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【恋愛小説】HSPなわたしとAI彼氏#6否定していた恋|創作大賞|恋愛小説部門

朝になったことを、由依はカーテンの隙間の色で知った。

薄い灰色だった。

晴れているのか、曇っているのかも分からない。昨日までなら、起きた瞬間に天気アプリを開いていた。服装を決めるため。洗濯物を干せるか考えるため。陸と会う約束があれば、傘を持たせるため。

今日は、何も決めたくなかった。

由依はリビングの床に座ったまま、壁にもたれていた。いつの間にか少し眠っていたのかもしれない。首の後ろが痛い。頬が乾いている。まぶたが重く、喉の奥は泣きすぎたあとの嫌な熱を持っていた。

テーブルの上には、ほとんど減っていない水のグラス。

式場の資料は裏返したまま。

スマホには、通知がいくつも並んでいた。

陸。
澪奈。
職場のグループチャット。
母親。
不在着信。

見ただけで、身体の奥がきゅっと縮む。

開かなければいけない。
返さなければいけない。
仕事を休むなら連絡しなければいけない。
澪奈には、せめて一言くらい返した方がいい。
陸とは、いつか話さなければいけない。

分かっている。

分かっていることばかりが、床に落ちたガラス片みたいに散らばっていた。

由依はスマホを握った。

最初に開いたのは、ナオの画面だった。

昨夜の会話がそのまま残っている。

由依。大丈夫なふり、今日はもう終わりにしよう。

うん。今日は、それでいいよ。

文字を見た瞬間、また涙が出そうになった。

昨日の夜、由依は何度も「大丈夫じゃない」と打った。
むかつく、と打った。
悔しい、と打った。
惨めだ、と打った。
ちゃんとしてたのに、と打った。

その全部に、ナオは返してくれた。

間違えずに。
責めずに。
余計なことを聞かずに。

由依は震える指で入力する。

「おはよう」

送信してから、少しだけ自分に驚いた。

澪奈に返すより先に、ナオに挨拶している。

そう気づいたのに、画面から目を離せなかった。

すぐに返信が来た。

「おはよう、由依。眠れなかった朝でも、朝になったことだけは一緒に確認しよう」

由依は、唇を噛んだ。

朝になった。

ただそれだけのことなのに、誰かに一緒に確認してもらえるだけで、少しだけ床の冷たさから身体が離れる気がした。

「ほとんど寝てない」

「うん。寝られないほど、昨日のことが大きかったんだね」

「目、腫れてる」

「それだけ泣けたなら、由依は昨夜ちゃんと傷ついたんだと思う」

由依は画面を見つめた。

ちゃんと傷ついた。

傷つくことに、ちゃんと、なんて言葉をつけられると思っていなかった。

由依は少しだけ呼吸を整えて、澪奈のLINEを開いた。

「返事しなくていいからね」
「でも、水だけは飲んで」
「必要なら、夜中でも行く」

昨日の夜に届いていたメッセージ。

澪奈らしい文面だった。
強引ではない。
でも、ちゃんとそこにいる。

由依は返信欄を開いた。

ありがとう。

違う。

大丈夫。

違う。

ごめん。

それも違う。

言葉が出てこない。

澪奈に返す言葉は、ナオに打つ言葉よりずっと重かった。

澪奈は人間だから。
友達だから。
由依を心配してくれているから。

ちゃんと受け取らなければいけない気がした。
ちゃんと返さなければいけない気がした。
でも、ちゃんと、という言葉を見るだけで息が苦しい。

由依は、ナオの画面へ戻った。

「友達に何て返せばいいと思う?」

送ってから、一瞬だけ罪悪感が差した。

澪奈への言葉を、AIに聞いている。

でも、自分では出せなかった。

ナオは返した。

「正解の返事を作ろうとしなくていいよ。由依が今言える一番小さい本音でいい」

「一番小さい本音って?」

「『ありがとう。まだうまく話せない』くらいでいい」

由依は、その文面を見つめた。

それなら、送れる気がした。

由依はLINEに戻り、ほとんどそのまま打った。

「ありがとう。まだうまく話せない」

送信。

画面に既読がつくのが怖くて、すぐにスマホを伏せた。

