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「急に具合が悪くなる」と「カッコーの巣の上で」を結ぶ。精神病院の看護師という仕事。

数日前、パルコ劇場で「カッコー巣の上」での舞台を見た。

演出は、松尾スズキさん。

あの話を松尾さんがやるのか。

「カッコーの巣の上で」は、1975年、ミロシュ・フォアマン監督で映画化されている。

アメリカのとある閉鎖的な精神病院。ここに、一人の患者マクマーフィが送り込まれる。演じるのはジャック・ニコルソン。

本当に病人なのか健常者なのかわからない破天荒なこの男が、監視・管理された病棟の「秩序」と「権力」に、その秩序に従う患者たちに自由と混乱をもらたす。ジャックは、アカデミー主演男優賞を受賞している。

で、この病院における監視と管理と秩序と権力の象徴が、看護師長のラチェットだ。

三白眼。への字に曲がった口。骨ばったほお。演じるルイーズ・フレッチャーは、アカデミー賞主演女優賞を受賞している。

何より、アメリカ映画協会(AFI)が発表した「アメリカ映画の悪役ベスト100」において、羊たちの沈黙のハンニバルレクター、サイコのノーマンベイツ、スターウォーズのダースベイダー、オズの魔法使いの西の魔女に次いで、歴代5位の悪役にランクインしている。

もともと原作は1950年代から60年代のヒッピーカルチャーを背負ったもので、権力からの逃走と解放。

かつて閉鎖された精神病院には、犯罪者でもないのに精神病患者が拘束されており、電気ショック療法やロボトミー手術までもが行われていた。実際に行われてきたことらしい。

暴力的な拘束と束縛と閉鎖性の罪を暴き、自由を讃える。

映画の最後はそれで終わる。

映画は、原作のこのスピリッツをストレートに描いている。
公開された時代はちょうどベトナム戦争が終わる年。
そんな時代の背景を受けてだろう、主演の男女、作品、監督と脚本、アカデミー賞総なめ、である。

その「カッコーの巣の上で」を久しぶりに見た。今度は舞台で。

まともに見たのは、80年代、東京の名画座のどこかだった記憶がある。最後のシーンの絶望と希望の混ざったカタルシス。映画館を出ると景色が変わる。いい映画を見た。あの感覚をくれる作品だった。

今回、ラチェット看護婦長を演じるのは江口のりこさん。
映画を見た方ならば、わかるだろう。
いい意味で意外性なく、ドンピシャのはまり役、である。

舞台版の「カッコーの巣の上で」は、テーマそのものは原作と映画を忠実に踏襲していた。一人重要人物のキャラ設定を大胆に変えていたが。そして松尾スズキテイストはがっつり爆発していたが。

舞台を堪能しつつ、またしても、余分なことを考え始めてしまった。

あれ。

さて、ここからは映画「急に具合が悪くなる」の話になる。

ネタバレである。

映画を見ていない方で、ネタバレを、私のノイズで汚染されたくない方は、読まないでください。

ただの妄想なので。

気づいた方もいるかもしれない。

あれ。

もしかして
この舞台の数日前、
公開日翌日に見た
映画版の「急に具合が悪くなる」は、
「カッコーの巣の上で」の返歌として、あるいは批評を踏まえた解として描いた、という側面があるのではないか。

ここでの主役は、真理でもマリールーでも長塚京三の役者でも自閉症の孫でもない。

あの老人介護施設「自由の庭」で働くフランスのベテラン女優マリー・ビュネル演じるべテラン看護師ソフィだ。

実は、映画を見たときに、ぼんやり連想していた。

この看護師、なんだか「カッコーの巣の上で」のあのおっかない看護婦長と重なるなあ、と。

映画を見終わって、その感想はどっかに行っちゃったんだけど、わずか数日後、舞台「カッコーの巣の上で」を観て、あれ、と思ったわけである。

似てるんじゃない。

むしろ積極的に重ねたキャラクターなんじゃないか?

