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『みんなの前では俺を無視する人気者の彼女は、二人になると甘えを我慢できない』

うちの学校には、山下瞳月っていう有名人がいる。

明るくて可愛くて、誰にでも分け隔てなく優しい。テストの順位はいつも上のほうだし、体育祭も文化祭も気づけばその中心であの子が笑っている。告白された回数は数え切れないって噂だし、廊下ですれ違う男子は決まって一瞬だけ歩くのが遅くなる。

かたや俺は、クラスで存在を思い出してもらえたら御の字くらいの地味な男だ。目立つ趣味もなければ顔もよくない。瞳月の隣に並んでも、たぶん「誰?」で終わる。

そんな山下瞳月と、俺は――付き合っている。誰も知らないけど。

だから俺たちは学校では完全な他人として過ごしている。廊下ですれ違っても目も合わせないし、声もかけない。付き合い始めたときに二人で決めたルールだ。あの子に変な好奇の目を向けさせたくない。その一心で。

そして瞳月は、その"他人のフリ"がびっくりするくらい上手かった。




その日も、朝からそうだった。

昇降口で瞳月は友達に囲まれて笑っていた。俺が数メートル横を通っても、視線ひとつ寄こさない。まるで、そこに人がいないみたいに。

一限のあと、廊下でふいに距離が近くなったときも、あの子は完璧だった。ほんの一瞬視線が交わりかけて――でも瞳月は何事もなかったようにすぐ友達のほうへ顔を戻した。表情も歩幅もいっさい乱れない。見事なものだ。

一度だけ、危ない場面があった。移動教室で瞳月が落としたペンケースがちょうど俺の足元まで転がってきたのだ。俺はそれを拾って、無言で差し出した。

「あ、すみません。ありがとうございます」

瞳月は初対面の相手にするみたいにぺこりと会釈して受け取った。声も表情も、まるきり"知らない人"のそれだった。
でも、受け取るその一瞬。俺の指に瞳月の指先がわざとそっと触れた。誰にも見えない角度で、ちょん、と。
それが、あの子にできる精一杯の「おはよう」なんだと俺だけが知っている。

昼休みには隣のクラスの男子が瞳月に告白したらしいという噂が回ってきた。廊下の窓際で、あの子が申し訳なさそうに手を合わせているのが、遠目に見えた。相手を傷つけない優しい断り方なんだろう。人気者はこういうところも如才ない。

そんな人気者ぶりを、俺は教室のうしろの席からぼんやり眺めていた。

「山下さんって、結局どういう人がタイプなんだろうな」

前の席の男子が友達と、そんな話をしているのが聞こえた。

「どうせ、俺らみたいな一般人は対象外っしょ。あのレベルだと相手も選ぶよなー」
「それな。芸能人とかと釣り合うタイプ」

俺はノートに視線を落としたまま、聞こえないふりをした。
――その相手、たぶん今この教室のいちばんうしろの席で居眠りしかけてるんだけどな。
そう心の中でだけ呟くと、誰にも言えない優越感で、口の端が少しだけ持ち上がった。

それでも、正直なところこたえないと言えば嘘になる。
世界でいちばん見られている人の恋人なのに、その人からは学校で一度も見てもらえない。自分で決めたことのはずなのに、一日の終わりには胸の奥がもやもやする日もある。

でも、いいのだ。
どうせ放課後になれば――全部、ひっくり返るんだから。


その日の放課後。
学校を別々に出て、二駅離れた俺のアパートで落ち合う。それが俺たちのいつもの流れだ。
合鍵を渡してあるその部屋に俺が帰り着いて、上着を脱ぐより早く――

がちゃっ、とドアが開いた。

「〇〇ーっ……!」

飛び込んできた瞳月が勢いそのまま俺の胸に頭からぶつかってきた。ぽすっ、と気の抜けるような音。そのまま俺の背中に腕をぐるっと回して、ぎゅうぎゅうと痛いくらいに抱きついてくる。