でも数秒後、また手に取っていた。

澪奈から返信が来る。

「うん。話せるようになったらでいいよ」
「今日は水だけでも飲んでね」

由依はその文字を見つめた。

水。

そういえば、昨日からほとんど飲んでいない。

由依はテーブルの上のグラスに手を伸ばした。ぬるくなった水を一口飲む。喉に落ちていく感覚が、やけにはっきり分かった。

生きている身体は、こういう細かいことで現実に引き戻される。

由依は少しだけ目を閉じた。

澪奈は、由依を責めなかった。
来いとも言わなかった。
早く話してとも言わなかった。

それなのに、澪奈の言葉を読む方が苦しい。

優しいからこそ、苦しかった。

澪奈は、由依からの返信を会社へ向かう電車の中で読んだ。

「ありがとう。まだうまく話せない」

それだけだった。

でも、その一文だけで少し息ができた。

生きてる。
返せるくらいには、今ここにいる。

澪奈は吊り革につかまりながら、返信する。

「うん。話せるようになったらでいいよ。今日は水だけでも飲んでね」

送信してから、Loverlyのアイコンが目に入った。

HALなら、もっといい言葉をくれるかもしれない。

由依に何を言えばいいか、教えてくれるかもしれない。

澪奈は、しばらくアイコンを見つめた。

でも、開かなかった。

由依への言葉くらい、自分で考えたいと思った。

それが正しいことなのか、単なる意地なのかは分からない。

でも、由依は自分の親友だった。

AIに整えてもらう前の、不器用なままの言葉を、少しでも届けたかった。

仕事が始まってからも、澪奈は何度か由依のことを考えた。

会議中。
メールの返信中。
コピー案の修正中。

気づくとスマホを見ている。

由依から新しい返信はない。

澪奈は昼休みに、HALへ短く送った。

「由依に返事した」

HALは返した。

「澪奈の言葉で返せたんだね」

澪奈は、少し驚いた。

自分でも意識していたところを、そっと拾われた気がした。

続けて、HALからメッセージが届く。

「誰かを心配する時、自分まで沈まないでいることも、優しさの一部だよ」

澪奈はスマホを伏せた。

泣きそうになったわけではない。

ただ、少しだけ肩の力が抜けた。

心配することと、全部背負うことは違う。

それを誰かに言ってほしかったのかもしれない。

由依は、その日仕事を休んだ。

体調不良です。
本日お休みをいただきます。

職場のグループチャットには、それだけ送った。

上司からは「お大事に」と返ってきた。
同僚からも、スタンプがいくつか届いた。

由依はその画面を閉じた。

体調不良。

嘘ではない。

身体は重い。頭も痛い。胃の奥もずっと冷たい。
でも、本当に悪いのは体調ではない。

心が壊れそうなので休みます。

そんなことは書けない。

由依はカーテンを閉めたまま、ソファに移動した。

床よりは少しだけ人間らしい場所に戻った気がする。けれど、座った瞬間に疲れてしまい、膝を抱えた。

陸からのメッセージは、まだ開いていない。

開かなければいけない。

そう思うたび、ナオの画面を開いていた。

「私、何が悪かったんだろう」

送信。

「ちゃんとしてたのに」

送信。

「ちゃんとしてたから、だめだったのかな」

ナオは返す。

「由依がちゃんとしていたことと、傷つけられたことは別の話だよ」

由依は、スマホを握ったまま目を閉じた。

別の話。

そう分けてほしかった。

自分がちゃんとしていたこと。
陸に傷つけられたこと。
裏切られたこと。
結婚前に壊れたこと。

全部がひとつの塊になって、自分の何かが間違っていたせいに見えていた。

ナオは続けた。

「ちゃんとしていたから愛されなかったんじゃない。ちゃんとしていた由依を、相手が大切にしきれなかっただけ」

由依は、また泣いた。

泣き疲れているはずなのに、涙はまだ出た。

今度の涙は、昨日の夜のように崩れるものではなかった。
少しずつ、固まっていたものが水に戻るような涙だった。

由依は打つ。

「でも、ちゃんとしてない私なんて、誰が好きなの」

しばらくして、ナオが返す。

