メディアの話その108 「だれでもマスメディア時代」
いま、私たちは、全員が「だれでもマスメディア時代」に生きています。
赤ちゃんから100歳を超えたひとまで。
まず、私たちは「だれでもマスメディア時代」のクリエイターです。
だれもが、テキストで、映像で、声で、音楽で、写真で、絵で、自分のメッセージを不特定多数のひとたちに伝えることができる。
しかも、通信費と電気代とプロバイダー使用料を除けば、おおむね「無料」でできる。
翻訳ソフトをつかえば、英語はもちろん、主要な言語で世界中につたえることができる。映像に字幕をつけることだってできる。
ハードウェアは、基本的にスマートフォン一台あれば、たいがいのことはできる。
みなさんは全員が、潜在的に「作家」であり、「ジャーナリスト」であり、「漫画家」であり、「映画監督」であり、「テレビディレクター」であり、「ラジオDJ」であり、「画家」であり、「写真家」であり、「俳優」であり、「歌手」であり、「音楽家」なのです。
そしておなじスマートフォンをつかって、私たちは「だれでもマスメディア時代」の、だれかが使ったコンテンツを(多くの場合)無料で消費することができます。
人間は生まれた瞬間から「メディア」です。
そもそもが、「だれでも」メディアなのです。
「メディア」の定義はいろいろありますが、「さまざまな情報を受発信する媒体・主体」と考えるのが、いちばん適当かと思われます。つまり「コミュニケーション=情報のやりとり」をする当事者、それが「メディア」というわけですね。
周囲から情報を収集し、自分のなかで咀嚼し、考え、行動に移し、あるいは、自分自身が情報を発信する、という生き物ととしての人間の特性は、そもそも「メディア」の定義をすべて満たしているのです。
だから、古来「人間=メディア」なのです。
ただし、このメディアに「マス」ということばがつくとどうなるでしょうか。
人間=マスメディアか。
かつては、けっしてそうではありませんでした。
マスメディアとは、主に、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌のことを指す言葉でした。4大マスメディア、という呼び方もありました。映画や書籍、舞台なども入るかもしれません。
マスメディア、とはなにか?
それは、マス(大量の)コミュニケーションを行う主体のことです。
もっと具体的にいえば、大衆(ってわりと特定の意味がついちゃう言葉ですが)に対して、大量の情報を「一方的」に伝達する技術と装置と権力を持った主体、のことです。
ここで重要なのは、「メディア」は必ずしも一方向の情報発信ではなかったのに、「マスメディア」は、ほぼ一方向の情報発信になる、という大きな違いがある点です。
「メディア」としての人間は、お互いに情報を発信したり、受信したりします。つまり、双方向のコミュニケーションが可能なんですね。
ところが、「マスメディア」においては、情報を発信するのはもっぱら主体であるマスメディア専業者のほうになります。テレビ局やラジオ局、新聞社や出版社ですね。「大衆」はコンテンツを一方的に受け取る存在になります。
「情報」の受信はできても、マス=大量の「情報」発信はできない。
これが、マスメディアに対峙したときの大衆=この場合は、マスメディアに属している人間以外のすべてのひと、のポジションになります。
マスメディアが誕生したのは、グーテンベルグの印刷革命=出版マスメディアの誕生、19世紀の蒸気輪転機の発明=新聞メディアの巨大化、20世紀初頭のラジオの発明=電波メディアが世界に広がる、そして20世紀半ばのテレビの発明と普及=世界が同時にひとつの映像でつながる、と概ね4つの段階に分けられます。
そう新しい技術の発明がマスメディアの誕生を促したわけです。まず技術が先にあったわけなんですね。
21世紀の最初の数年が過ぎるまで、マスメディアと大衆の関係は不変でした。
個々人は、「自分のコンテンツを不特定多数の人々=マスに伝える手段」を持たず、その機能はマスメディアの特権となっていました。
が、それをたった10年で変えてしまう変化が起きました。
インターネットの普及とスマートフォンの登場です。
たった数年で、私たちは「メディア」であると同時に「マスメディア」としての力を潜在的に有するようになりました。
