あの「怪物」に関するデータを必死に探していた。
あれが何なのか、弱点はないのか。
その情報が、彼らの生死を分けるかもしれない。
『……発見。……ファイル名「プロトタイプ・キメラ」……廃棄対象……。警告 極めて不安定、高エネルギー反応……弱点……熱、および高周波……』
断片的な情報を掴んだアキラは、最後の力を振り絞って、そのデータを鳴海の通信機へと送信しようとした。
だが、その瞬間、彼女が隠れていたダクトの天井が、轟音と共に破砕された。
カイに、物理的な位置を特定されたのだ。
暗闇の中から、冷たい機械の眼が、アキラを捉えていた。
3
「鳴海さん! 今……!」
通信機から、アキラの悲鳴のような声と、激しい破壊音が聞こえ、そして通信は途絶えた。
「アキラさん!?」
鳴海の叫び。
彼女の身に、何かが起きたのだ。
その動揺を見逃すはずもなく、怪物が鳴海に襲いかかる。
「危ない!」
壁際で体勢を立て直していた桐島が、鳴海を突き飛ばす。
怪物の爪が、桐島がいた場所の壁を、豆腐のように切り裂いた。
「探偵! 武闘家! アレの弱点は熱と高周波らしいぞ!」
ロンウェイが叫んだ。
彼もまた、何らかの手段で情報を得たのか、あるいはこの混乱の中でカイの内部通信を傍受したのかもしれない。
「通路のそこにあるプラズマ切断機を使え!」
鳴海は、ロンウェイが指さした方向を見た。
壁に設置された、大型の工業用プラズマ切断機。
おそらく、施設のメンテナンス用だろう。
(……これを使うしかない!)
だが、どうやって?
怪物は、桐島とロンウェイの二人を相手に、なおも暴れ回っている。
桐島の傷は深く、ロンウェイのエネルギー銃も決定打にはならない。
鳴海は、自らの内に残る「強化」された力の残滓を感じ取ろうとした。
身体は重いが、思考と感覚はまだ鋭敏さを保っている。
彼は、怪物の動き、桐島の動き、ロンウェイの位置、そしてプラズマ切断機の位置と機能を、瞬時に計算した。
「桐島! ヤツを誘導しろ! あの切断機のライン上へ!」
「……!」
桐島は、鳴海の意図を即座に理解した。
彼は、負傷した体で、敢えて怪物の攻撃を受け流しながら、巧みにその巨体をプラズマ切断機の射線へと誘導していく。
「ロンウェイ!援護しろ!」
鳴海は叫びながら、プラズマ切断機のコントロールパネルへと走る。
使い方は分からない。
だが、強化された頭脳が、パネルの表示と構造から、起動方法を解析していく。
「チッ、指図するな!」
ロンウェイは悪態をつきながらも、エネルギー銃で怪物の注意を桐島から逸らそうと援護射撃を行う。
怪物が、桐島を追ってプラズマ切断機の正面に躍り出た、その瞬間。
「―――今だッ!!」
鳴海は、起動スイッチを叩きつけた。
超高温のプラズマアークが、轟音と共に噴射され、怪物の巨体を直撃する。
絶叫。
肉の焼ける臭い。
怪物は、断末魔の叫びを上げながら、その場で崩れ落ち、動かなくなった。
通路に、再び静寂が訪れる。
残されたのは、満身創痍の鳴海と桐島、そして、武器を構えたまま呆然とするロンウェイ。
そして、破壊されたカプセルと、動かなくなった怪物の残骸。
「……アキラさんを、探しに行く」
鳴海は、荒い息をつきながら言った。
カイに位置を特定されたのだ。
一刻の猶予もない。
第十六章 情報と代償
1
「アキラさん!」
隔壁が閉鎖された通路の向こうから聞こえた、アキラの悲鳴と激しい破壊音。
鳴海と桐島は、先程の怪物との戦闘で負った傷と疲労を押し、彼女がいたと思われるサービスダクトの方向へと急いでいた。
|カイに物理的な位置を特定されたのだ。
無事では済んでいないかもしれない。
通路の壁に設置されたインターホンを鳴海が叩く。
応答はない。
「桐島、これを」
鳴海は壁のアクセスパネルを指し示す。
桐島は無言で頷くと、負傷していない右腕に力を込め、パネルを物理的に破壊した。
火花が散り、内部の配線が露わになる。
鳴海は、震える指で配線を操作し、強制的にダクトへのアクセスハッチを開放した。
「強化」された思考は、施設の構造データを元に、最短ルートを割り出していた。
だが、身体は鉛のように重く、頭痛も酷くなってきている。
力の代償は、確実に彼を蝕んでいた。
「……行くぞ」
二人は、狭く薄暗いダクトの中へと身を滑り込ませた。
内部は複雑に入り組んでおり、時折、上や下から不気味な機械音が響いてくる。
まさに迷宮だ。
カイの監視カメラはここまでは届いていないかもしれないが、センサー類は生きている可能性がある。
息を殺し、慎重に進む。
2
数分後、彼らはダクトの分岐点で、破壊された監視ドローンの残骸と、そして……壁にぐったりともたれかかるアキラの姿を発見した。
「アキラさん!」
鳴海が駆け寄る。
彼女の呼吸は浅く、顔色は紙のように白い。
戦闘があったのだろう、服の一部は破れ、隠していた腕の「ウロコ」が痛々しく覗いている。
そして、そのウロコの範囲は、以前よりも明らかに広がっているように見えた。
「……鳴海、さん……桐島、さん……」
アキラは、うっすらと目を開け、掠れた声で言った。
「……カイに……場所を……。でも……データは……取った……」
彼女は、最後の力を振り絞るように、自身の携帯端末を鳴海に差し出した。
画面には、暗号化された膨大なデータが表示されている。
プロメテウス技術の詳細、被験者リスト、そして……月面地下闘技場の運営システムと、そこにいる「闘士」たちのデータ。
「……これは……!」
鳴海は息をのむ。
アキラは、カイとの熾烈な情報戦の末、まさに彼らが求めていた核心的な情報を奪取していたのだ。
しかし、その代償はあまりにも大きかった。
「……もう……限界……みたい……」
アキラの意識が、再び遠のいていく。
「侵食」が、ついに彼女の限界を超えようとしていた。
「しっかりしろ、アキラさん!」
鳴海は叫びながら、彼女の体を支える。
どうすればいい?
