写真の“バイリンガル”に憧れて
息子のおもちゃが突然英語で歌い始めた。
英語の早期教育もここまで来たか、とちょっと驚く。
英語バイリンガルへの道は厳しいけど、
日本語だけで育った私より、息子は近い場所に生まれたのかもしれない。
私の目や耳に入る英語は、どうやったって日本語に置き換わる。
今朝読んだ英語の記事も、思い出すと日本語のあらすじになる。
一つのものに二つの名前がある世界。
それを、そのまま受け止められる感覚に憧れてしまう。
写真だってそうだ。
私にとっての写真の入口は、ストリート写真だった。
見知らぬ人同士の偶然の交錯。
光と人と街の構造が組み合う構図。
そんな視点が私の写真の「言語」だ。
三脚を担いで山に登っても、一瞬の光を収めようと手持ちでカメラを構える。
モデルを前にしても、背景の街との構図の中に配置してしまう。
風景を、ポートレートを、無意識にストリート写真の「言語」に翻訳してしまう。

世の中には異なるジャンルを行き来して写真を撮る人もいる。
多彩なジャンルの写真を撮り分ける様は、マルチリンガルの軽快さを思い起こさせる。
一体その目にはどんな世界が映っているのだろう。
言葉のバイリンガルには、たぶんなれそうにない。
けれど写真なら、まだその視座に近づける気がする。
今重ねている努力の先にある気がする。
歌い続けるおもちゃを気にもせず遊ぶ息子。
その何物にも染まらない目には戻れないとしても、
積み重ねの中でしか見えない景色も、きっとある。

