鷗外さんの小倉日記㊶ 久留米・高良大社
皆さん、初詣に行かれましたか。 神社が主流だと思いますが、神社にもいろいろあって、神宮、宮、大社、神社、、、、。
格式で言えば、神宮、宮、大神宮、大社、神社、社となるそうです。
たとえば神宮とはもともと伊勢神宮のことですが、皇室の祖先や天皇をお祀りする神社、皇室と縁の深い神社、日本の神話で国づくりに大きな役割を果たした神社に神宮という社号がついています。伊勢神宮、明治神宮、平安神宮、霧島神宮、鹿児島神宮など24あります。
今回紹介する高良大社は大社、
大社は元来は、大国主命を祀る出雲大社を指す社号でしたが、戦後、社号の再整備がなされた際、同名の神社をまとめる役目を担う歴史ある神社として、奈良県の春日大社や長野県の諏訪大社、日吉大社(滋賀)、熊野本宮大社(和歌山)など、いくつかの神社に大社の社号が与えられました。大社は地域信仰の中核をなした大きな神社です。
今回は久留米市の高良大社を鷗外さんが訪ねます。
(10月1日)
午後四時森氏を辞して高良山に登る。
森氏は門を出でゝ左すること數歩にして、大なる石華表あり。匾して玉垂宮と云ふ。兩邊に寶暦十年献ずる所の石燈籠あり。
これより進み入るに、道の左に新に建てたる高良山御井寺再興紀念碑あり。道の右に豐比咩神社あり。石柱に所載延喜式筑後州大小四座之大社也と刻す。御手洗橋を渡る。石橋なり。道の左に高木神社あり。これより登ることを十五町。神籠石と馬蹄石とを見て、高良山頂に至る。又華表あり。 高良玉垂宮と匾す。兩邊の石灯籠は寛延四年辛未の立つる所なり。祠右に神職の家あり。矢野幸太夫一貞の著す所の筑後將士軍談六十卷を藏す。歸途半ば山を下りて、石斧一を拾ひ得たり。
午後4時森氏宅を辞して高良山に登った。
森氏宅は門を出て左に曲がること数歩で、大きな石の鳥居。扁額に玉垂宮とある。両側に宝暦10年献納した石燈籠がある。

これより進み入ると道の左に新たに建てたる高良山御井寺再興紀念碑。
道の右に豐比咩(とよひめ)神社がある。
豊比咩神社はかつてこの地に鎮座していたが、1936(昭和11)年、ブリヂストン石橋家が別荘を建築する際、隣接地の清水山一帯を(高良大社の要望に応えて)購入したときに廃社され、御祭神(神霊)は高良大社本殿に遷し合祀されたという。
石柱に所載延喜式筑後州大小四座之大社也と刻している。御手洗橋を渡る。石橋なり。道の左に高木(高樹)神社あり。

これより登ること十五町。神籠石と馬蹄石とを見て、高良山頂に至る。又鳥居がある。 扁額に高良玉垂宮と書かれている。両側の石灯籠は寛延四年辛未に建てたものだ。





祠右に神職の家あり。江戸時代末に活躍した久留米藩士の)矢野幸太夫一貞が著した筑後地方の歴史をまとめた「筑後將士軍談」六十巻を藏している。
帰る途中、山を下りて、石器である石斧一つを拾ってしまった。(ヤッター)
久留米市の東部、御井町にある高良山(標高312m)に鎮座するのが、旧国幣大社で筑後国一の宮である高良大社、古くは高良玉垂宮(こうらたまたれぐう)と呼ばれました。
この高良玉垂宮の創建は、履中天皇元年(400)と伝えられ、また延喜式内の名神大社として高い地位にありました。 鎌倉時代の文永・弘安の蒙古襲来(1274年・1281年)には、勅使が参向、蒙古調伏なるや叡感あって、「天下の天下たるは、高良の高良たるが故なり」との綸旨(りんじ)を賜わったと伝えられることから、「武運長久の神」として、更には、高良神楽発祥の地であることから、「芸能の神」としても崇敬されています。
中世にはその勢力は国司と拮抗するまでになり、南北朝のころは征西将軍懐良親王の祈願をうけ、山下に征西府がおかれた由緒ある社です。江戸時代には久留米藩第2代有馬忠頼は、高良大社の入口、一の鳥居である有形文化財(建造物)の「石造大鳥居」を寄進。石材は領内の15歳から60歳までの男子延べ10万人が運んだということです。
1659(万治2)年から万治4年にかけ、第3代有馬頼利により九州最大級の神社建築と言われた現在の御社殿(本殿、幣殿、拝殿は国重要文化財)寄進により造営され、1777(安永6)年、第7代有馬頼徸は中門・透塀をそれぞれ造営寄進しました。
また、社宝に「紙本墨書平家物語」(重要文化財)、「絹本著色高良大社縁起」(県文化財)などがあり、山中の孟宗金明竹(国の天然記念物)や高良山神籠石(国指定文化財。史跡)なども貴重なものとして保存されています。

境内には、福岡県天然記念物の御神木である樹齢400年の「高良大社の大樟」があり、霊気を感じるほど神々しいです。




高良山にある「高良山神籠石(こうらさんこうごいし)」は、古代山城遺跡であり、国の史跡に指定されています。
神籠石とは、山を取り巻くように巨石が並べられている遺跡のことで、「鬼が造ったもの」であるとか、「神域の結界を表すもの」であるなどと言われていましたが、現在では、飛鳥時代ごろに作られた山城であると考えられています。
福岡、佐賀、山口、岡山、香川に13か所分布しており、高良山山腹の列石が山頂の神社を取り囲んでいることから神籠石の名が付きました。
高良山の神籠石は、ほかの神籠石に先がけて、学会に報告され、神籠石という遺跡の名前の発祥となり、それ以後、他地域の類似する遺跡も神籠石と呼ばれるようになりました。
近年の調査によると、663(天智天皇2)年の「白村江の戦い」(※朝鮮半島の南西部にある白村江で、日本(倭国)が支援する百済軍と、唐と新羅の連合軍が行った海戦)で敗れる前後の対外情勢の中で、当時の中央政府が北部九州の防衛のために築いた山城の一つと考えられています。
巨石は、「高良大社」背後の本宮山頂の東側から山の南側を下り、西裾の二つの谷を渡る辺りまでの約1.5kmで見ることができ、その数は約1300個にもなります。(百科事典マイペディア、クロスロードふくおかより)

高樹神社は高良山の登り口にあり、地主神と伝わります。もともと、現在「高良大社」のある高良山の山上に鎮座していましたが、高良神に一夜の宿を貸したところ、神籠石を築いて結界の地としたため、元の地に戻ることができず、現在の場所に至ったという伝説があります。

「筑後將士軍談」は筑後国史。著者矢野一貞(幸太夫・竹楼・柏葉)は久留米藩士で、禄高200石・馬廻組。古書・旧記を渉猟し、古跡・墳墓を踏査し発掘・研究してまとめたのが本書。筑後將士軍談は 慶応3年(1867)73歳のとき完成し、他の著述書と一緒に藩主に献本されました。維新後、一貞は高良山豊姫神社、高樹神社、御井郡北の天満神社などの祠官を歴任し、明治12年(1879)8月20 日、86歳で没しました。
鷗外さんは、このような史書を見つけると必ず興味を示しています。のちの創作の参考になったのでしょうか。


※参考 くるめ歴史散歩 久留米市HP 久留米市史 クロスロードふくおか 高良大社HP いいコレ+ 久留米ナビ
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