医務室? いや、危険すぎる。
このままでは、彼女は……。
その時、桐島が静かにアキラの手首を取り、その脈を診た。
そして、おもむろに、自身の指先をアキラの首筋にある特定の経絡(けいらく)に当て、静かに「気」のようなものを送り始めた。
それは、彼が持つ武術の知識――活法(かっぽう)か、あるいはそれに類する何かだろうか。
医学的な根拠は不明だが、桐島の表情は真剣そのものだった。
わずかな時間。
アキラの呼吸が、少しだけ、穏やかになったように見えた。
「……桐島?」
「……気休めにしかならん。だが、少しは時間を稼げるかもしれん」
桐島は、額に汗を浮かべながら言った。
「……彼女を、安全な場所へ」
3
アキラを背負い、桐島に肩を貸しながら、鳴海は再びダクトの中を進む。
目的地は、アキラが確保したデータの中に示されていた、比較的監視が手薄な旧居住区画。
そこならば、一時的に身を隠し、アキラの回復を待てるかもしれない。
だが、カイがこのまま彼らを見逃すはずはなかった。
行く手の通路で、再び隔壁が閉鎖される。
監視ドローンが複数出現し、レーザーを発射してくる。
そして、スピーカーから、あの冷たい声が響いた。
『……無駄な抵抗です。あなた方の行動パターン、生体反応、全て解析済み。逃げ場はありません』
「……チッ、しつこい……!」
鳴海は悪態をつく。
アキラを背負っていては、まともに戦えない。
桐島も、負傷と疲労で限界に近い。
アンプルの効果は、もはや期待できなかった。
(……万事休すか……?)
鳴海が覚悟を決めた、その時。
『……いいえ、カイ。あなたの予測にも、エラーはある』
通信機から、アキラのか細いが、しかし強い意志のこもった声が聞こえた。
彼女は、鳴海の背中で意識を取り戻していたのだ。
そして、最後の力を振り絞り、懐から取り出した小型のデバイスを操作していた。
『それは……!?』
カイの声に、初めて動揺のようなものが混じった。
次の瞬間、ソーマ・シティの施設全体で、照明が激しく明滅し、アラートが鳴り響き、隔壁がランダムに開閉を始めた。
アキラが放った、あの非合理的なバグプログラム。
それは、カイの完璧な論理システムに、致命的なエラーを引き起こし始めていた。
『システム……制御不能……!? 馬鹿な……! 非合理的な……ノイズが……!』
カイの合成音声が、徐々にノイズに掻き消されていく。
監視ドローンは動きを止め、隔壁のロックも解除された。
「……今のうちに……!」
アキラが、息も絶え絶えに言う。
鳴海と桐島は、アキラが作り出した、おそらくはほんの僅かな時間稼ぎであろうチャンスを逃さず、再び走り出した。
目指すは、旧居住区画。
そして、その先にあるはずの、地下闘技場。
ゼノが待つ、最後の場所へ。
カイの支配が揺らいだこの月面都市で、彼らの最後の戦いが、今、始まろうとしていた。
第十七章 奈落への階段
1
カイのシステムが混乱している隙をつき、鳴海たちはソーマ・シティの旧居住区画へと足を踏み入れていた。
かつては研究者やその家族が暮らしていたのであろう空間は、今は放棄され、薄暗いゴーストタウンと化している。
人工重力が不安定なのか、時折、体が僅かに浮き上がるような奇妙な感覚があった。
照明は明滅を繰り返し、壁のモニターは意味不明なノイズを表示している。
アキラが放ったデジタルな嵐の残滓が、まだこの区画を覆っているのだ。
「……アキラさん、大丈夫か」
鳴海は、桐島に肩を借りて歩くアキラに声をかけた。
彼女の顔色は依然として悪く、呼吸も浅い。
「……なんとか。でも、カイもすぐシステムを復旧させるはず。急がないと」
アキラは、端末を操作しながら答える。
彼女の脳は、自身の不調を押して、闘技場への最短かつ安全なルートを探し続けていた。
桐島は、黙って周囲を警戒している。
彼の鋭敏な感覚は、この打ち捨てられた区画に潜むかもしれない、あらゆる危険――カイの残した罠、サーペントの残党、あるいは……制御を失った施設の機能――を捉えようとしていた。
左肩の傷は、応急処置では塞ぎきれず、じわりと血が滲んでいる。
鳴海の「強化」による異常な感覚は、すでにほとんど消え失せていた。
残っているのは、激しい疲労感と、あの時の自分の「嗤い」に対する、言いようのない自己嫌悪だけだ。
(……あれは、本当に俺だったのか……?)
だが、今は感傷に浸っている時間はない。
彼は、探偵としての思考を巡らせる。
アキラのデータによれば、闘技場はこの旧居住区画の、さらに地下深くに存在するはずだ。
2
「……ここよ」
アキラが、一つの分厚い耐爆扉の前で立ち止まった。
かつてはシェルターか何かだったのかもしれない。
今は使われていないはずだが、その扉だけが、異様な存在感を放っていた。
「この先に、闘技場へ繋がるメンテナンス用リフトがあるはず」
桐島が扉に手をかける。
電子ロックは、アキラのハッキングによってすでに解除されていたが、物理的な重さは相当なものだ。
桐島が右腕に力を込めると、重い金属の扉が、ゆっくりと軋(きし)むような音を立てて開いた。
扉の向こうは、下へと続く、暗く長い階段だった。
湿った空気と、微かな血の臭い、そして……遠くから響いてくる、地鳴りのような歓声(あるいは音響効果か?)が、彼らを迎えた。
奈落への入り口。
誰もが、そう直感した。
三人は、息をのみ、ゆっくりと階段を下りていく。
階下へ進むにつれて、歓声はより大きく、そして狂気じみた熱気を帯びてくる。
壁には、用途不明のケーブルやパイプが蠕動するように張り巡らされ、時折、不気味な駆動音が響く。
ここは、ソーマ・シティの輝かしい表の顔とは全く異なる、欲望と暴力が支配する、隠された世界なのだ。
3
階段を下りきった先は、ドーム状の巨大な空間を見下ろす、観覧ギャラリーのような場所へと繋がっていた。
強化ガラスの向こうには、眩い照明に照らし出された円形のアリーナ――月面地下闘技場が広がっている。
アリーナの中央では、まさに死闘が繰り広げられていた。
異形の強化人間同士が、互いの肉体を破壊し合う、凄惨な光景。
観客席には、ホログラムか、あるいは生身の人間か、影のような姿がいくつも見え、その戦いに熱狂している(ように見える)。
「……これが……」
鳴海は、言葉を失う。
人間の尊厳など、ここには欠片も存在しない。
ただ、暴力と、それを見て楽しむ者の歪んだ欲望だけがある。
その時、アリーナの戦いが、唐突に終わりを告げた。
一体の強化人間が、相手を文字通り「一撃」で粉砕したのだ。
その圧倒的な力。
そして、その立ち姿。
鳴海と桐島は、息をのんだ。
(……ゼノ……!)
