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サンイチイチの思い出コレクション#01 『死ぬまで生きよう』


サンイチイチの思い出コレクション #01
yamepin(当時51才・ライター)の記憶


あの日夫が乗っていたクルマの写真は、わが家の震災の象徴。痛々しい姿ですが、私にとっては不幸の記録ではありません。
いつ何が起こるかわからない生涯、だいじな人たちと気持ちを通わせながら、死ぬまで生きようと思わせてくれる1枚です。



あの日は近所の友人2人を乗せて、大洗へ出かける予定でした。ゆっくりとランチをして、そのあとおいしい佃煮屋さんや市場に寄るつもりで。

ところが仕事の都合で、その朝になってから泣く泣く延期をしてもらうことに。
私はよほどのことがない限りドタキャンをしません。それを知っている友人が、「了解!でも忙しくてもご飯は食べるでしょ?うちにおいでよ」と、お昼に呼んでくれました。

もう1人の友達と共に手作りのおいしいごはんをご馳走になり、私だけ先に帰りました。そして自宅でひとり仕事をしている時に地震が来たのです。

もし予定通り大洗に出かけていたら、立ち寄り先は津波の被害にあっていた場所でした。たとえ無事だったとしても、水戸市内の家に着くまで何時間かかったかわかりません。


2011年3月11日、金曜日、14時46分

ぐらぐらと揺れる家の中で薄っぺらいテレビを片手で押さえながら窓の外を見ていると、向かいの家の奥さんが、愛犬チロルを抱いて外でおろおろしているようすが目に入りました。
私も外へ出て、何度も何度もくりかえす揺れを共に過ごしました。

電柱がありえない振り幅で揺れ、アスファルトにおおわれた地面は薄い下敷きを両手でペニョペニョさせたように波打っていました。

少しして揺れがおさまった時、貴重品を取りに家に入りました。花瓶やガラスの置物が壊れていたので、家には土足で上がりました。あちこちに物が散乱して、特に二階は足の踏み場もありません。
「あら、こんなところにヒーターを置いていたかしら?」と思ったものは、棚から転がり落ちて下を向いた電子レンジでした。



高校2年生だった長女は学校で被災しました。
最初の大きな地震直後に一度安否を気づかう電話をくれましたが、その後は電話が通じなくなりました。
生徒たちは薄着のままで屋外退避。大量に割れたガラスで足を怪我する子がいたそうです。

少し落ち着いたところで、娘は先生に許可をもらい、すぐ近くの小学校にいる妹のところへと向かいました。

後から友達に聞いたところによると、家が遠く親との連絡も取れない子らは帰路を断たれ、寒い屋外で迎えを待つことに。
あの日は夕方からの冷え込みが厳しく、多くの子が震えながら過ごしたそうです。



当時小学6年生だった次女も学校で被災。
体育の授業のため体操着に着替えている時に地震が発生し、担任の指導でクラス全員まずは机の下に潜りこみました。

しかし窓ガラスが割れ、廊下と教室を隔てる腰高窓のついた壁が教室側に倒れてきました。ついには天井板がはがれて落下してきたあたりで、見回りにきてくれた他のクラスの先生が「早く外へ出なさい!」と。その声で一斉に校庭に避難して事なきを得ました。

次女は、1度はいま脱いだばかりの制服を引っ張ってみたものの、はがれ落ちてきた天井板と机に挟まれて抜けなかったそうです。

この小学校は遠方からバスや電車で通ってくる生徒が多く、やはり寒い屋外で夜遅くまで、食事もとれずに親の迎えを待つことになるのでした。



夫はその時、水戸駅近くのとある事務所を訪問していました。
水戸東照宮の下にある駐車場にクルマを停めていたのですが、その駐車場の壁際に停めていた車列が崖くずれの下敷きになりました。

その時に知人が撮影した写真が地元新聞やAP通信社などの報道に使われ、茨城もまた被災地であることを海外にも伝えました。

1台だけ運転席に人が乗っていて、周囲にいた方たちに助けられながら窓から外へ出ることができました。幸いにもバック駐車をしていたので怪我はなかったそうです。
他のクルマもすべてバックで停めていたのですが、夫だけが頭から壁に向かって停めていたので、もし地震の時に運転席にいたら、彼はもうこの世にはいなかったでしょう。

1年にたった1度の用事でおもむいていた場所が、偶然にも子供たちの学校の近くだったことも不幸中の幸いでした。
少ししてから次女を迎えに行き、長女とも落ち合い、5kmちょっとの道のりを3人で歩いて帰り、まだ薄明るいうちに帰宅することができました。



あれから15年が経ち、その間さまざまに復興対策が講じられてきました。
茨城県の沿岸部にも防潮堤が築かれ、海の見える気持ちのいい海岸線の景色が、コンクリートの壁へと変わりました。
視界はきっちり遮るけれど、東日本大震災と同程度の津波に対して、これで防げるとはまったく思えない高さの防潮堤を見るたびに、本当に必要なことはそういうことではない気がしています。

津波で大きな被害を受けながらも、「海は悪くない」と話していた、東北の被災地の方の言葉が耳に残ります。



写真は後日、瓦礫の下から引き出されたうちのクルマ、その名も「noteくん」。斬新な逆カブリオレスタイルです…

被災してしばらくの間はワイヤレスキーに反応し、瓦礫の下でランプを点滅させながら「ピッピッ」と鳴っていましたが、現場検証に立ち合ったこの時にはさすがにもうダメでした。
試しにドアのボタンを押してみたら、バチンと音がしてロックを解除してくれました。そしてそれきりもう応えなくなりました。
健気に、最後のお別れをしてくれたように感じました。




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