【no name story】case9「届くまでの 時間」 |短編小説|ラノベ|ショートショート
届くまでの時間
棚の隅に、一冊の本があった。
何日も、何年も、開かれないままだった。

もう誰にも読まれないのかもしれないと、その本は思っていた。
選ばれないまま過ぎていく時間だけが、薄い埃のように静かに積もっていった。
けれどある夜、月明かりをまとったような白髪の男が、その本をそっと手に取った。

何気なく開かれたページの途中で、その指が止まる。
次の瞬間、男のまなざしが、かすかに揺れた。
それは驚きというより、ずっと胸の奥にしまい込んでいた名前を、不意に呼ばれてしまったときの顔に似ていた。
探していたはずなのに、ほんとうに出会えるとは思っていなかったもの。
それが、こんな場所で、こんなふうに、自分の前に現れてしまったような。
男はもう一度、その一文を読んだ。
確かめるように、というより、信じきれないまま触れ直すように。
見つけた、のではなかった。
出会ってしまったのだと、本にもわかった。

長いあいだ開かれなかったことも、誰にも届かなかったことも、遅すぎたわけではなかった。
この一瞬に間に合うために、ただそこに在り続けていたのだ。
届くまでの時間さえ、きっと意味の一部だった。
この物語に、そっと音を添えました。
少しだけ耳を澄ませて、聴いてもらえたら嬉しいです。