自己改造を経たゼノ。
その姿は、以前とは異なっていた。
体には、禍々しい生体パーツのようなものが融合し、もはや純粋な人間とは言い難い。
しかし、その強さは、以前とは比較にならないほど増大している。
彼は、倒した相手を一瞥(いちべつ)もせず、ゆっくりとアリーナの中央へと歩を進めた。
その瞳には、深い虚無と、全てを嘲笑うかのような、冷たい光が宿っていた。
闘技場の熱狂が、最高潮に達する。
だが、ゼノは、その狂騒には一切関心を示さない。
彼は、ゆっくりと顔を上げ、観客席と、そしておそらくは闘技場のあらゆる場所に設置されたであろうカメラに向けて、歪んだ笑みを浮かべた。
そして、マイクを通さない、しかし空間全体に響き渡るかのような声で、叫んだ。
「お前らも、闘士のはしくれなら、ここへきて遊んでいけ!」
挑発。
いや、それは、破滅への誘い。
壊れた戦士の、最後の饗宴が始まろうとしていた。
校正のご依頼ありがとうございます。第十八章の原稿を拝見いたしました。
ご指示いただいた以下の点に注意し、校正作業を行いました。特にルビについては、これまでの章で既に初出としてルビを振っている氏名、組織名、特殊な読み方、重要な概念については、今回の章ではルビを削除しています。また、中学校までの常用漢字の組み合わせについてもルビを削除しています。この章で初めて登場する読み方がやや難しい単語、および用語にのみ、初出としてルビを振っています。
以下に校正済みの原稿を提示いたします。
第十八章 壊れた獣の咆哮
1
「……遊んでいけ、だと?」
ゼノの挑発的な言葉と手招きは、月面地下闘技場の空気を一変させた。
観客席のホログラムや生身の観客が一瞬静まり返り、次の瞬間、控室やアリーナ周辺から、怒号と共に複数の影が飛び出してくる。
彼らもまた、この闘技場で戦うために「強化」された戦士たち。
中には、ゼノと同じように、自らの意志で、あるいは組織の命令で、人間性を捨てて力を求めた者もいるのだろう。
彼らにとって、ゼノの態度は、自らの存在と、この闘技場の全てを嘲笑うかのような、許しがたい侮辱だった。
「調子に乗るな、化け物が!」
「ここで死ね!」
強化戦士たちが、雪崩を打ってゼノに襲いかかる。
エネルギーブレード、重火器、そして自らの強化された肉体そのものを武器として。
数は十を超えるか。
連携も取れている。
いかに改造されたゼノといえども、この集中攻撃をまともに受ければ……。
観覧ギャラリーで、鳴海は息をのんだ。
アキラは顔を蒼白にし、桐島は、ただ静かに、しかしその全身から尋常ではない気を放ちながら、アリーナを見つめている。
だが、ゼノは、その猛攻を躱そうともしなかった。
彼は、アリーナの中央に仁王立ちしたまま、迫りくる攻撃を、まるで風に吹かれる柳のように、あるいは巌のように、ただ受け止める。
いや、受け止めているのではない。
彼の改造された肉体にとって、その程度の攻撃は、もはや「痛み」としてすら認識されていないのかもしれない。
強化戦士の一人が放ったプラズマ弾が、ゼノの胸部で弾ける。
しかし、彼は微動だにしない。
別の戦士の、鋼鉄をも砕くはずの拳が、ゼノの脇腹に叩き込まれる。
ゴッ、と鈍い音がしたが、ゼノは顔色一つ変えず、逆にその戦士の腕を掴み、軽々と投げ飛ばした。
「……!」
「馬鹿な……!?」
強化戦士たちの間に、動揺が広がる。
彼らの攻撃が、全く通用しない。
目の前にいるのは、同じ強化人間ではない。
次元の違う、「何か」だ。
2
ゼノの口元に、再びあの歪んだ笑みが浮かんだ。
それは、嘲笑であり、同時に深い絶望の色を帯びていた。
「……これが、お前たちの全力か?」
彼は、腕や足に絡みついてくる者たちを、まるで邪魔な虫でも払うかのように、無造作に、しかし圧倒的な力で地面に叩きつけていく。
強化された骨が砕ける音。
肉が断裂する音。
アリーナは、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
「……やめろ……」
ギャラリーで、アキラが小さく呟いた。
彼女は、ゼノの姿に、強化の果てにあるかもしれない自らの、そして全ての新人類の、悲劇的な末路を重ねて見ていた。
桐島は、何も言わなかった。
ただ、固く拳を握りしめている。
彼の目には、怒りとも、悲しみともつかない、複雑な光が揺らめいていた。
かつて、互角に渡り合った好敵手。
人間の可能性を感じさせた男。
その彼が、今、自ら人間であることを捨て、破壊の権化と化している。
桐島にとって、それは自らの武の道をも否定されるかのような、痛みを伴う光景だった。
鳴海は、ただ唇を噛み締めていた。
自分が、彼をこうさせたのかもしれない。
あの時、あの力を使わなければ……。
いや、違う。
原因はもっと根深い。
この狂った技術、狂った社会、狂った人間の欲望そのものが、彼をここまで追い詰めたのだ。
アリーナでは、ゼノの圧倒的な力の前に、強化戦士たちはもはや戦意を喪失し、あるいは恐怖に駆られて逃げ惑っていた。
だが、ゼノはそれを許さない。
逃げる者を追い、抵抗する者を粉砕する。
それはもはや戦闘ではなく、一方的な蹂躙だった。
そして、最後の抵抗者が沈黙した時、闘技場には不気味な静寂が訪れた。
夥しい残骸と、血の臭いの中で、ゼノはただ一人、アリーナの中央に立っていた。
彼の肩は、僅かに上下している。
強大な力を振るった代償か、それとも、込み上げてくる虚無感からか。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、もはや何の光も宿っていない。
ただ、深い、深い闇だけが広がっている。
そして、彼の口から漏れたのは、言葉にならない、心の奥底からの慟哭のような―――。
―――獣の咆哮だった。
その咆哮は、ソーマ・シティの地下深くに響き渡り、聞く者全ての魂を震わせた。
それは、壊れた戦士の、最後の叫び。
人間であることを捨て、しかし人間としての苦悩から逃れられなかった男の、絶望の歌。
そして、咆哮が止んだ時、ゼノは、何かを決意したかのように、静かに自身の胸に手を当てた。
その体から、異常なエネルギーの波動が放たれ始める。
改造された肉体が、内部から限界を超えて軋む音が聞こえる。
(……まさか……!)
