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油を掛けられ続けられた石仏地蔵「西岸寺/油掛地蔵」芭蕉が尊敬する師【京都伏見シリーズ/京都伏見・山科シリーズ】

油を掛けられ続けた地蔵菩薩は2cmほどの油の鎧で出来ており、本来のお姿は不明のようだ。取ると油で痛んだ石仏なので壊れちゃうので、そのままにしている。
そんなレア石仏を観に行くと、たまたまお世話をしている方と出会い、特別に開けてくれた!少子化で色々継続も難しいなど多々問題はあるよう。
 さて、芭蕉の句碑がある。実は芭蕉が尊敬する僧が居たので、ここに来たそうな。そんな僧の存在や墓についても教えていただいた。

 あと3分遅かったら、濃いものは書けなかった。早くても掃除などしていただろうからパッと見て帰っていたと思う。お世話が終わったのに、いろいろ説明していただいたり、上にあげていただき、ありがとうございます。

 聞き忘れたのは、本尊脇の天満坐像のことだ。。あと、地蔵盆でこの油掛地蔵を主にしている地域があるのかな??
 毎年行われる「京都浄土宗 寺院特別大公開」に参加したこともあるようなので、その時に行って聞こうと思う。

変更履歴
2025/04/29:初版


▼HP▼アクセス

京都府京都市伏見区下油掛町898
※境内に駐車場があるように思えますが、入り口部分は近くの店などに貸しているようです。

▼見どころ

→西岸寺/油掛地蔵山門と由緒・歴史

油懸山地蔵院西岸寺と号する浄土宗の寺で、天正18年(1590)雲海上人によって創建された。地蔵堂には、俗に油懸地蔵と呼ばれる石仏の地蔵尊が安置されている。寺伝によれば、昔、山崎(乙訓郡)の油商人が門前で転び、この地蔵尊にこぼした油の残りを灌いで供養し行商に出たところ、商売が大いに栄えたといわれ、以後、この地蔵尊に油をかけて祈願すれば願いがかなうとして、人々の信仰を集めている。境内には「我衣にふしみの桃のいづくせよ 芭蕉」と自然石に刻まれた句碑がある。これは、貞享2年(1685)、当寺の第3世住職任口(宝誉)上人を訪ねた芭蕉が、上人の高徳を当時の伏見の名物であった桃に事寄せて、その徳に浴したいと願って詠じたもので、碑は文化2年(1805)に建設された。なお、地蔵堂は、明治維新の鳥羽伏見の戦いで類焼したため、明治27年(1894)に一度再建された。現在の地蔵堂は、その後、昭和53年(1978)に再び建立されたものである。京都市
  • 油懸山(あぶらかけざん)地蔵院西岸寺と号する浄土宗の寺

  • 1200年代後半から1300年代前半、伏見天皇は地蔵信仰が篤かったよう

  • 1290年か1317年、別御殿があったこの地を下賜し、「地蔵院」と号したとされる

  • 1590年、雲海上人によって創建

  • 地蔵堂には、俗に「油懸地蔵」と呼ばれる石仏の地蔵尊を安置している

  • 寺伝によれば、乙訓郡の大山崎辺りの油商人がこの地蔵尊に油を灌いで供養し行商に出たところ、商売が大いに栄えたようで、以後、この地蔵尊に油をかけて祈願すれば願いが叶うと、人々からの信仰を集めた

  • 境内には、「我衣(わがきぬ)にふしみの桃のしづくせよ 芭蕉」と自然石に刻まれた句碑がある

  • 1685年、第3世住職・任口上人(宝誉)を訪ねた芭蕉が、再会の喜びを当寺の伏見の名物であった桃にことよせて詠じたもの

  • 1805年、前述の芭蕉の句を碑に建設

  • 地蔵堂は、明治維新の鳥羽伏見の戦いで類焼

  • 1894年、本堂再建

  • 1978年、地蔵堂再建

  • 今でも油関係の会社が参拝しているようで、コロナ前は行列で徒歩で来られたようですが、コロナ後は社長含め車二台で来るようですね

→西岸寺本堂

 浄土宗知恩院派の寺院で、知恩院系の方が兼務されている寺。2024年に参拝したときにお世話係の方が教えていただきました。

 本尊は「阿弥陀如来」のようですね。右手奥には法然上人と善導大師像が安置されているようです。2014年10月の浄土宗特別大公開で開いたようです。そろそろ再度開いてほしいかな・・・。

