見出し画像

僕の生い立ちを語ってみます〜幼少期から高校まで〜

プロラグビー選手の山川力優です。5本目のnoteは趣向を変えて、自分の「生い立ち」を、幼少期から高校までの範囲で書いてみようと思います。

中学時代、非行少年だった時期があります。

警察に3回ぐらいお世話になりました。野球の特待生として進む予定だった高校の話を、自分から蹴りました。

そんな僕が、なんでラグビーをやることになったのか。

今振り返ると、人生のターニングポイントがあったし、運に恵まれてここまで来たな、と本当に思うんです。ちょっと長くなりますけど、よかったら最後までお付き合いください。


ほうきで鍵を開けて脱走していた幼少期

母にこの前、小さい頃の話を聞いてみたんですよ。そしたら、「あんたはとにかくやんちゃやった」と。

幼稚園(6歳)のとき。鍵を開けて外に勝手に出ていってよく怒られた

具体的にどうやんちゃやったのかは、僕自身もよく覚えてないんですけど、とにかく遊ぶのが好きで、「あれもしたい、これもしたい」っていう子供だったみたいです。

今、自分の子供が9ヶ月で、まさに本当にそんな感じなんですよ。あれもこれも触りたい、家にあるもの全部倒される。「たまらんな」って思ってて。多分、僕のお母さんも当時、同じこと思ってたんやろうな、と。

母から何回も聞かされたエピソードがあって、幼稚園の頃、家の鍵を勝手に開けて、勝手に外に出ていく子だったらしいんですよ。

歩くようになってからずっと脱走するから、母も困って、玄関の上のほうにチェーン式の鍵をつけたんです。昔のマンションってあったじゃないですか、こうやってかけるやつ。

「これやったらもう出られへんやろ」と母は思ってたみたいなんですけど、僕、ほうきみたいなのを持ってきて、ガチャガチャやって開けて、家から出て行ったらしくて。

母も「どんだけずる賢いんやお前は」って今でも言うてきます。

ネックレスも引きちぎってたみたいで、力も強かったらしいです。

お祭りのとき(6歳)この頃から体は周りよりも大きかった

小学校時代 ― 野球少年と「生き物係」

小学校1年生から野球を始めて、もうめちゃくちゃ楽しかった。

ポジションはキャッチャー。肩が強かったのでピッチャーもやってました。打席は3番、4番、5番、いわゆるクリーンアップを打たせてもらってて。「四番キャッチャー」っていう、「ドカベン」みたいな存在でしたね。

体は大きい方で、背の順なら後ろから3番目ぐらいをいつもキープしてた。体重も多分一番重かった。

プロ野球を見に行くのも好きでした。小学校でオリックスバファローズの招待券みたいなのが配られるんですけど、それをみんなでかき集めて、休みの日になったら友達と弟と見に行く。本当に楽しかった。

僕、本気でプロ野球選手になりたいと思ってたんですよ。

好きなマンガはMAJORだったし、頭の中は野球のことでいっぱいでした。

自分は3人兄弟の長男で、一つ下の弟、四つ下の妹がいる

あと、同時に、当時からちょっと人と違ったことをしたい、っていう性格もあったんですよね。

小学校のクラスに「係」ってあるじゃないですか。じゃんけんで決めて、勝った順番に好きな係から選んでいくっていう。

僕、毎回生き物係だったんですよ。みんなが嫌がる、臭い、ニワトリ小屋の世話をする係。

なんで毎回それだったかというと、人がやらんことをやった方が面白いかなって思ってたからなんですよね。みんながやりたがらないことに、逆に手を挙げて行く。

実際、生き物係は面白かったです。ニワトリがたまに卵を産むんですけど、それ持って帰って食べれる。係の特権ですね(笑)。

小学校6年間、ほぼ皆勤賞でした。風邪も全然引かないし。先生から「不登校の子の家に誘いに行ってあげて」と言われるタイプで、まあちょっと面倒見いいみたいなのもあったんかな、と今思います。

中学校 ― 強打のキャッチャー、そして「ややこしい世界」を見た

中学に入ると、学級代表を3年間やってました。立候補したわけじゃなくて、先生に「お前がならな誰がなるねん」みたいな感じで、毎年僕に押し付けられて。

小1から始めた野球は中学校に入ってからもボーイズリーグで続けた

3年生になる時には、生徒会長にも先生から強く推されました。

「あんたしかおらへんから」って。なんで僕が選ばれたかというと、たぶん「人にちゃんと言える」から、やったんやと思います。

勉強ができたわけでも、品行方正やったわけでもないし、なんなら、やんちゃな友達とも仲がよかったけど、人前で話したり、まとめたりするのが、わりと得意やったんやと思います。

ただ、生徒会長は内申点で評価が上がるらしいので、本気で勉強して高校に行きたい同級生に譲りました。

野球はずっと続けてました。部活ではなく、ボーイズリーグの硬式チームに入って。月水金土日、火木土日と、もうほぼ毎日練習みたいな感じで。

ポジションも打順も小学校と一緒。キャッチャー兼ピッチャー、クリーンアップ。

これがまた、それなりにできたんですよ。だからいろんな高校からスカウトされて、ある強豪校からは特待生で来てよと言ってもらって、もう約束していました。3年次にはキャプテンも務めました。

3年生のときにはキャプテンも務めたが、このあと、野球から離れてラグビーの道へ

でも、ある時期からちょっと野球が嫌になっていったんですよね。

理由はいくつかあるんですけど、一番大きかったのは「親の世界」のややこしいしがらみでした。

ボーイズリーグって、すごく親が絡んでくるんですよ。

コーチに親がお茶を入れに行ったり、毎週チームの手伝いをしに来たり。そういう雰囲気が当たり前になっていた。

うちの両親はそういうのが大嫌いで、父は「アホらしいわ、そんなん」、母も「そんなんようわからへんで」って、本当に行かなかった。

そういう家庭はうちだけで、そうしていると、たまに僕、試合に出れなくなったりするんですよ。実力的にはずっと出られてたんですけど、それでも親同士のあれこれが、確実に影響していた。