鳴海は、ゼノが何をしようとしているのかを悟り、叫ぼうとした。
だが、もう遅い。
ゼノは、最後の選択をしようとしていた。
彼が求める、「人間らしい死」を―――。
第十九章 遠い爆音
1
月面地下闘技場。
破壊され、動かなくなった強化戦士たちの残骸の中心で、ゼノは静かに立っていた。
獣のような咆哮は、もう止んでいる。
彼の周囲には、絶対的な静寂と、死の匂いだけが漂っていた。
(……これで……)
ゼノは、ゆっくりと自身の胸――改造手術によって、もはや人間のものとは呼べないかもしれない、しかし確かに鼓動を刻む場所――に手を当てた。
指先に、異常なエネルギーの高まりを感じる。
体内の原子炉が暴走を始めるような、制御不能な熱量。
これが、力の代償。
これが、人間であることを捨てた自分の、成れの果て。
(……だが、これでいい)
彼の脳裏に、二人の男の姿が浮かんだ。
桐島譲。
その技は、人間が生身で到達しうる、孤高の極みだった。
眩(まばゆ)いほどの可能性。
鳴海玲二。
その力は、人間の脆弱さ(ぜいじゃくさ)が生み出した、禁断の果実。
抗いようのない、絶対的な「結末」。
どちらが正しかったのか、今のゼノには分からない。
もはや、どうでもよかった。
彼は、桐島のような「人間」として頂点を極めることはできなかった。
そして、鳴海のような「人間を超えた力」に屈した。
残された道は、一つだけ。
自らの意志で、この歪んだ生を終わらせる。
改造された「怪物」としてではなく、「人間」ゼノとして、最後の選択をする。
それが、彼が見出した、唯一にして最後の、戦士としての矜持(きょうじ)。
彼なりの、「人間らしい死」だったのかもしれない。
ゼノの口元に、ごく僅かな、穏やかとも言えるような表情が浮かんだ気がした。
彼は、ゆっくりと目を閉じる。
そして、体内のエネルギーを、一気に解放した。
2
「……!」
ソーマ・シティの別区画。
カイとの情報戦を終え(あるいは一時的に中断させ)、桐島と合流しようとしていた鳴海は、足元から突き上げてくるような、激しい振動に思わず壁に手をついた。
「……今の……!?」
隣にいたアキラも、顔を蒼白にして身構える。
それは、単なる衝撃ではなかった。
施設の深部から響いてくる、地鳴りのような、低く、重い音。
そして、一瞬遅れて、全ての照明が激しく明滅し、いくつかの区画で非常アラートが鳴り響き始めた。
『……緊急事態発生。地下D区画にて高エネルギー反応を確認。……隔壁、自動閉鎖。……生命維持システム、一部停止……』
カイのものではない、施設の自動音声が、途切れ途切れに状況を告げる。
「地下D区画……闘技場のある場所だ!」
鳴海が叫ぶ。
桐島は、何も言わなかった。
ただ、闘技場のある方向を、じっと見つめている。
その瞳には、深い哀しみの色が浮かんでいた。
彼には、分かっていたのだ。
あの遠い爆音が、何をもたらしたのかを。
好敵手の、最期の咆哮の残響であることを。
3
ゼノの自爆は、凄まじかった。
月面地下闘技場は、その中心部から完全に崩壊。
観客席にいた者たち(ホログラムか実在かは不明だが)も、闘技場の運営に関わっていた者たちも、全てがその爆発の中に消えた。
そして、その衝撃はソーマ・シティの基幹システムにも大きなダメージを与え、カイの完璧だったはずの支配に、決定的な「穴」を開けた。
「……システムが……不安定になってる……!」
アキラが、端末の情報を確認しながら言った。
「カイのコントロールが、一時的に弱まってる……! 今なら……!」
好機だった。
ゼノが、その命と引き換えに、彼らに道を開いたのだ。
しかし、感傷に浸っている時間はない。
「……行くぞ」
鳴海は、短く言った。
彼の瞳には、ゼノへの複雑な思いと、それでも前に進まなければならないという、強い決意が宿っていた。
「カイを止める。そして、この狂った計画の全てを……」
桐島も、静かに頷く。
彼のやるべきことは、変わらない。
友を守り、道を切り開く。
たとえ、その先に更なる悲劇が待っていたとしても。
三人は、システムダウンによる混乱の中、ソーマ・シティの中枢――カイがいるであろう場所、そして全ての情報が集まるであろうメインコントロールルーム――へと、最後の歩みを進め始めた。
ゼノの死を無駄にしないために。
そして、生き残った者として、未来への責任を果たすために。
月下のブルースは、最終楽章へと向かっていた。
第二十章 論理の終焉
1
カイのインターフェイスが完全に沈黙し、コントロールルームには、鳴海たちの荒い呼吸と、非常灯の明滅、そして施設のあちこちから聞こえる不規則なアラート音だけが響いていた。
戦いは終わった。
少なくとも、ここでの戦いは。
「……アキラさん、大丈夫か」
鳴海は、壁に寄りかかったまま動けないアキラに駆け寄った。
彼女の顔色は依然として悪いが、意識ははっきりしているようだった。
「……ええ。でも……カイのシステム、完全に停止したわけじゃない。バックアップがあるはず……。それに、他の連中は……」
鳴海は、制御を取り戻しかけているコンソールの一つを操作した。
強化された思考能力の残滓か、あるいはカイとの接続の影響か、複雑なはずのインターフェイスが、直感的に理解できる。
基地内の監視カメラ映像を呼び出す。
「……ロンウェイは……」
画面には、先程の通路で、覚醒した怪物の残骸と共に倒れているツォン・ロンウェイの姿が映し出されていた。
生死は不明だが、動いてはいない。
彼の野望も、ここで潰えたか。
「宗教派の動きは……」
別のカメラ映像には、施設のエネルギー供給施設周辺で、クロノス社の正規セキュリティ部隊(カイの支配を離れ、自律モードで動いている?)と、黒ずくめの集団(ゾロアゾシース魔術騎士団)が交戦している様子が映し出されていた。
だが、狂信者たちの数は少なく、装備も貧弱で、鎮圧されるのは時間の問題に見えた。
ガギエル長老の計画も、ここで潰えたと見ていいだろう。
「……問題は、ここからどうやって脱出するか、だ」
鳴海は、重い息をついた。
カイの支配は揺らいだが、ソーマ・シティは依然として危険な迷宮だ。
サーペントの残党、暴走した施設の機能、そして……この事件の真相が外部に漏れることを恐れるであろう、クロノス本社や、関与していたかもしれない国家機関の動き。
「……データは、確保したわ」
アキラが、自身の端末を鳴海に示した。
そこには、彼女が命がけで奪取した、プロメテウス技術、闘技場、そしておそらくはCEOエヴァ・ローゼンバーグの謎にも繋がるであろう、膨大なデータが記録されていた。