 この方がこちらの本堂に上がったようなので、参考にどうぞ。秀吉の大河ドラマが決まったようなので、その時に御開帳あるかも。

→地蔵堂「油掛地蔵/役行者/飛梅天満宮の神様」

 一般的にお地蔵さんは水をかけるが、ここのお地蔵さんには油を注いで祈れば願いが叶うとする。地蔵堂再建のとき、京都府が地蔵尊の調査を申し入れたが、檀家の人たちが、「油層は先祖の信仰の積み重ね。削り取られるのはかなわん」と断った歴史がある。そんな寺なので、今でもお世話係が掃除をしている。この日も朝に掃除して、また昼に来るんですと仰っていました。特別に開放していただきありがたかったです!

浄土宗のお寺で、油懸地蔵院西岸寺といいます。天正18年(1590)雲海上人によって創建されました。通称「油懸地蔵」として有名で、町名の油掛町も「油懸地蔵」に由来します。 寺伝によれば、昔、乙訓郡山崎の油商人が当寺の門前で油桶を流してしまい、諦めて残りの油を地蔵尊に注いでそのまま立ち去ったのです。その後、商人は商運に恵まれ大金持ちになったといいます。それ以来、願いごとがある人は油を注いで祈ると霊験があるといわれ、人々の信仰を集めました。 お地蔵さんは石の仏さまで、立ち姿が浮き出るよう彫刻され、右手には錫杖、左手に宝珠を持っています。お顔が美しく、なで肩、大きな胸あきの彫法、錫の部分の大きく立派なことなどから、鎌倉時代の作と言われています。銘文が刻まれているようですが、昔から油を掛けて祈願され、油が2㎝も厚く積り、調べようがありません。境内には、芭蕉が当寺3世任口上人を訪ねた折に詠んだ句の碑もあります。
地蔵尊は伏見天皇・正親町天皇の御信仰篤く、正應3年(1290)不思議の霊験ありしにより、文保元年(1317)伏見院別院御殿(当山の現在地)を下賜せられ、地蔵院の称号を賜った。 油掛地蔵尊の起こりは往昔山崎(乙訓郡)の油商人が、この地蔵尊の門前で転び油桶を落とし油を流してしまった。たいせつな油を失って落胆したが、残った油を地蔵尊にかけて行商に出たところ大いに栄え店は繁昌した。以来、油をかけて祈願すれば願望成就すると信仰され、油掛地蔵尊と称するようになった。地蔵尊は石仏で高さ72.2㎝、幅80㎝の花崗岩の表面に、像高1.27m(立像)を厚肉彫にしたもので、右手に錫杖、左手には宝珠を捧げている。地蔵尊の造立は鎌倉時代といわれている。

 堂内には高さ1.7m、厚さ80cmの花崗岩に像高1.27mの浮き彫りにされた石仏の「地蔵菩薩立像」が安置されている。とあるが、寺のお世話係をしている方の説明は2cm以上と言われていました。
 花崗岩でも油で長く覆われているので、油を取ると形が崩れる可能性があるようで、そのままなんだそうな。本当のお姿は、凄く奇麗だったら面白いなと思ったり。

 かつて、油を独占販売していた「大山崎油座」の商人が門前で転倒し、油を流してしまう。桶に残った僅かの油を地蔵に掛けて帰ると、その後、商いは栄え大長者になったとさ。そこから、この地蔵尊に油をかけて祈願する信仰が生まれたとされる。

 高さ約150センチ、幅約80センチの花崗岩製です。厚肉彫りで、右手に錫杖、左手に宝珠を持つベーシックな地蔵菩薩。面相は柔和で美しく、撫肩で大きく胸を開く作風です。錫杖輪部分が大きく立派なことから、鎌倉時代の造作と見られている。