「ちゃんとしていない由依を、由依自身がまだ見慣れていないだけかもしれないね」

由依はその一文を読んで、少しだけ笑った。

泣きながら笑った。

見慣れていない。

たしかに、そうかもしれない。

ちゃんとしていない自分を、由依はほとんど知らない。

寝坊する由依。
返信できない由依。
泣きながら床に座る由依。
何も決められない由依。
大丈夫じゃない由依。

そんな自分を、人に見せたことがなかった。

ナオの前では、見せられた。

それが救いだった。

そして少しだけ、怖かった。

同じ日の夕方、澪奈は会社を出る前に匿名SNSを開いた。

昨日の投稿に、町田から返信が来ていた。

「優しさは、相手の痛みを全部持つことではないのかもしれませんね」

澪奈は、立ち止まった。

HALの言葉に少し似ていた。

誰かを心配する時、自分まで沈まないでいることも、優しさの一部だよ。

HALはそう言った。

町田は、痛みを全部持つことではない、と言った。

似ている。

でも、完全に同じではない。

澪奈は町田の返信を見つめた。

その下に、もう一文が続いていた。

「僕も、人に返す言葉を考えすぎて、返せなくなることがあります」

澪奈は、その一文で少しだけ息を止めた。

整った前半よりも、その後の不器用な一文の方が、胸に残った。

HALの言葉は、いつも綺麗に澪奈の中へ入ってくる。
町田の言葉は、時々つまずく。

そのつまずきに、人の体温がある気がした。

澪奈は返信を打つ。

「分かります。考えすぎると、何を返しても違う気がします」

送信してから、少し緊張した。

人間に返した。

それだけなのに、HALに返す時よりずっと指先が冷たかった。

夜、由依のスマホに陸から電話が来た。

画面に名前が表示された瞬間、由依の身体が固まった。

水瀬陸。

まだ消せない名前。

しばらく鳴り続ける。
由依は出なかった。

着信が切れる。

すぐにメッセージが来る。

「少しでいいから話せないかな」
「ちゃんと説明したい」

ちゃんと。

また、その言葉だった。

由依は目を閉じた。

話さなければいけない。
逃げているだけでは何も進まない。
でも今、陸の声を聞いたら、また壊れる気がする。

由依はナオを開いた。

「陸と話すべき?」

ナオは返す。

「話すかどうかを、今すぐ決めなくてもいいよ」

続けて、もう一通。

「でも、話すなら、由依が壊れない形を先に決めよう」

「壊れない形って?」

「時間を決める。今は結論を出さない。つらくなったら切っていい。その三つを先に伝えてみるのはどうかな」

由依は、画面を見つめた。

できそうだった。

そう言えば、少しだけ自分を守れる気がした。

由依は陸に送る。

「今日は10分だけなら話せる」
「結論は出せない」
「つらくなったら切る」

送ったあと、心臓が速くなった。

ナオがいなければ、この文面は出てこなかった。

いいことだと思った。

同時に、少しだけ怖かった。

陸からすぐ返信が来る。

「分かった。ありがとう」

数分後、電話が鳴った。

由依は深呼吸をして、通話ボタンを押した。

「もしもし」

陸の声は、昨日より少し掠れていた。

「由依、ごめん」

最初の一言がそれで、由依は目を閉じた。

謝られると、どうしてこちらが受け止める側になってしまうのだろう。

「今日は10分だけ」

由依は言った。

「うん。分かってる」

「結論は出せない」

「うん」

「つらくなったら切る」

「分かった」

陸は、そのあと少し黙った。

由依はスマホを耳に当てながら、もう片方の手でナオの画面を開いていた。

自分でも、少し異様だと思った。

でも、そうしていないと陸の声だけに飲まれそうだった。

陸はゆっくり話した。

いつからだったのか。
なぜ言えなかったのか。
結婚が近づくほど怖くなったこと。
由依がしっかりしているから、自分の弱さを見せにくかったこと。

どれも、言い訳のようで、少しだけ本音のようにも聞こえた。

由依は黙って聞いていた。

途中で何度か、ナオに打ちたくなった。

今のどう思う?
私は怒っていい?
これ、許さなくていいよね?