「あー……やっと。やっと〇〇や……」

学校であんなによそ行きの笑顔を振りまいていた人気者は、もうどこにもいなかった。
腕の中にいるのは、俺の胸に頬をぐりぐりと押しつけてくるただの甘えたがりな女の子だった。

「今日、しんどかったぁ……。〇〇と一言も喋られへんかったんやで? 目も合わせられへんかったし。うちずーっと我慢しててんから」

「お疲れ。……よく我慢したな」

「せやろ? めっちゃ頑張っててん」

言いながら、瞳月は離れるどころか、玄関で靴を脱ごうとする俺の腕にぶら下がったままだった。おかげで俺は片足立ちのままいつまでも靴を脱げない。

「なあ瞳月。せめて靴、脱がせてくれ」
「やー。今離れたら、また充電切れるもん」
「二秒で済むって」
「その二秒が、いやなの」

結局、彼女をぶら下げたまま俺はよろよろと部屋に上がるはめになった。ソファに座れば当たり前みたいに膝の上に頭を乗せてくるし、スマホを見ようとすれば「うちだけ見て」と手のひらで画面を塞いでくる。昼間のあの隙のない人気者からは逆立ちしても想像がつかない甘えっぷりだ。

瞳月は俺を離さないまま、むうっと唇を尖らせた。

「なあ〇〇。学校のうち、ちゃんと"他人"できてたやろ?」

「できてたよ。完璧すぎて、ちょっと寂しくなるくらい」

その言葉に、瞳月の眉が少しだけ下がった。

「……ごめんな。ほんまはうちかて、廊下で〇〇とすれ違うたびに手ぇ振りたくて仕方ないねん。名前呼びたいし、隣歩きたいし。……でもそれしたら〇〇がしんどい思いするやろ。だからぐっと堪えてんねん。毎回、毎回」

俺のシャツを掴む指に、きゅっと力がこもる。

「学校のうちが冷たいほど、こっちのうちが……ちょっとおかしなるねん。〇〇成分切らしてもうて」

「今日なんて五時間目に〇〇が窓の外ぼーっと見てるのを目の端で捉えてもうてな。声かけたい、いや無理、でも見たい、って、うち一人でずーっと百面相しててんで。我ながら忙しかったわ」
「……それ、見られてたのか」
「当たり前やん。うち、教室で〇〇のことだけはぜーったい見失わへんもん。まわりにはぜんぶ他人のフリしててもな」

そう言い切る顔があんまり自慢げなので、俺は一瞬返す言葉に詰まってしまった。

瞳月はそんな俺を見上げると、いつもとは違うへにゃっと崩れた笑顔になった。

「学校でのうち、上手かったやろ? ……そのぶん今日ぶんはちょっと多めに補充させてな」

俺は思わず笑ってしまった。
そして背中に回された腕をほどくどころか、俺はこっちから彼女を抱き寄せた。

昼間みんなの前で咲いていたあの完璧な笑顔は、たしかに眩しかった。でも今、俺の腕の中でとろけきった顔をしている瞳月のほうを――俺は何百倍もよく知っている。そしてこの顔を見られるのはこの世で俺だけだ。

「いくらでも、補充していいよ」
「……ほんま? 遠慮せんで、ええ?」
「ああ。学校で頑張った分、全部」
「……ほな、遠慮なく」

瞳月はそう宣言すると、俺の胸元に顔をうずめて深呼吸でもするみたいにすうっと息を吸い込んだ。

「んー……この匂い。これ嗅ぐと、充電メーター一気に回復すんねん」
「なんちゅう燃費や」
「〇〇専用やから、しゃあないやろ」

真顔でそう返してくるので、俺はこらえきれず肩を揺らした。

瞳月は俺の胸から顔を上げると、ぱあっと表情を輝かせて、そのまま首に腕を回してもう一段強くしがみついてきた。

「やった。……じゃあ今日はいっぱいな。明日また、他人のフリ頑張らなあかんから」

耳元で少し得意げにそう囁いた声は――昼間みんなの前で聞かせていたあの澄んだ人気者の声とは、まるで別人のように甘くて俺の理性を静かに一枚ずつ剥がしていった。

~終わり~

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