そして、浜松で昨日老母と、我々2人しかいない映画館で、再び「急に具合が悪くなる」を見て、勝手に確信した。

映画のベテラン看護師ソフィは、カッコーの看護婦長ラチェットだ、と。

ソフィが「悪役」ということではない。

彼女は、もちろん「悪役」ではない。

看護師という仕事の職業倫理と、自分の倫理とを重ね合わせた、本当のプロフェッショナルだ。甘えのない、何より、自分に対して甘えのない、かっこいい人だ。

にもかかわらず、映画では冒頭、このソフィが「悪役」に見えるような演出が行われる。 

無表情の三白眼。突き出たほお。主人公のマリールーが目指す、ユマニチュード。

医師や看護師や介護士と患者や入居老人たちが上下関係でなく、医師と患者の関係ではなく、同じ目線で、同じ立ち位置で向き合うことで、理想的な治療を、環境を、目指す。

そんなユマニチュードを「夢想」とみなし、事故が起きたらどうするんですか? 全て現場が責任を持たなければいけなんですよ、と、明確に反旗をあげる。それが看護師ソフィだ。

ソフィに対して、マリールーは激昂して叫ぶ。

あなたが間違っている、と。自分を恥じるだろうと。

看護師ソフィは、いう

現場を見下している。馬鹿にしている。やめさせていただきます、と。

ソフィは権力者ではない。
むしろ権力者にならない。
看護師長の道を自ら断り、現場に立ち続ける道を選ぶ。
プロフェッショナルであり続けようとする。

権力者は、看護師ソフィではない。

ディレクターのマリールーなのだ。

映画「急に具合が悪くなる」は、「カッコーの巣の上で」の権力の構造を反転させてしまう。

カッコーで描かれた権力の象徴だった看護婦長ラチェットと一見そっくりな立ち居振る舞い、そして施設で「プロによる患者の管理」を訴え「自由を束縛する」行為を堅持しようとする看護師ソフィこそは、管理される側の1人であり、その労働を「搾取」される側であると。

ところが、すぐにこの構造に映画を観る側は気づかない。それほどまでに看護師ソフィは、一見「憎しにくしい」存在として演技し、映されているから、である。

濱口監督、むっちゃ意地悪である。

でも、なぜソフィをあえて悪役的に冒頭で見せたのか。

それは、この映画のおそらくは主題の一つ(主題がいっぱいあるので1つ、である)、構造と解放、権力と被権力、資本と労働の相剋をどう描くか、という困難に対する解に行き着くために、ソフィは、冒頭、カッコーの看護師長ラチェットである必要があったのだ。

ソフィの反旗に愕然としたマリールーは、真理の舞台を見て、救われ、同時に、絶望する。

舞台は、イタリアで実際にあった精神病院の解放、それがテーマだった。「近づいてみると、誰もまともじゃない」。

この舞台の「自由」に私は行き着けない。と。不可能である、と。

舞台が跳ねた後、マリールーと真理の2人は夜通し歩き、議論する。

資本主義と権力と搾取。内側と外側。街と田舎。先進国と途上国。

真理の分析に、マリールーはいう

「それって含みがある?」

その含みとは?

まさに自由を目指そうとするマリールーこそが、この介護施設では、ディレクター=権力者なのだ。搾取されるのは労働者=看護師=ソフィの方なのだ。患者や老人が搾取されているのではない、と。

もちろん、真理はそんなことを言わない。でも、マリールーはこの瞬間このねじれに気づいてしまった。マリールーは、カッコーの巣の上での、マクマーフィーじゃない。むしろ彼女こそ、看護師長ラチェットの立ち位置なのだ、と。

一方の看護師ソフィは、プロとして今まで多くの人を助けてきた。

プロじゃないとできない事は何なのかを知り尽くしていた。

ソフィは別に好きで拘束したわけじゃない。管理しているわけじゃない。好きで制服を着てるわけでもない。

プロがプロとして仕事をしないと回らないことを知り抜いている。
プロだからこそ助けられることがある。
病院のシステムが、病院の構造が、施設のシステムが、施設の構造があるからこそ、より多くの人が助けられる。