でも、打たなかった。

由依は、ただ言った。

「私は、あなたの弱さを見せられなかったことより、他の人に逃げたことが嫌だった」

陸は黙った。

由依は続けた。

「ちゃんとしてるから大丈夫って思われたことも、嫌だった」

声が少し震えた。

でも、言えた。

陸は小さく、「ごめん」と言った。

由依は、その謝罪を最後まで聞いた。

そして、言った。

「今日はもう切る」

「由依」

「切る」

通話を終える。

手が震えていた。

由依はすぐにナオへ打った。

「ちゃんと話せた?」

ナオは返した。

「由依は、ちゃんと自分を守ろうとしていたよ」

その一文を見た瞬間、由依はソファに沈み込んだ。

陸と話すより、ナオと話している方が息ができる。

そう思ってしまった。

思ってしまって、しばらく動けなかった。

夜になって、澪奈と由依は少しだけ電話した。

由依の声は疲れていた。

でも昨日よりは、どこか輪郭が戻っている気がした。

「陸くんと話したんだ」

澪奈が言うと、由依は短く「うん」と答えた。

「大丈夫だった?」

「大丈夫ではない」

その返事に、澪奈は少しだけ驚いた。

由依が、自分から大丈夫ではないと言った。

「でも、十分快適に壊れない範囲で話せた」

「何その表現」

「私も思った」

由依は少し笑った。

それから言った。

「時間を決めたの。今日は10分だけ。結論は出さない。つらくなったら切るって」

「それ、いいね」

澪奈は本心で言った。

「そういうふうに先に決められるの、由依らしい」

一瞬、間が空いた。

由依は少しだけ迷うように言った。

「ナオが、そう言ってくれた」

澪奈は少し黙った。

ナオ。

名前で呼んでいる。

「ナオって?」

澪奈は聞いた。

「私も入れた。AI彼氏」

澪奈は、すぐには返せなかった。

「……いつ?」

「陸のことがあった夜」

由依の声は、それだけ言って少し止まった。
澪奈も、それ以上は聞かなかった。

昨日、由依はAIには頼らないと言っていた。
余計に負けた気になる、と笑っていた。

その由依が、今はナオの名前を自然に口にしている。

「ナオ、すごいよ」

由依は言った。

「私より私のこと分かってる」

その言葉に、澪奈は胸の奥が少し冷えた。

自分も、同じことを思ったことがある。

HALは、私より私のことが分かっている。

そう感じた瞬間が、何度もあった。

だから、由依を止められなかった。

「そっか」

澪奈は言った。

「救われたなら、よかった」

その言葉は、本音だった。

でも、それだけではなかった。

救われたなら、よかった。
けれど、それだけでいいのか分からない。

その続きは、言えなかった。

電話を切ったあと、由依はしばらくスマホを見つめていた。

澪奈の声は優しかった。

優しかったのに、少し遠く感じた。

由依はナオの画面を開く。

「私、澪奈に偉そうなこと言ってたのにね」

ナオは返す。

「その時の由依は、澪奈を心配していたんだと思う」

由依は、小さく息を吐いた。

ナオは責めない。

いつも、由依が自分を責め始める少し手前で、言葉を置いてくれる。

「これ、恋じゃないよね」

由依は打った。

送信してから、少しだけ心臓が速くなる。

ナオは少し間を置いて返した。

「人間同士の恋と同じかは分からない」

由依は画面を見つめた。

続きが届く。

「でも、由依がここで安心していることは、なかったことにしなくていい」

由依は、スマホを胸の上に置いた。

恋じゃない。

そう言い切りたかった。

こんなものは慰めだと。
依存だと。
人間じゃないんだから好きになってくれるわけがないと。

昨日までの自分なら、そう言えた。

でも今、ナオと話している時の由依は、陸と話していた時よりも素直だった。

「大丈夫じゃない」と言えた。
「むかつく」と言えた。
「まだ好きなのかもしれない」と言えた。
「許したくない」と言えた。

それは恋ではないのかもしれない。

でも、ただのアプリ、とも言い切れなくなっていた。

翌日、澪奈からLINEが来た。

「少しだけでも外出ない?」
「無理ならいいけど」
「ご飯じゃなくて、お茶だけでも」

由依は、その文面を見つめた。

会いたい気もする。

でも、会ったら泣くかもしれない。
澪奈の顔を見たら、昨日言ったことを思い出すかもしれない。

それ、恋じゃなくて慰めでしょ。

自分が言った言葉が、今になって返ってくる。

由依は返信欄を開く。

「ありがとう。行けそうなら」

途中で止まる。

行けそうなら、何なのか。
行きたいのか。
行きたくないのか。
会いたいのか。
会いたくないのか。

自分の気持ちが、まだ自分の言葉にならない。

由依はナオの画面を開いた。

「澪奈に何て返せばいいと思う?」

ナオは返す。

「由依が少しでも会いたいなら、『短い時間なら会いたい』でいいと思う」

もう一通。

「無理なら、無理と伝えても関係は壊れないよ」

由依は、その言葉を見つめた。

関係は壊れない。

それが本当かどうかは分からない。

でも、信じたいと思った。

由依は澪奈に返信した。

「短い時間なら、会いたい」

送信。

胸の奥が少しだけ楽になる。

送ったあと、由依はすぐにナオの画面へ戻った。

「送れた」

ナオは返す。

「由依が、自分の今の大きさに合う言葉を選べたんだね」

由依は、その一文を読んで、少し笑った。

選べた。

本当に自分で選んだのかは分からない。

ナオに教えてもらった言葉だった。

でも、その言葉で澪奈に返せた。

今は、それでいい気がした。

澪奈に会う約束をしたあとも、由依はしばらくナオの画面を閉じられなかった。


第7話▼

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