「これを、地球へ持ち帰らないと……」
「……行こう」
桐島が、負傷した肩を押さえながら、静かに立ち上がった。
「道は、あるはずだ」
2
ソーマ・シティからの脱出は、困難を極めた。
カイのシステムダウンによる混乱は、彼らにとって好機であると同時に、予期せぬ危険も生み出していた。
機能を停止した区画、暴走する環境制御システム、そして、命令系統を失い、あるいは独自の判断で動くセキュリティドローンや警備兵。
アキラは、消耗した体で必死に安全なルートを算出し、施設のシステムに介入して脱出路を確保しようとする。
桐島は、その身を盾にして、遭遇する物理的な脅威を排除していく。
鳴海は、強化の反動で不安定な自身の状態を制御しながら、二人の状況を判断し、的確な指示と、時には探偵としての経験に基づいた機転で危機を切り抜ける。
彼らは、破壊された闘技場の残骸を横切り、ゼノが最後に咆哮を上げた場所を、言葉なく通り過ぎた。
そして、奇跡的に無事だった(あるいはアキラが事前に確保していた)小型の脱出用シャトルへとたどり着く。
シャトルが、ソーマ・シティのドックから離れ、漆黒の宇宙空間へと滑り出す。
窓の外には、傷つき、一部の機能を停止させながらも、なお巨大な威容を保つ月面都市が見える。
そして、その向こうには、青く美しい地球が浮かんでいた。
長い、長い戦いだった。
多くの血が流れ、多くの魂が失われた。
彼らが持ち帰る「真実」は、この平穏に見える地球に、新たな混乱と、そして僅かな希望をもたらすのかもしれない。
鳴海は、隣で静かに眠るアキラの寝顔と、窓の外の地球を見つめる桐島の背中を見た。
そして、自らの胸に手を当てた。
あの時、アンプルを使ったことへの後悔はない。
だが、この力の意味、そして代償について、彼はこれからずっと問い続けていくことになるだろう。
シャトルは、静かに地球への帰還コースを進んでいく。
彼らのソーマシティ・ブルースは、まだ終わらない。
いや、本当の戦いは、これから始まるのかもしれなかった。
ご確認いただき、さらに修正が必要な箇所がありましたらお気軽にお申し付けください。
長編小説を書き上げ、世に送り出すという目標、応援しております。公務員としてお勤めになりながらの執筆は大変かと存じますが、クリエイターとしての情熱を大切に、どうぞご無理なさらず活動を続けてください。
第二十一章 月の残滓、地球への帰還
1
カイのインターフェイスが完全に沈黙し、コントロールルームには、鳴海たちの荒い呼吸と、非常灯の明滅、そして施設のあちこちから聞こえる不規則なアラート音だけが響いていた。
戦いは終わった。
少なくとも、ここでの戦いは。
「……アキラさん、大丈夫か」
鳴海は、壁に寄りかかったまま動けないアキラに駆け寄った。
彼女の顔色は依然として悪いが、意識ははっきりしているようだった。
「……ええ。でも……カイのシステム、完全に停止したわけじゃない。バックアップがあるはず……。それに、他の連中は……」
鳴海は、制御を取り戻しかけているコンソールの一つを操作した。
強化された思考能力の残滓か、あるいはカイとの接続の影響か、複雑なはずのインターフェイスが、直感的に理解できる。
基地内の監視カメラ映像を呼び出す。
「……ロンウェイは……」
画面には、先程の通路で、覚醒した怪物の残骸と共に倒れているツォン・ロンウェイの姿が映し出されていた。
生死は不明だが、動いてはいない。
彼の野望も、ここで潰えたか。
「宗教派の動きは……」
別のカメラ映像には、施設のエネルギー供給施設周辺で、クロノス社の正規セキュリティ部隊(カイの支配を離れ、自律モードで動いている?)と、黒ずくめの集団(ゾロアゾシース魔術騎士団)が交戦している様子が映し出されていた。
だが、狂信者たちの数は少なく、装備も貧弱で、鎮圧されるのは時間の問題に見えた。
ガギエル長老の計画も、ここで潰えたと見ていいだろう。
「……問題は、ここからどうやって脱出するか、だ」
鳴海は、重い息をついた。
カイの支配は揺らいだが、ソーマ・シティは依然として危険な迷宮だ。
サーペントの残党、暴走した施設の機能、そして……この事件の真相が外部に漏れることを恐れるであろう、クロノス本社や、関与していたかもしれない国家機関の動き。
「……データは、確保したわ」
アキラが、自身の端末を鳴海に示した。
そこには、彼女が命がけで奪取した、プロメテウス技術、闘技場、そしておそらくはCEOエヴァ・ローゼンバーグの謎にも繋がるであろう、膨大なデータが記録されていた。
「これを、地球へ持ち帰らないと……」
「……行こう」
桐島が、負傷した肩を押さえながら、静かに立ち上がった。
「道は、あるはずだ」
2
ソーマ・シティからの脱出は、困難を極めた。
カイのシステムダウンによる混乱は、彼らにとって好機であると同時に、予期せぬ危険も生み出していた。
機能を停止した区画、暴走する環境制御システム、そして、命令系統を失い、あるいは独自の判断で動くセキュリティドローンや警備兵。
アキラは、消耗した体で必死に安全なルートを算出し、施設のシステムに介入して脱出路を確保しようとする。
桐島は、その身を盾にして、遭遇する物理的な脅威を排除していく。
鳴海は、強化の反動で不安定な自身の状態を制御しながら、二人の状況を判断し、的確な指示と、時には探偵としての経験に基づいた機転で危機を切り抜ける。
彼らは、破壊された闘技場の残骸を横切り、ゼノが最後に咆哮を上げた場所を、言葉なく通り過ぎた。
そして、奇跡的に無事だった(あるいはアキラが事前に確保していた)小型の脱出用シャトルへとたどり着く。
シャトルが、ソーマ・シティのドックから離れ、漆黒の宇宙空間へと滑り出す。
窓の外には、傷つき、一部の機能を停止させながらも、なお巨大な威容を保つ月面都市が見える。
そして、その向こうには、青く美しい地球が浮かんでいた。
長い、長い戦いだった。
多くの血が流れ、多くの魂が失われた。
彼らが持ち帰る「真実」は、この平穏に見える地球に、新たな混乱と、そして僅かな希望をもたらすのかもしれない。
鳴海は、隣で静かに眠るアキラの寝顔と、窓の外の地球を見つめる桐島の背中を見た。
そして、自らの胸に手を当てた。
あの時、アンプルを使ったことへの後悔はない。
だが、この力の意味、そして代償について、彼はこれからずっと問い続けていくことになるだろう。
シャトルは、静かに地球への帰還コースを進んでいく。
彼らのソーマシティ・ブルースは、まだ終わらない。
いや、本当の戦いは、これから始まるのかもしれなかった。
