「どこでもは通用しない自分」という当たり前の人生で生きていけばいいと気づかせてくれる本|『強いビジネスパーソンを目指して鬱になった僕の 弱さ考』(井上慎平)を読んで
おはようございます。やまのてです。
いつも聴いている桃山商事で、『仕事における「いいヤツ」とは何か?』というエピソードを聞いている中で、井上慎平さんの『弱さ考』という本が紹介されていて、気になったので読んでみました。
とても面白い本でした。
この本は、出版業界で実績を上げて、ベンチャー企業でスタートアップに取り組む中で体調を崩し鬱になってしまった著者が、「なぜ自分が鬱になったのか」を振り返る中でこの社会に広がっている苦しみの元探り、その分析を通じて自身のひいては社会の人々の持つ「弱さ(=強くなさ)」がどのようなものなのか、あるいはそれは「弱さ」という言葉が持つ非力なイメージに合うものなのか、ということを掘り下げていく本でした。
著者は本の中で、『「弱さ」とは、「社会に求められる人間」になれないこと』と言います。
では、社会が求めている人間とは何か。
・自分を持ち、自分を貫くことができる
・どこでも誰とでも仕事ができる
・目的思考で常に成長する意欲がある
こういった特徴を持つ人のことを、著者は「パチンコ玉的人間」と表現します。
一方でこういったパチンコ玉のような打ち出されても壊れない、周りの環境から影響をあまり受けないような人になれない人たちを「ウツワ的」と表し、 外部の環境との関係性によって自分がなりたつ人々と定義します。
このウツワ的人間は、日本という社会では文化的(教育など)及び地理的(島国という閉鎖された環境)な要因から形成されるのではないか、という分析があり、その観点に立つと「強さがマイノリティ」という風景が立ち上がってきました。
そして、私たちが「弱さ」と思っているものは、実は海外から輸入された価値観との齟齬から生まれるものであったり、あるいは私たちの住む社会を円滑に運営するための知恵のようなものであるかもしれないという発見がなされます。
ここにきて、弱さがひっくり返るという印象を持ちました。
つまり、私たちが「強さ」と思っているパチンコ玉的な人間像は、一方で日本的な価値観を拒否した人間像でもあるのではないかということであり、どうしてもその「強さ」に馴染めない人間がいることは、むしろ普通なのではないか。
強さが強さ足りうるのは、弱いとされるウツワ的な人々が存在するからこそ強調される特徴ではないのだろうか。
こうやって考えると、現代はあまりにも「強さ」に固執しすぎているのではないか。
私たちは「弱さ」と捉えられているものを分解し、観察し、そこにある社会に必要な要素をしっかりと確認する必要があるのではないか、ということを思わされます。
価値観は常に動いていて、今の時代の「強さ」も「弱さ」も10年後には違うものになっているかもしれません。
でもその時々で私は常に「弱い側」にいる気がします。
そういった弱さを抱える私のようなおそらく多くの人々が、どのように「強さ」に押しつぶされないように生きていけばいいのかということのヒントが終盤にちりばめられていたように思います。
結論は、あがく事、と私は受け取りました。
ダメな自分、パチンコ玉になれない自分、それでもなろうとして苦しむ自分、それを止めようとする自分、そういったものを、そのまま「引き受けて、あがく」。
もちろん「受け入れて、生きていける」ということができるなら、それはそれで一つの「強さ」なのでしょうけれど、やっぱりそんな風には生きられなそうな私に、著者の結論は、結構親和性が高そうだなと思いました。
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章ごとにつぶやいているので、よかったらそちらもご覧ください。
井上慎平さんの『弱さ考』を読み始めました。
— やまのて(読書メモ他アカウント) (@yamanoteman) March 14, 2026
今日は一章目の終わりまで。
『「弱さ」とは、「社会に求められる人間」になれないこと』
そうんだんだよな。どこかで社会に求められる人間でなくてはいけないと思うんだよな。https://t.co/EOasg1fHty
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井上さんは、ポッドキャストも始められているので、そちらも併せておすすめです。
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