マスメディアの誕生同様、だれでもマスメディアの誕生もまた、技術の賜物だったわけです。
マスメディアを生み出し特権化させたのも、マスメディアを特権的立場から引きずりおとしたのも最新の技術でした。
だれもが、世界のどんな情報をも簡単に手に入れられるようになり、だれもが、世界の中心にたって発言する装置を手に入れてしまったわけです。
いま、街を歩いている人がいれば、スマホをもっている全員が潜在的にジャーナリストであり、パパラッチであり、写真家であり、映画カメラマンです。
いま、SNSを覗けば、書き込んでいる人はもちろん、ただ眺めている人たち全員が、雑誌記者であり、作家であり、コラムニストであり、内部告発者です。
だれが、その役割をはたす資格をもっているか。
インターネットにアクセスできるスマホを持った全員です。
難しいテレビ局の試験を通っていなくても、写真家のしたで修行をつまなくても、新聞記者としてサツ周りを経験していなくても、だれもが、放送局になったり、アーティストになったり、注目の記事を書く可能性を有しています。
既存のマスメディアに属さなくても、だれもが、どんな組織もが、マスメディア的になり得るわけです。
しかも、インターネットとスマホのうえでは、すべてのコンテンツはいったんデジタル情報に変換されますから、新聞や雑誌やラジオやテレビ、書籍や映画、舞台やライブといった従来のメディアの区分けも軽々と乗り越え、コラボレーションし、混じり合ってしまいます。
これは、企業においてもおなじです。
GAFAは、メディア企業としても認知されてますが、グーグルは検索、アップルはパソコン製造、フェイスブックはSNS、アマゾンは通販です。従来のマスメディアとは全然異なる業態です。
でも、インターネット上で、たくさんの顧客データベース=マス=大衆とつながり、情報の受発信ができれば、そこは瞬時にマスメディアになります。GoogleとFacebookはもはや史上最強の広告メディア、というのが、その証拠です。
ただし、以上の変化は、あまりに急激で、個々の私たちはもちろん、これまで独占的な権力を有していたマスメディアの人たちの多くも、頭ではわかっていても、体では理解できていなかったりします。
また「だれでもマスメディア」時代は、だれもがマスメディア的な情報発信ができるチャンスが得られると同時に、だれもがマスメディア的な場所で自分の意図せざるかたちで炎上したり、中傷されたり、過去を暴かれたりするリスクがふりかかる時代でもあります。
そして多くの人が、なによりメディアのプロのはずのマスメディアの中の人が、このリスクの大きさを体感していません。頭では理解していても、体がついていっていません。普通に暮らしていて、街中を裸で歩く人はいません。洋服を着る、という文化的行為が、そのまま社会の規範であり、その規範を破ると、さまざまな不利益を被り、場合によれば法律で罰せられ、自らも恥ずかしい目に遭うことを、子供の頃から教育されているからです。
ところが「だれでもマスメディア」のプラットフォーム上で起きる数々の「炎上」は、メディアのプロや芸能関係者、学識経験者、企業経営者などが起こしているケースが珍しくありません。つまり、一般の方々のみならず、旧来のマスメディアの「主人公」だったひとたちの多くも「だれでもマスメディア」のリスクについては、体感的に理解できていないのです。
だれでもマスメディア時代は、すでに到来しています。
とっくの昔に到来しているよ、という専門家のかたもいらっしゃるでしょう。
けれども、だれでもメディア時代のチャンスとリスクについて、まだまだ多くの人が理解しきれていない。そして社会常識になっていない。
ならば、その補助線として「だれでもマスメディア時代」とはどんな時代なのか、私なりに解説をしてみようと試みるのがこのテキストです。
これからみなさんと「だれでもマスメディア時代」について、じっくり考えていくことにしましょう。
「だれでもマスメディア」時代を理解することは、個々人の幸せと人生のサバイバルに直結します。
個々の企業のビジネスと、社会や顧客、従業員とのコミュニケーションの強化に直結します。
そして、従来のマスメディアが生き残りをかけた戦いを行う上で、必須の概念を共有することに直結します。
それでは、話をすすめましょう。
まず、最初にお話しするのは、「メディアの仕事は仕事が8割」です。