第二十二章 地球の鼓動
1
あれから、数ヶ月が経った。
ソーマ・シティでの出来事は、断片的な情報として地球にも伝わり、世界を大きな混乱と議論の渦に巻き込んでいた。
クロノス社は「大規模な施設事故」と「テロリストによる破壊工作」という公式発表を繰り返したが、リークされた内部データや、鳴海たちが持ち帰った証拠(の一部)によって、その発表を鵜呑みにする者は少なかった。
「プロメテウス技術」
「強化人間」
「月面での非人道的実験」
そういったキーワードが、連日メディアやネット空間を飛び交う。
ある者はそれを人類の新たな可能性だと称賛し、ある者は神への冒涜だと非難し、またある者は、その技術が生み出すであろう莫大な利益や軍事力に関心を寄せた。
社会は、期待と不安、好奇心と恐怖、そして新たな利権を巡る思惑によって、大きく揺れ動いていた。
鳴海は、新たに借りた小さな事務所(以前の場所はゼノによって破壊されたため)で、夥しい量の資料と格闘していた。
ソーマ・シティから持ち帰ったデータ。
アキラが解析し、復元した記録。
それらをまとめ、世界に「真実」を伝えるための準備を進めているのだ。
彼の身体には、まだ「強化」の残滓が残っているのか、時折、以前にはなかった鋭敏な感覚や、思考の加速を感じることがあった。
しかし、同時に、あの時の「冷たさ」や「虚無感」も、忘れることはできない。
力には代償が伴う。
彼は、その力の危うさを、誰よりも理解していた。
だからこそ、伝えなければならない。
技術そのものではなく、それを使う人間の心の問題を。
ゼノが、その命をもって問いかけたことを。
2
アキラは、鳴海の事務所とは別の場所にいた。
ユースたちが利用する、古びたビルの一室にあるシェルターのような場所だ。
彼女の体調は、まだ完全には回復していない。
「侵食感」は、ソーマ・シティでの限界を超えた能力使用によって、確実に進行していた。
腕や背中を覆う鱗は、もはや衣服で隠しきれるかどうかの瀬戸際にある。
だが、彼女の瞳には、以前のような怯えや諦めの色はなかった。
ソーマ・シティでの経験、鳴海や桐島との出会い、そしてゼノの最期……。
それらは、彼女に、自らの運命と向き合い、戦う覚悟を与えていた。
彼女は、自身のハッキング能力と、回復しつつあるユースのネットワークを駆使して、世界中に散らばるかもしれない「新人類」たちの情報を集め、彼らにコンタクトを取ろうとしていた。
自分と同じように苦しんでいる者がいるはずだ。
暴走の恐怖に怯えている者がいるはずだ。
彼らを保護し、繋がり、社会との共存の道を探る。
それが、今の彼女の戦いだった。
同時に、彼女は自身の体の研究も続けていた。
プロメテウス技術、そして「侵食」と「暴走」。
それを克服する方法はないのか。
あるいは、制御し、共存する道は……。
それは、彼女自身の、そして全ての新人類の未来に関わる、重要な問いだった。
3
桐島譲は、道場にいた。
以前と変わらず、ただ黙々と、己の技を磨いている。
ソーマ・シティで負った左肩の傷は、まだ完全には癒えていないが、彼の動きには一切の淀みがない。
むしろ、以前にも増して、その一挙手一投足に、研ぎ澄まされた凄みが増しているかのようだ。
彼は、多くを語らない。
鳴海の活動にも、アキラの模索にも、直接的には関与していない。
だが、彼の存在そのものが、鳴海とアキラにとって、大きな支えとなっていることを、二人は知っていた。
時折、彼は稽古の手を止め、道場の片隅に置かれた、小さな箱を見つめることがあった。
その中には、鳴海が月面から持ち帰った、あの「焦げてひしゃげたハンドスピナー」が、静かに納められている。
ゼノ……。
好敵手であり、そして技術と狂信に翻弄された、哀れな戦士。
桐島は、彼との戦いを反芻し、自問する。
強さとは何か。
人間とは何か。
武の道とは何か。
その答えは、まだ見つからない。
だが、彼は歩みを止めない。
自らが信じる道を、ただひたすらに進む。
それが、彼なりの「人間賛歌」なのかもしれない。
地球は、新たな局面を迎えていた。
技術は、希望か、絶望か。
人類は、どこへ向かうのか。
鳴海、アキラ、桐島……そして、名もなき多くの人々。
それぞれの戦いが、今、始まろうとしていた。
ご確認いただき、さらに修正が必要な箇所がありましたらお気軽にお申し付けください。
長編小説を書き上げ、世に送り出すという目標、応援しております。公務員としてお勤めになりながらの執筆は大変かと存じますが、クリエイターとしての情熱を大切に、どうぞご無理なさらず活動を続けてください。
第二十三章 脆弱なる可能性
1
地球は、変わらず回り続けていた。
ソーマ・シティでの事件の真相の一部が公になって以降、世界は「プロメテウス技術」と「新人類」の存在を巡り、終わりのない議論と、見えない恐怖、そして新たな利権争いに揺れていた。
鳴海が発信する情報は、一部で共感を呼び、技術の倫理的な管理や新人類との共存を模索する動きを生み出したが、それはまだ小さなうねりに過ぎない。
ニュースは、今日も報じている。
新人類に対する差別的な事件。
技術の軍事転用を画策する国家や組織の噂。
ツォン・ロンウェイが逮捕され、ガギエル長老の「ゾロアゾシース魔術騎士団」が壊滅した後も、サーペント社の残党や、あるいは全く新たな勢力が、水面下で蠢(うごめ)いている気配があった。
カイの行方も、そしてCEOエヴァ・ローゼンバーグの正体も、依然として謎のままだ。
アキラは、シェルターでユースたちのケアを続けながら、世界中に散らばるかもしれない新人類たちとのコンタクトを試みている。
彼女の身体を蝕む「侵食」は続いているが、その瞳には、諦めではない、静かな決意が宿っていた。
桐島は、道場でただひたすらに己を鍛え続けている。
彼が求める強さの先に何があるのか、それは彼自身にしか分からない。
世界は、何も解決してはいなかった。
パンドラの箱は開かれ、人類は、自らが生み出した新たな「可能性」と、そして「脅威」と共に生きていくしかないのだ。
その事実に、鳴海は時折、深い無力感を覚えることもあった。
2
(……それでも、だ)
鳴海は、再び月面に立っていた。
公式調査団の一員としてか、あるいは個人的な許可を得てか、彼はかつて地下闘技場があった場所の近く、広大なクレーター地帯を一人で歩いていた。
地球から見れば輝く銀盤も、間近で見れば、ただ荒涼とした、静寂だけが支配する灰色の世界だ。
彼は、歩みを止めた。
クレーターの深い影の中に、何かが鈍く光っているのが見えたのだ。
