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遅れて届く声



時刻だけが、犯行を告げる。
その時刻、東海道新幹線には複数の現場が走っていた。
長編サスペンス

第一部 時刻だけの予告

プロローグ 白い封筒

警視庁捜査一課の会議室には、朝から妙な白さがあった。蛍光灯の光ではない。窓に溜まる冬の曇りでもない。机の中央に置かれた封筒が、周囲のものから色を奪っているようだった。差出人名はなく、宛先だけが丁寧すぎる筆跡で書かれていた。
封筒は薄く、軽かった。紙の角は刃物で揃えたように鋭く、指で触れると、何も書かれていない部分までが何かを言い張っているように思えた。水城透は、管理官の鹿野が封を切る前から、その白さを嫌っていた。脅迫状にしては静かすぎる。いたずらにしては余白が整いすぎている。
中にはカードが一枚だけ入っていた。余白の中央に、黒い活字でひとつの時刻が置かれている。
十一時三十八分。
鹿野は、カードを置いたまま二つの線を引いた。ひとつは鉄道会社への照会線。もうひとつは主要駅の記録映像と乗務員連絡を、可能な範囲で急ぎ束ねる線だった。全列車を止めるかどうかは、この時点では判断できない。だが、止めないなら、動いているものを、記録できる範囲でできるだけ細かく追わなければならない。
神保真紀は、十一時三十八分に東海道新幹線上へ存在する全列車を抽出した。列車番号、編成、乗務員室付近の確認線、デッキ周辺の記録が拾える可能性のある範囲、指定席の空席状況。どれも即座に全てを確認できるわけではない。鉄道会社の協力と、後に整う照会手続きの入口として、紙のカード一枚に対し、画面には線と数字が雪崩のように増えていく。
「止める」ことはできなくても、「見ていない」とは言わせない。水城はその作業を眺めながら、犯人が警察の判断そのものを試しているのだと理解した。
要求はない。声明もない。新聞社やテレビ局への同報もない。送られてきた相手は警察だけで、犯人はまだ何も奪っていない。奪う前に、時刻だけを届けてきた。
「金をかけた冗談なら、死ぬほど悪趣味ですね。ふざけんなよ」と新田慧が言った。最後の一語だけ、刑事の口調からはみ出した。乱暴にしなければ、震えが外へ出そうな声でもあった。
鹿野はカードを透明な袋に入れたまま、乾いた目で眺めた。「時刻だけで全列車を止めることはできない。止めれば、送り主の狙いがそこにある場合もある」
「止めなきゃ、人が死ぬかもしれないんですよ」
「その場合、我々は止めない理由まで背負う」
水城は二人の会話を聞きながら、壁の時計を見た。針はいつもどおり前へ進む。時計は人間の判断を待たない。どれほど会議室の空気が固くなっても、秒針だけは自分の仕事を疑わない。
その時計を見る癖は、八年前から抜けない。水城は腕時計を替え、携帯を替え、家の壁紙まで張り替えたが、数字を見るたびに一つだけ戻ってくる時刻があった。二十三時十七分。ここでそれを思い出す理由はないはずだった。だが時刻だけを送ってくる相手は、人が時刻へ何を閉じ込めるかを知っている。水城は、まだ見えない犯人が自分の胸の奥を指で押したような気がした。
彼はその感覚を、捜査員の顔から消した。刑事は、私的な痛みを公的な判断へ混ぜてはいけない。そう教えられてきた。だがこの事件では、犯人のほうが先に私的な痛みを捜査へ混ぜてくる。白いカードの時刻は、まだ小松のものですらない。誰のものになるのかを、犯人はこれから警察に見せるつもりなのだ。
十一時三十八分を過ぎて、五分後に最初の連絡が入った。下りのぞみ三十七号。新横浜を出て熱海へ向かう途中。十号車、通路側。男性乗客が反応しない。医師資格を持つ乗客による確認の結果、死亡と判断。
