『先週別れた彼女と予約済みの温泉旅行に来たら、なぜか別れる前より距離が縮まった』
先週、俺は山下瞳月と別れた。
正確には別れることになった。原因は思い出すのもばかばかしい小さな喧嘩だ。売り言葉に買い言葉で瞳月が「もうええわ、別れる!」と言い、俺も意地になって「ああ、別れよう」と返した。ただそれだけのこと。
で、今日。
俺はその元カノと二人で、温泉行きの新幹線に揺られている。
理由は一つ。この旅行、二ヶ月も前から予約してあったからだ。人気の旅館のいちばんいい部屋。キャンセル料は宿泊代の八割。別れたからって、その金額をドブに捨てる勇気は俺にも瞳月にもなかった。
「……言うとくけどな」
隣の席で、瞳月がツンとした顔で口を開いた。
「これは、キャンセル料がもったいないから来てるだけやからな。〇〇と旅行したいとか、そういうんちゃうから。ただの事務手続きやから」
「わかってるよ」
「ほんまに、わかってる?」
「わかってる」
事務手続きにしては集合時間に十分も早く来ていたことは、言わないでおいた。
ついでに言えば、その事務手続きのためにあの子が見たことのないワンピースを下ろしたことも、香水をつけてきたことも俺は気づかないふりをした。お互い様だ。俺だって前の日に髪を切ってきた。
旅は、最初こそぎこちなかった。
でも二時間も同じ空気を吸っていると、こわばりは少しずつほどけていく。
車内販売のワゴンが来たとき、俺がアイスを二つ買うと瞳月は当たり前みたいに片方を受け取った。溶ける前に食べるのも、一口ぶんだけ残すのも、この子はぜんぶ知っている。
「あ。〇〇、それちょっとちょうだい」
「元カノに分ける義理はないんだけど」
「ケチ。……元カレのくせに」
言い合いながら、結局スプーンを渡してしまう。
別れたはずなのに、俺たちの距離感だけは先週のまま何も変わっていなかった。
トンネルに入って外が暗くなると、瞳月はいつのまにかこっくりこっくり船を漕ぎ始めた。そのうちこてんと俺の肩に頭が乗ってくる。起こそうかと思ったがやめておいた。元カノの寝顔をこんな近くで見られるのも、たぶん今日で最後かもしれないし。
そんなことを考えていたら、寝ているはずの瞳月が、小さな声で「……あったかい」と呟いた。
旅館に着くと、案内されたのは当然のように一室。
広縁から川の見えるいい部屋だった。付き合っていたころの俺が張り切って予約したやつだ。今となっては、その"張り切り"が、少しだけ気恥ずかしい。
「……ひと部屋、やねんな」
「そりゃ、そういう予約だし」
「……ふぅん」
瞳月は何か言いたげに口をとがらせたが、結局何も言わず荷物を置いた。追加でもう一部屋取るような無駄遣いをこの子がするはずもない。もったいない精神が、こういうときだけ妙に俺たちの味方をする。
夕飯は部屋食だった。向かい合って座ると、瞳月は俺の皿の刺身を勝手に食べやすく並べ替えてくる。付き合っていたころからの癖だ。
「元カレの世話、焼かなくていいだろ」
「……手が勝手に動くねん。文句あるん」
文句なんか、あるはずがなかった。
食後、仲居さんが「お布団、並べてご用意しときますね」と微笑んで下がっていった。布団が部屋の真ん中に、仲良く二つ並ぶ。
「……あの」
「なんも言うな」
「まだなんも言うてへんやん」
そわそわしてしまうあたり、"元カレ元カノ"の演技は、もう完全に破綻していた。
温泉から戻ってくると、瞳月は湯上がりの赤い顔で俺のぶんの水まで冷蔵庫から出してくれていた。もう"元カノ"の枠に収まる気なんて、これっぽっちもなさそうだった。
部屋で涼んでいると、瞳月が「湯冷めするで」と自分の浴衣の上着を俺の肩にかけてきた。自分だって湯上がりの薄着のくせに。その世話焼きが先週まで当たり前だったと思うと、一週間ぶんの意地が急に馬鹿らしくなった。
夜。
部屋の明かりを落として、二人で広縁に並んだ。川の音だけが静かに響いている。
「……なあ、瞳月」
「なに」
「俺たち、これ、なにしてるんだろうな」
冗談めかして言ったつもりだった。でも瞳月は、しばらく黙ってからぽつりと言った。
「……ごめんな」
「え?」
「先週の『別れる』。あれ、ほんまは言うつもりなかってん」
膝を抱えたまま、瞳月は川のほうを見ている。
「〇〇が謝ってくれるの待っとってん。そしたら、うちも『こっちこそごめん』って言うつもりやった。……でも、〇〇まで意地になるから、引っ込みつかんくなって、気づいたらほんまに別れたことになってて」
声がだんだん小さくなっていく。
「この一週間、めっちゃしんどかった。……でもキャンセル料の話が来たとき、正直ちょっとほっとしてん。あ、これでもう一回だけ〇〇に会える口実ができたって」
俺は思わず笑った。同じだったからだ。俺だってあの八割の請求を見たとき、胸のどこかで安堵していた。
この一週間、俺も何度もスマホを開いては瞳月の名前の上で指を止めていた。『ごめん』の三文字が、意地のせいでどうしても打てなかった。それを今こそ言うべきだと思った。
「……あのな、〇〇」
瞳月が意を決してこっちを向いた。頬が、暗がりでも分かるくらい赤い。
「あの『別れよ』な。……なかったことに、してくれへん?」
そして消えそうな声でこう続けた。
「もう一回だけ、うちと付き合ってください。……今度は、意地、張らへんから」
俺は彼女のほうへ手を伸ばして、頬に落ちた髪を耳にかけてやった。
「こっちこそ。……先週は、ごめんな」
その瞬間、瞳月の顔が泣き笑いでぐしゃぐしゃになった。
翌朝。
チェックアウトを済ませて旅館を出ると、瞳月がふいに、俺の袖をきゅっと掴んだ。
「……なあ、〇〇。うち、この旅行が終わるの、ちょっといややねん」
「なんで」
「だって、家帰ったら、また日常やろ。またしょうもないことで喧嘩して、また意地張って……この前みたいに勢いで変なこと口走ってまうかもしれへん。そんなん、もう二度といやや」
うつむいた横顔に、俺が何か声をかけようとした、そのとき。瞳月がぱっと顔を上げた。
「……せや。ええこと思いついた」
そして、当然みたいに俺の手を握ってくる。
「この旅行、終わらせへんかったらええねん。帰りの新幹線も、まだ旅行のうちやろ? 家に着くまでも旅行の続き。ほな、次の旅行の予約入れといたら、そこからまた続きやん」
指を折りながら大真面目にそう説明する瞳月は、我ながら完璧な理論やと言いたげな得意顔だった。
「その理論、破綻してないか」
「してへん。……というか〇〇、破綻しててもええから、乗ってくれたらええやん。うちとずっと旅行しといてって、そういう話やろ、これ」
ぐうの音も出なかった。
「日常に戻らへんかったら、二度と喧嘩別れもせえへんやろ? 旅行の途中にずーっとおったら、うちら、一生別れられへんってこと」
無茶苦茶な理屈だった。
でも、その無茶をこれから先ずっと聞かされるんだと思うと、なんだか頬がゆるんできた。
~終わり~