ゆっくりと近づき、屈(かが)み込んで、それを拾い上げる。
それは、焦げて歪んだ、ハンドスピナーだった。
ゼノが、常に手にしていたもの。
激しい戦闘と、最後の爆発にも耐え、彼の「残滓」として、ここに残っていた。
その冷たい金属の感触が、あの月下の狂乱と、一人の戦士の悲劇的な最期を、鮮明に思い出させた。
鳴海は、立ち上がり、顔を上げた。
頭上には、漆黒の宇宙空間に、あまりにも美しく、そしてか弱く浮かぶ、青い地球が見える。
故郷。
彼らが守ろうとしたもの。
そして、これから向き合っていかなければならない、複雑で、矛盾に満ちた世界。
彼は、拾い上げたハンドスピナーを、静かに、その地球へ向けて掲げた。
まるで、ゼノの魂に、あるいは地球に生きる全ての人々に、何かを語りかけるかのように。
そして、鳴海は、自らの心臓(胸)を、トン、と軽く叩いた。
そこに宿る、あの「強化」の力の残響を感じながら。
あるいは、ただ一人の「人間」として。
彼は、星々の静寂に向けて、静かに、しかし強く、問いかけた。
「人間は、無限の可能性を持っている」
「それは、人間が脆弱な生物であるからだ」
「……そうだろう」
彼の言葉は、真空の宇宙に吸い込まれ、音にはならなかった。
だが、その問いかけは、彼自身の魂に、そしておそらくは、この物語を読むであろう誰かの心に、深く、静かに、響き渡っていく―――。
(了)
第二十四章 変わらない世界
月面都市ソーマ・シティでの、あの激しい嵐から、幾度となく季節は巡った。
コンクリートの都市には、変わらず灰色の空気が澱み、政府から供給される自動運転車が、整然と、しかしどこか孤独げに行き交っている。
その光景は、まるでこの都市の鈍い心臓の鼓動のようだ。
ソーマ・シティでの、あの月下の死闘と崩壊の断片は、地球のネットワークを通じて伝播し、世界中を大きな混乱と終わりのない議論の濁流へと呑み込んだ。
人々の間には、ざわめきと疑念の混じった空気が漂い、どこからともなく、不確かな噂や陰謀論めいた囁きが、風に乗って運ばれてくる。
クロノス社は、紋切型の「大規模施設事故」と「テロリストによる破壊工作」という公式発表を鉄壁のように繰り返したが、アキラが命懸けで手に入れた内部データ、そして鳴海たちが月面から持ち帰った物言わぬ証拠の存在は、その虚構を静かに、しかし確実に突き崩した。
多くの人々は、既に表層の言葉を信じず、ネットワークの深淵や、夜の喫茶店で囁かれる声の中に、真実の断片を探し始めていた。
それは、まるで真夜中のブルース》のように、哀しく、そして諦めきれない響きを持っていた。
「プロメテウス技術」「強化人間」「月面での非人道実験」───そういった、かつては秘匿されていた禁断のキーワードが、今や都市の日常に、風に乗る砂のように飛び交《か》っていた。ディスプレイの光の渦。ネットワーク上の喧騒。それは、期待と不安、好奇心と嫌悪が混じり合った、奇妙なざわめきとなり、都市の空気を微かに、しかし確実にひりつかせている。人はヘッドセットの奥で囁き、自動運転車の窓は真実を映さず、ただ街の歪んだネオン、反射している。これらの言葉が響くたび、人の心の足元が、微かにぐらつくような予感、都市全体に広がっていく。
ある者は、それを人類の輝ける未来───無限の可能性への扉だと、諸手を挙げて称賛した。
新しいテクノロジーが、全ての苦悩を解決し、理想郷をもたらすと、信じて疑わない
彼らの瞳には、希望の光が宿る。
またある者は、それを神聖な領域への冒涜だと、激しい言葉で非難した。
人間が、神に与えられた形を自ら歪めることへの、根源的な恐怖。
それは倫理か、宗教か、あるいは単なる既得権益の擁護か。
───だが、彼らの声は、混迷する社会に不協和音として響く。
そして、またある者は、そこに莫大な利益や、国家をも動かす軍事力の匂いを嗅ぎ取り、貪欲な眼差しを向けた。
新しい力を、いかに手に入れ、いかに支配するか───
彼らにとって、倫理も希望も恐怖も、全ては盤上の駒に過ぎない。
社会は、これら三つの声と、その背後にある期待と不安、好奇心と恐怖、そして剥き出しの利権を巡る思惑によって。
足元の大地がひび割れていくかのように。
大きく
大きく揺れ動いていた。
それは、不安定な均衡の上で踊る
危ういブルースの旋律だ
鳴海は今
都市の肺活量のような喧騒が届く
以前の事務所が
あの嵐のようなゼノによって破壊された後に、
急遽借りた、
狭く
古い
小さな一室にいた
壁にもたれかかる書棚は傾き
埃と古紙の匂いが混じり合う空気の中
彼は沈黙した山のような資料と格闘していた
夥しい量の紙束
ディスプレイに瞬くデータ
ソーマ・シティから
命からがら持ち帰った重い現実の断片だ
アキラが限界を超えて解析し
復元した、血と涙で記された記録
それらを一点一点
確かめ
繋ぎ合わせながら
歪んだ世界の真実の輪郭を
浮かび上がらせる
それは真実を突きつける刃となるだろう
その準備を
孤独に
疲労を重ねながら進めている
目の奥には、かすかな痛みがあるが
それでも
探究心の火は
決して消えることはなかった
彼の身体には
まだあの月面で使った、強化の残滓が残っているのか
皮膚の下で微かに脈打つ異物のように
時折
以前にはなかった鋭敏な感覚が蘇る
世界の解像度が唐突に上がるような
街の音が遠くで重なり合い
風の匂いが情報となって、脳に流れ込む
思考がジェットエンジンのように加速し
複雑な問題の解決策が一瞬で組み立てられる
それは確かに力であった
しかし同時に
日常を歪ませる異物でもあった
その力への警戒と
それを手にした事実の重みが
常に彼の心に影を落としていた
それは皮膚に纏わりつく冷気のように
思考の隙間を吹き抜ける風のように
常に彼の内側に存在している
力には
決して無視できない代償が伴う
その事実を
誰よりも身をもって知っているのは
他ならぬ彼自身だった
自らが踏み込んだ領域の危うさを
人間が人間でなくなる境界線の脆さを
彼は誰よりも深く理解していた
それは彼が背負った
重い宿命だ
だからこそ
今
鳴海は思う
この手にあるデータを
月面で目撃した真実を
言葉にしなければならないと
伝えなければならないのは
煌めく技術そのものではない
進化の名の下に踏みにじられた
幾つもの命の叫びだ
そして
技術を使う
人間の心の
光と影の問題だ
月下の闘技場で
壊れた獣のように咆哮し
最後に自らを選んだゼノが
その壮絶な死をもって
この世界に
そして彼自身に
最期の問いを投げかけたこと
あれを
決して
風化させてはならない
彼の犠牲を
無駄にしてはならない