鎌倉時代の作とされるお地蔵さま。山崎の油商人が門前で転んで桶を落とし、油を流してしまいました。残った油をお地蔵さまに掛けて祈願したところ、その後、商いが大いに栄えて富豪になったと伝えられています。以来、このお地蔵さまに油を掛けて祈願すれば、商売繁盛、願望成就、家内安全の御利益があるとされ、信仰を集めました。町名はこのお地蔵さまに由来します。

↓      日本植物油協会
↓凄く「油掛」について詳しい 

 そうそう、確かに私のNOTEにも「油発祥地=大山崎」と書いている。

社伝によると平安時代、神勅により当宮の神官が「長木」という油しぼり道具を作ったといわれます。長さ約6メートルの八角形の柱を3本組み合わせ、油をしぼるための部品を挟みこみ、縄で締め上げて荏胡麻(エゴマ:シソ科)の実を押しつぶして油を作りました。
これによって神前に捧げる灯明の原料である荏胡麻油を大量にしぼることができるようになりました。
中世になると当宮の油神人は「荏胡麻油」の製造・販売の独占権を認められます。山崎の油売りたちは日本中に材料のエゴマの買い付けに出向き、京の都に油を売りに行きました。
離宮八幡宮は「本邦製油発祥の地」として日本中の油商から崇敬され、今に至っています。

↓私のNOTE

 元に戻します。m(__)m
 脇侍には「飛梅天満宮の神様」と「役行者」です。天満宮って・・・菅原道真で神仏習合になるな・・・。

→芭蕉の句碑

芭蕉翁塚・任口上人 我衣にふしみの桃の雲せよ 貞享2年(1685)任口(宝誉)上人の高徳を慕ってたずねた芭蕉が出会の喜びを当時伏見の名物であった桃にことよせて「我家にふしみの桃の雫せよ」と詠じたもので「野ざらし紀行」には「伏見西岸寺任口上人にあふて」と前書がある。碑は文化2年(1805)の建立である。 任口上人は当山の3世住職。重頼門下の俳人。法名は如羊と称して、宗因に連歌・維舟に俳諧を手ほどきし、晩年、談林の長老として慕われた。当山に訪れる客は多く西鶴や其角、玖也、季吟 意 らの当時の著名な俳人も多く足をとめた。任口上人は、貞享3年(1681)81歳で示寂し、当山墓地に祀られている。西岸寺

松尾芭蕉は、1684年に『野ざらし紀行』の旅に出る。西岸寺3世の宝誉を訪ね、詠んだ句碑がある。
 「我衣(わがきぬ)に ふしみの桃の しづくせよ」
上人は芭蕉とは俳句仲間であったようですね。俳句の意味は、「伏見には日本一という桃の林があって、その桃からの雫が自分の衣を濡らすように任口上人の徳もいただきたい」というものです。因みに任口上人は北村季吟の門下で如羊と号し、芭蕉とは同門で、境内墓地には上人の墓がある。井原西鶴などの著名な俳人も多く訪れたそうな。

 ここの近所の松本酒造のブランド冷酒「桃の滴」の名前もここから来ていると思います。お世話係の方も、オススメしていましたが、この由緒からだなと本NOTEを書いていて思った。
 さらに、伏見城は廃城となったとき、跡地には桃の木が植えられ「桃の花見を楽しむ名所」となったことから、この一帯が「桃山」と呼ばれるようになったとさ。

→芭蕉の句碑ゆかりの上人の墓

 芭蕉の句仲間で、有名人も会いに来た名僧のお墓があります。お世話係の方が教えてくれました。ここは知らない人は多いんじゃないですかね。

▼メディア情報

オマケ:京都における地蔵菩薩信仰をめぐって

これ以降は本NOTEの下にあるコメント欄で追記します。

▼旅行記

京都ツウしか知らない場所!京都の藤/藤原道真💛明子の家/淀君念持仏/松尾大社展へ!◆京都伏見山科⑧中京⑪|やんまあ@旅行記 (note.com)

▼セットで行くところ



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