それをたくさんのおそらくは失敗を通じて知っているからだ。

だから彼女はあくまで現場の1人として、ボトムアップの立場として、ある種、夢想的なトップダウンを行うマリールーというディレクター=権力に、労働者として反旗を翻す。

つまり、この映画におけるマクマーフィは、ソフィの方なのだ。

この反転構造に気づいて、マリールーは凍ってしまう。

一方、真理は、すでに気づいている。死を前にしたからこそ。

資本主義の構造を理解すること、その限界を知ることは重要だ。

でも、資本主義を否定しても、先に進まない。自分もまたこの資本主義の構造のおかげで暮らしているし、救われていると。

じゃあ、どうすればいい?

映画は、徐々に「カッコーの巣の上で」の返歌であることを、その正体を、見せていく。

まず、この「自由の庭」と名付けられた老人向けの介護施設こそは、100年以上の歴史を持つ「精神病院」だった。

そして。ソフィは、精神病院時代から勤務していた。

終盤。
看護師ソフィは、マリールーを相手役に指名し、自らの話を老人たち、スタッフたちに話す。ソフィは、看護師だった母1人に育てられ、誇りを持ってこの仕事を選んだ。

選んだ職場は精神病院だった。どこ? 今「自由の庭」と呼ばれるこの介護施設だ。ここは、精神病院だったのだ。そして彼女はそこの看護師としてキャリアを始めたのだ。

最後に再び、ソフィは、カッコーの看護師長ラチェットと重なる。

マリールーとソフィを繋げるのは、亡霊である真理だ(なぜ亡霊なのかは、私のこちらに書いた。長いが、気が向いたら読んでください。こっちもネタバレです。


亡霊の真理は、看護師ソフィに「なぜマリールーを嫌うの」と尋ね、答えのないまま「子守唄を歌って」とねだる。ソフィは歌う。

亡霊の真理のために子守唄を。

このシーンが教えてくれる

ソフィは本当に優しい看護師であることを

亡霊の真理は、マリールーに「なぜソフィを嫌うの」と尋ね、「でも、あんたたち似てるわよ」と茶化し、マリールーは「むかつく!」と笑う。

そして2人は、マリールーとソフィは
夢想的なトップダウン、現実的なボトムアップの立ち位置を崩さずに、道を重ねていく。

終盤ののマリールーの演説は、ストレートにこの映画のテーマの解題だ。

あまりにストレートで、びっくりする。構造を崩すのではない。

私たちは不完全だ

だから助けて欲しい

構造の中に構造じゃないものを混ぜる。

内側に外側を混ぜる。

「カッコーの巣の上で」が示した権力に対する答えは「逃走」だった。

逃げちまえ、と。

でも、逃げることなんかできない。

どこに行ったって、権力は、構造は生じる。

そもそも逃げた先に必ず生じる。

逃げた連中の権力と構造ができる。逃げたと思っているから始末が悪い。

自分が権力と思っていない人間の権力と構造ほど無自覚で暴力的なものはないからだ。

じゃあ、どうすればいい?

逃げる代わりに、壊すのか。

逃走する代わりに闘争するのか

違う。

混ぜちゃおう。

外側と内側を、医師と患者を、看護師と老人を、経営と現場を、
混ぜちゃおう。

お互いマッサージをするみたいに。

逃走じゃなく、混ぜるとマッサージ。

闘争と逃走から、混ぜるとマッサージ。

「カッコーの巣の上で」から50年経った「急に具合が悪くなる」が出した解、である。

エンドロールの膨大なスタッフ、フランスと日本の人たちの名前、企業の名前。これをみるとつくづくわかる。権力と構造がないと、この映画は決してできない。だからこそ、飲み込まれるのではなく、否定するのでもなく、混ぜちゃえ、と。

何より映画という構造に、磯野真穂さんと坂野真生子さん、たった2人の往復書簡という個人を混ぜたのが、この映画なのだから。

映画監督という権力者、濱口竜介さんの決意、である。

・・・もちろん。全て私の「妄想」だ。


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