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サンイチイチの思い出コレクション#03 『やりたいことは今やっておかないと』


サンイチイチの思い出コレクション #03
UMINOさん(当時55歳・茨城県立水戸飯富特別支援学校教員)の記憶


あの日は勤めていた学校の、小中高合同の卒業式でした。

給食がない日だったので、少しだけ残っていた卒業生をのぞいて、お昼過ぎにはほとんどの生徒は帰宅していました。

来校される保護者の皆さんに駐車場を使っていただくために、私のクルマは近くの原っぱに駐めさせてもらっていました。

学校の隣にはクリーニング屋さんがあり、原っぱはその脇の少し高いところにあります。直線距離は近いのですが、学校を出てからぐるっと回り込んだ先にあるので少し歩きます。
黒い式服から普段着に着替え、1人でそこにいる時に地震がきました。



校舎は鉄筋コンクリートの3階建てで、屋根は民家のような三角の瓦屋根になっています。あれはスペイン屋根と言うのでしょうか、その屋根の尾根の部分が崩れるところが見えました。

校舎の入り口にはスクールバスを停めて生徒が乗り降りするためのひさしがあるんです。鉄パイプの上に屋根が乗ったもので、独立して建っているのですが、その屋根がグワングワンと揺れていてね。
駐めてあるクルマもグングン揺れて、ちょっといつもの地震とは違うなと。

そうして上から見ていたら、中にいた方たちがどんどん校舎から逃げて出てくるんですよね。

ひさしを支える鉄パイプが折れそうなくらいにしなって、グワングワン揺れている下を通って外に出てくるのを見て、「そこは危ない!」と思ったのですが、どんどん出てくる。

みんな上を見る余裕などないから、そんなに頭上が揺れているとは思わなかったんでしょうね。

校舎内では防火シャッターが自動的に閉まり、あちらこちらでズドンズドン!バタンバタン!と音がして、とても怖ろしかったという話をあとから聞きました。
もし進路が断たれて取り残されたらと思うと、恐怖ですよね。


クルマを置いたままで学校へ戻ると、やがてあちこちから救急車やパトカーのサイレンが聞こえてきました。

職員のなかにはお子さんを保育園に預けている方たちもいるので、皆さん保育園に電話をかけましたがつながらなくて。
みんな不安になっていました。

校舎は倒れそうだし、今まで経験したことのない規模の地震だったので、私も一人で家にいる年老いた母親を思い出しました。



うちは両親が建てた2階建ての古い家なんです。
母はふだん1階の茶の間で、テーブル型のこたつに座ってテレビを見て暮らしています。
その真上に本棚をたくさん置いている私の部屋があり、日頃からこんなに本ばかり置いていたのでは、そのうち床が抜けるみたいなことを言われていたんです。

ひょっとして抜けてないかな、と心配になりました。母親が潰されてるんじゃないかと実家に電話をかけたのですが、つながらない。


学校内はものが倒れたりしてぐちゃぐちゃな状態でしたし、校長の判断で今日は早目に帰っていいことになり、3時半くらいに学校を出ました。

ところがあの日は地震のあとで停電になり、家に帰る途中の信号が全部消えて、道路はごちゃごちゃの無法地帯になっていました。

交差点のたびに「そちらがお先に」とかやり取りをしながら、お互い譲り合ってなんとか通り抜けるんですが、なにせ信号がないので、恐る恐るです。
相当時間がかかって、普通なら30分くらいの道を2時間近くかかったのではないでしょうか。
その間にも時々大きめな揺れがありました。




帰ってみたら母は「おばあちゃん家のなかにいたら危ないから一緒にいましょう」と声をかけてもらって、二軒ほど先の公園にご近所の方と集まっていました。

妻も教員で、別の学校に勤めていました。
そちらの方が距離的には遠いのですが、田舎道なので私より早く家に着いて、母と一緒にいました。

妻の母親が近くのアパートに1人で暮らしていたので、心配だから見に行こうと母と2人で向かったそうです。
途中のコンビニに食べ物を買いに寄ったらしいのですが、もうあまり残っていなくてね。
パンとか少し買えたのかな。大したもの残ってなかったという話でしたね。

その義理の母は出かけていて、水戸駅から1時間ぐらいかけて歩いて帰ってきました。




家のなかはかなりごちゃごちゃでしたね。
玄関の下駄箱が倒れて、塗り壁がボロボロと崩れていました。

ただ食器などは割れたものはなかったんです。揺れに対して強い方向だったのかもしれません。
うちが建ってる場所は昔、軍隊の飛行場があった場所らしくて、平らで地盤が丈夫なので比較的良かったんです。

車載テレビで仙台空港の様子を見て、これはかなり酷いことになっていると知りました。
こういう時は学校の体育館が避難所になるのだろうと行ってみたんですが、体育館はなかが崩れていて、危険で入れませんでした。


その夜はクルマのなかで寝ました。寒さが厳しくて、うちから毛布を持ち出して。
でも母はとてもこんなところでは寝られないと言うのです。危ないからやめた方がいいと言ったんですが、自宅へ戻って布団で寝ました。
言っても聞かないし、しょうがないなと思って。
その日は一晩中つよい余震がありました。


その後しばらくは、義理の母は日中は自分のアパートへ帰り、夕方迎えに行って夜は4人一緒で暮らしました。

仕事の方はもう春休みという扱いになりましたので、日中はほとんどガソリンスタンドに並んだり、水が汲めるところへポリ容器を持参して並んだり。

そんなことをして時間が過ぎていきました。




それまで平穏に日々を繰り返してきたけれど、いきなり変わってしまった。これからは絶えず災害に備えていかなくてはという気持ちになりました。

とにかく、いつどうなるかわからないという気持ちが強くなりましたよね。

大地震は来るか来ないかじゃなくて、もう来るのは前提で、次にいつ来るかという話ですものね。




母が心配していた私の部屋は、本棚は崩れはしましたが、床が抜けることはなく。その後本棚を買い足して、一階にも分散して置くようにしました。

母からは一生かかっても読みきれないから売ってしまえばと言われ、まあ多少は売ったんですけどね、でもなかなかそう完全に処分とはいきません。

私は元々美術系ですので、都内や横浜など関東近郊には時々展覧会を観に出かけていましたが、地震のあとはさらに、今見ておかないといつ行けなくなるかもしれないと思うようになりました。

なんていうんですかね、「やりたいことは今やっておかないと」という気持ちがつよくなりましたね。

新たにキャンバスを買ったりして、しばらく遠のいていたことをもっとしっかりやろうかなという気持ちになりました。


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