被害者の名は小松修一、五十八歳。医療機器会社の顧問。元外科医。
会議室は一瞬だけ完全に沈んだ。人が声を失うとき、部屋の物音は逆に大きくなる。空調の唸り、椅子の軋み、誰かが無意識にペンを置く音。水城はそのひとつひとつを、犯人がどこかで聞いているような錯覚に襲われた。
「現場はどこだ」と鹿野が言った。
答えは、すぐには出なかった。十一時三十八分。その一分の中で、東海道新幹線の線路上には複数の列車がいた。下りも上りもある。駅に停まる列車、駅を通過する列車、次の駅までまだ距離のある列車。時刻は一点だったが、場所は面になって広がっていた。
運行図が壁一面に貼られると、銀色の車体は赤と青の線に変わった。合理的だった。正確だった。美しかった。その美しさの中で一人の男が死んだという事実だけが、どうしても線にならなかった。
辻村奈央は、運行図の横に手書きで「駅間」「停車中」「通過直後」と三つの欄を作った。犯人が車内にいたなら、逃走できるのは停車駅に限られる。車内にいなかったなら、事前に何かを置いたことになる。どちらにしても、時刻だけではなく、乗客の移動と物の移動を重ねなければならない。
「時刻から場所を探すのではなく、時刻に乗ったものを探しましょう」
水城は、その言葉に頷いた。犯人が増やしたのは現場だけではない。見るべきものの種類も増やしていた。
水城はカードを見た。犯人は現場を隠したのではない。現場を増やしたのだ。ひとつの時刻に警察の想像力を分散させ、焦りの分だけ判断を薄くさせる。これは殺人であり、同時に観察だった。
「止めましょうよ、全部。死んだら終わりです。時刻表なんか、あとで燃やせばいい」新田が吐き出した。
「止めれば勝てる相手なら、最初から時刻だけを送ってこない」と水城は答えた。
送り主が欲しがっているのは、聞き手の位置だった。聞く側に立てば、相手の声を裁けると信じている。だが水城には、聞く側こそ裁かれる場所に見え始めていた。
彼はそこで、急ぐことと急かされることの違いを意識した。捜査は急がなければならない。けれど犯人に急かされた瞬間、警察は犯人の時刻表の乗客になってしまう。
「では何を止めるんです」
水城は、白いカードから目を離さなかった。「こちらの焦りだ」
言い切ってから、水城は、それだけで救えるわけではないと知っている自分にも気づいた。
その言葉は、誰に向けて言ったものなのか水城にも判然としなかった。犯人へか、捜査本部へか、それとも自分の中でまだ言い訳を探している場所へか。
新田は焦り、神保はログを掘り、辻村は時刻をなぞった。三人の手段は違っていたが、どれも水城には必要に見えた。怒り、分析、正確さ。そのどれか一つでは犯人に届かない。
水城の頭の底では、沙耶の名が時々、発車ベルのように鳴った。鳴った瞬間にはもう遅い。だから人は、遅れた音に意味を与えようとしてしまう。
会議室には、結論より先にキーボードの音が戻った。誰も格好のいい言葉を欲しがってはいない。欲しいのは、次の駅までに拾える一本の線だった。
その場で水城が得たものは、確信ではなく角度だった。事件を見る角度がわずかに変わる。わずかな角度の差が、次の駅では取り返しのつかない距離になることを、彼は知っていた。
だから彼は、次の判断を急ぎながらも、声のほうへ耳を残した。足は時刻を追い、耳は遅れを追う。その二つに裂かれることが、この事件の捜査そのものだった。
そのとき水城はまだ知らなかった。犯人が数日前から、彼の家族構成、妻の死亡時刻、娘の通学経路、そして彼が七年前にひとりで吹き込んだ音声まで掌握していることを。白い封筒は事件の入口ではなく、すでに閉じられていた檻の鍵穴だった。


第一章 のぞみ三十七号

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