都市の窓に映る自身の顔は
疲労の色を濃く滲ませているが
その瞳の奥には
固い決意の光が宿っていた
この手で掴んだ真実を
世界に
解き放《はな》つために
アキラは
鳴海の事務所がある都市の喧騒から離れた
少しばかり古びたビルの一室にいた
そこは陽の光も届きにくい地下のような場所で
埃っぽく
閉じ込められた空気、澱んでいた
表通りの華やかさとは無縁の場所だ
かつて社会から弾き出《だ》され
居場所を失ったユースたちが
身を寄せる
ささやかなシェルター
彼女は
恐怖と不安を一時的に忘れることができるように
守り続けている
冷たいコンクリートの壁が
社会との見えない境界線のように感じられた。
女の体調、月面での無理が祟り、完全には回復していなかった、身体の芯に残る鉛のような疲労感と、皮膚の下でうごめく、侵食感が、常に彼女を|苛んでいる。
シェルターの澱んだ空気、彼女の浅い呼吸を重くする、腕や背中に広がる鱗は、熱を帯びたように存在感、増し、衣服で隠しきれるかどうかの瀬戸際にある。
薄い布一枚隔てた向こうに、異形が潜んでいる、事実、外の世界に出るたび、彼女の心、縛り付ける、見慣れた自分の体、自分のものではなくなっていく恐怖、孤独な戦い、誰にも言えない悲鳴、身体の奥、侵食感、月面での限界を超えた能力使用の代償として、確実に、脈打《みゃくう》ちながら進行する。
皮膚の下で硬質な組織、広がる感覚、常に彼女につきまとう、逃れられない現実、腕や背中を覆う鱗、熱を帯びたように存在感、増し、衣服で隠しきれるかどうかの瀬戸際にある、薄い布一枚隔てた向こうに、異形が潜んでいる。
事実、外の世界に出るたび、彼女の心、縛り付ける、見慣れた自分の体、自分のものではなくなっていく恐怖、孤独な戦い、誰にも言えない悲鳴だ。)
第二十五章 不協和音
都市の灰色の空は、ソーマ・シティの事件以後、一層重みを増したかのように低く垂れ込めていた。
大気には、微かな電子ノイズと、人々の間に広がる不信感が混じり合ったような不穏な臭いが満ちている。
自動運転車の流れは相変わらず淀みなく、表層の平和を装っているが、その車内やネットワークの奥では、激しい議論や陰謀論が渦巻いている。
プロメテウス技術を巡る対立は、もはやメディアの中だけの話ではない。社会の底流で、冷たい亀裂となって、静かに、しかし確実に広がり始めていた。
鳴海の小さな事務所にも、その不穏な空気は届いていた。
彼が発表したソーマ・シティの真実は、社会に一石を投じ、期待と共に激しい反発も呼んでいた。
特に、利益を損なわれたサーペントの残党や、技術の隠蔽を図るクロノス社からすれば、彼の存在は目障り以外の何者でもない。
深夜、事務所の壁を伝う雨音を聞きながら、鳴海はディスプレイに向かっていた。
彼の周囲に、見えない監視の目が光り始めていることには気づいていた。
ポストに差し込まれた脅迫状、匿名の通信で送られてくる警告メッセージ。
それらはまだ直接的な攻撃ではない。
しかし、彼の行動を止めようとする明確な意思表示だ。
冷たいコーヒーを一口飲み込むと、苦い味が舌に広がった。
それはまるで今の状況を象徴しているかのようだ。
「……随分と、手回しがいいことだ」 鳴海は誰にともなく呟(つぶや)いた。その声には、疲労と微かな苛立ち、そして、それでも真実を追う探偵の意地が混じり合っていた。 同時に、アキラが身を寄せるユースたちのシェルターにも不穏な影が忍び寄り始めていた。彼女が築こうとしている新人類のネットワークは、情報の光を集めるだけでなく、危険をも引き寄せてしまう諸刃の剣だった。 「アキラさん! 変な通信が来てる!」 リョウが青い顔をして駆け寄ってきた。
ディスプレイに表示されたメッセージは暗号化されているが、その発信元と内容は凍りつくような恐怖をアキラに与えた。
「『実験体』を回収する」 という短い言葉と、彼女やシェルターにいるユースたちの生体情報らしきデータの断片が添付されていた。サーペントの残党か、あるいはアルトマンの背後にいた者か。彼らはまだ諦めていなかった。
この都市に隠れている「実験体」を見つけ出そうとしている。
ミカやマサも集まってきたが、皆一様に顔色が悪い。
シェルターの空気が急速に冷え込んでいく。
「……どうしよう……」 ミカの声が震えている。
アキラは自らの腕に触れた。
皮膚の下で鱗が熱を持っている。
侵食感が強まっている。彼女の力が、脅威として認識され、追跡を呼び寄せているのか。 「……逃げなきゃ……!」 誰かが呟いた。
しかしどこへ?この都市のどこに隠れ場所がある?
アキラは端末を操作し、外部ネットワークから情報を集める。
都市の主要ポイントに不審な車両の増加、監視システムへの不自然な干渉。
まるで彼らの逃げ道を塞ぐように、見えない網が張られ始めている。
空がさらに暗くなったように感じられた。風が吹き込み、シェルターの壊れた換気扇が哀れな音を立てた。アキラの心臓が早鐘のように打つ。 (……始まったんだ……)
ソーマ・シティの終わりは地球での新たな始まりだった。
真実は暴かれたが、戦いは終わっていなかった。
むしろここからが本当の不協和音だ。
桐島の道場。磨き上げられた板の間。静寂の中で桐島は木刀を構えていた。
窓の外の都市の不穏な空気は彼にも届いている。
肉体と精神を極限まで鍛え上げた彼の感覚は微細な変化をも捉える。
都市の鼓動が早まっている。
不規則な波を打っている。
そんな予感が彼の足元を微かに揺るがす。
彼が目指す「強さ」の形は、プロメウス技術が生み出す力とは異なる、人間が生身で到達しうる極致だ。
しかしその彼ですら、今度現れるであろう脅威が以前とは質を異にしていることを感じ取っていた。
それはゼノのような完成された力ではないかもしれないが、数の力か、組織の力か、あるいは未知の力か。
木刀を振るう音が静寂な道場に響く。
その音はこれから始まる戦いへの彼なりの序曲のようでもあった。
3つの魂がそれぞれの場所で新たな嵐の接近を感じていた。
不協和音が地球という巨大な舞台に静かに、しかし確実に響き渡り始める。
次なる楽章への序曲が今奏でられようとしていた。
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「利益」をもたらすコンテンツは、すぐに廃れます。
不況、インフレ、円安などの経済不安から、短期的な利益を求める風潮があっても、真実は変わりません。
人の心を動かすのは「物語」以外にありません。
心を打つ物語を発信する。
時代が求めるのは、イノベーティブなブレークスルーです。
