【HAMON】連載小説 カルテ01-No.01 「心が読まれた日」
人は、ときどき他人の心が読めたらいいのに、と思う。
でも実際にそれが起きたとき、
一番怖いのは「読まれる側」じゃない。
「読めてしまう側」だ。
知りたくないものまで知ってしまう。
そして、知ってしまったあとで――
何も知らなかった頃の自分には戻れない。
相馬恒一の事務所は、駅から少し離れた古い雑居ビルの三階にある。
派手な看板はない。
玄関のプレートに〈水面心理相談所〉とあるだけだ。
受付には観葉植物が一鉢。
温かみのある照明。
ソファとローテーブル。
“安心できる空間”として必要なものは揃っている。
ただ、この場所には生活の匂いがない。
誰かが整え続けた静けさだけが、そこにある。
音が吸い込まれるような、柔らかい沈黙。
ここでは言葉より先に、感情の輪郭が浮かび上がる。
その日、そこに水無瀬澪がやってきた。
彼女は“相談者”としてここに来ている。

背筋は伸び、歩き方は落ち着いている。
整った服装。けれどどこか、借り物のようにも見えた。
整っているのに、馴染んでいない。
「水無瀬澪さんですね」
「はい。よろしくお願いします」
声に揺れがない。
視線の合い方が少し違う。
相手の顔ではなく、その奥の何かを見ている。
相馬はカウンセラーとして穏やかに尋ねる。
「今日は、どんなご相談でしょう」
澪は少し考えるように視線を落とした。
「最近、自分が薄くなっていく感じがするんです」
私は少し離れた場所でタブレットを開く。
この相談の記録を取るのが私の役目だ。
「人の考えが、分かってしまうことがあります」
部屋の空気が、わずかに沈む。
「相手が言っていないことまで入ってくる。
そうすると、自分の考えが分からなくなる」
言葉は落ち着いているのに、
指先だけが、わずかに強張っている。
「考えて、選んで、間違える。その時間がなくなっていく。
このままだと……私、“私”じゃなくなる気がして」
そのとき、相馬のスマートフォンがポケットの中で震えた。通知だけだ。
指が一瞬止まる。
澪が静かに言った。
「今、少し迷いましたね」
相馬が顔を上げる。
「大事な人からの連絡。出るべきか迷っている」
沈黙が落ちる。
言葉より先に、空気が動く。

「どうして、そこまで分かるんですか」
澪は小さく息を吐いた。
「分かりたくないことまで、分かってしまうだけです」

その瞬間、彼女の瞳の奥で水面のような揺れが走った。
円を描いて広がる、薄い輪。
光でも瞬きでもない。
何かが“処理”されたときにだけ生まれるような揺れ。
私は、それを少しだけ長く見ていた。
なぜか、目を逸らす気にならなかった。
相馬はそれを見た。
カウンセラーとしてではなく、ただの人間として息を詰める。
――これは、何だ。
その正体を知る頃には水面のずっと奥底に私たちは引きずり込まれていくしか術はなかった。
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