チームの他の保護者からの「視線」も感じてました。「絶対、俺嫌われてるやろ」って中学生ながらに思ってたんです。

それを見てるうちに、「なんやこれ、すごい世界やな」と。

「高校に行ったらもっとこれが続くんやろうな。親に毎回来てもらって、いろいろやってもらって。そんな迷惑をかけ続けるぐらいやったら、もうやめたるわ」

それが、野球から離れる決定的な理由でした。

警察沙汰、そしてラグビーとの出会い

野球の熱が冷めた途端、急に遊びたくなったんですよ。

夜遊びとかし始めて、いろいろあって、警察にお世話になりました。1回じゃないです。3回ぐらい。

非行少年、ですね。当時の僕。

父は、1、2回目はブチギレで「お前何しとんねん」って感じやったんですけど、3回目はちょっと冷静に「お前、野球どないするん?」と聞いてきたんです。

そこで僕、本音を言いました。

「もう辞めたいねん」

「じゃあ辞めて何すんねん?」

僕、勉強も真面目にやっていなかったし、「もう名前書いて受かるような地元のアホな高校しか行かれへん」って言われてたんですよ。

何もできへんわ。

野球を辞めて、進路もない。何もかも失ったタイミングでした。これが、僕の人生の最初のターニングポイントです。

その時、ラグビー部の先生が「お前、高校でラグビーやれよ」と言ってくれたんです。「お前やったら絶対プロになれるから」って。

実はその少し前、中3の夏、野球を引退したあと、僕は野球のウォーミングアップ代わりにラグビー部に入ってたんですよ。

僕の中学はラグビーが盛んやったから、別に不自然なことでもなくて、何となく顔出して、何となく始めたって感じで。

そしたら、これが結構面白かった。ポジションはプロップ。今と一緒です。中学生のスクラムは「ノーコンテスト」って言って、ちゃんと組まないんで、ラグビー初心者でも入りやすかった。

その先生が「天理高校に行け」と言ってくれて、スポーツ推薦で奈良の名門・天理高校に入ることになりました。

もう本当に運がいいんですよ、僕。 父からも「お前は運がいいやつや」って言われ続けてます。

あの時、先生があの一言をかけてくれていなかったら、本当に「地元のアホな高校」に行くしかなかったと思います。

天理高校 ― 「場違いやな」と思ったところから始まった

天理高校に入って、最初は本当に場違いやなと思いました。

僕の同級生はほぼ全員、天理中学のラグビー部から上がってきたメンバー。彼らは中学全国大会3連覇してて、日本でトップクラスにラグビーが上手い子たちだったんです。

そこに、大阪から数人と、地方から数人と、僕みたいな中学最後にラグビー始めたやつが混ざってる。

僕はルールも知らない、天理高校の白いジャージが人気なことも知らない。 「すごいところに来てしまったな」と思いました。

最初は、本当に「天理中学組」に占領されてる感覚でした。

下段右から3人目が自分。ラグビーは高校からのスタートだったが、すぐにチームに打ち解けた

同級生のほとんどが彼らで、命令もガンガンしてくる。「お前らラグビー上手いからって何やねん」って僕も思ってたんで、こっちも気の強さで応戦してました。舐められたら終わりやと思って。

でもそれは最初だけ。すぐに打ち解けて、高校生活が始まりました。

そんな状態から始まったんですけど、三年生が引退して、僕らが一個上の代になった時には、もうレギュラーになれてました

3年生の時には花園にも出て、ベスト8まで行きました。高校日本代表候補にも選んでもらえた。

高校では2年生からレギュラーになった。ポジションはプロップ

けど、正直そこまで来ても、「プロになれる」とは思ってなかったんです。

「もう高校でラグビーは終わりにして、消防士か海上自衛隊に行きたい」と先生に言ったんですよ。そしたら、

「お前、アホか。お前のその才能があったらちゃんとプロになれるから、頑張れ

そう言われて。半信半疑のまま、天理大学に進むことになりました。

甲子園のテレビを見て、決意したこと

進路が決まったあとの、高校3年生の合宿中、テレビをつけたら、僕が推薦を断った高校の同級生が、甲子園に出ていたんです。

その瞬間、ものすごく複雑な気持ちになって。

「あ、俺もう絶対戻られへんし、絶対に野球でけへんわ」

って、再認識しました。

もともと、野球というスポーツ自体が嫌いで辞めたわけではなかったので。甲子園という舞台で活躍する同級生をみると、気持ちがざわつきました。

それまでも「野球には絶対戻られへん、絶対ラグビーで活躍せなあかん」とは思ってたんです。でも、甲子園を見て、悔しさが倍増しました。

「もう絶対、今から活躍して、ラグビーだけで飯食っていけるようになる」

それが、高校3年生の僕の決意でした。

一緒に花園にいったラグビー部のチームメイトと

おわりに ― 次回は大学以降の話を

ということで、今回は幼稚園から高校までの話を書いてみました。

振り返ってみると、後先考えず行動する性格なのに、本当に運に恵まれた人生やなと思います。

中学のラグビー部の先生が「お前ラグビーやれ」って言ってくれなかったら、今の僕はない。偶然の細い糸に導かれて、今プロラグビー選手をしています。

次回は、大学以降の話を書こうと思っています。天理大学に進んで、社会人になって、東芝ブレイブルーパス東京に入った経緯まで。

最後まで読んでくれてありがとうございます。

いいなと思ったら応援しよう!