★京都纏め★幻の「法勝寺」を追う【平安京シリーズ】
平安京の法勝寺や成り立ちを纏めながら神社仏閣をリンクさせてみた。法勝寺には大きな池をもつ庭園があったそうで、これは藤原道長の造営した法成寺をモデルにしたと言われている。法成寺は、僧坊と阿弥陀堂、池付き庭園からなる浄土教的な寺院である平等院鳳凰堂・浄瑠璃寺が代表的で、1022年に金堂ができると金堂を中心に発展した。法成寺は南北朝時代の「観応の擾乱」では高兄弟の本陣になったり、延暦寺の強訴では室町幕府軍の本陣になったが、現在は石碑のみが立っているだけ・・。
▼法勝寺歴史
「ほっしょうじ」と読み、平安時代から室町時代まで平安京の白河にあった寺
1076年:白河天皇が建立
院政期に造られた六勝寺の一つで、六つのうち最初にして最大の寺
皇室から厚く保護されたが、応仁の乱以後は衰微廃絶した
法勝寺の地は藤原氏の別荘地(白河別業)だったが、藤原師実が白河天皇に献上した
1075年、造営開始
1077年、毘廬舎那仏を本尊とする金堂の落慶供養が執り行われた
1083年、高さ約80メートルとされる八角九重塔と愛染堂が完成
白河天皇は「神威を助くるものは仏法なり。皇図を守るものもまた仏法なり」の見地から、仏法を保護し統治した伝説上の金輪聖王(転輪聖王)にならい法勝寺を建立
代々の天皇の尊崇を受けた法勝寺を、後に慈円は「国王の氏寺」と呼んだ「国王の氏寺」とは単なる「家」としての天皇家の氏寺という意味だけでなく、太政官機構の頂点に位置する「日本国の王」の寺院でもあった
白河には他にも次々と寺院が作られ、総称して六勝寺と呼ばれた
法勝寺は六勝寺のうち最初にして最大のものであった
なお白河天皇は譲位を経て、1096年に出家し法皇となった
六勝寺は、法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺
東は岡崎道より300メートル東、西は岡崎道、南は現在の動物園の南、北は冷泉通より50メートル南に囲まれた広大な寺域を有ていた
1185年、文治地震により被害
『百錬抄』では阿弥陀堂が倒壊、九重塔(後述)が破損、三面の築垣がことごとく倒壊したことが記録されている
1208年、塔が落雷で焼失したが、このときは栄西が大勧進になって再建
1326年、後醍醐天皇の命を受けた円観(恵鎮)が再び勧進職となり再興
1342年、火災にあって寺の南半分が失われる
北朝は再度円観を勧進職とする
1349年、再度火災にあって残りの北半分も失われたため、翌年に円観は勧進職を辞するが引き続き住持の立場で再建に尽力
「国王の氏寺」と呼ばれた姿は全く失われて、以後恵鎮門流・あるいは黒谷流などと呼ばれた天台宗の一分派の拠点である小寺院に転落
円観・惟賢死後には再び衰退を見せ始める
応仁の乱以降で絶望的に荒廃
1535年、豊楽門院逝去の際には法勝寺において供養の読経が行われた後は活動は不明
1562年、法勝寺名義の戒牒が途絶える
1571年、終了フラグ
1590年、勅命によって同じ円観門流に属していた近江国坂本西教寺に併合
1919年、法勝寺跡の一部の敷地に、庭師・植治こと7代目小川治兵衛の作庭による池泉廻遊式庭園と、建築家・武田五一の設計による洋館と和館が作られた


▼法勝寺復刻

二条大路を鴨川を越えて東に行った先に天皇の正式な入場門である西大門があった。
寺域は東西二町、南北三町に及ぶ
1077年、金堂・講堂・阿弥陀堂・法華堂などが建立
金堂は現在の東大寺大仏殿にも匹敵する規模で南に広大な池と中島があった
金堂には三丈二尺(約10m)の毘盧遮那仏を中心に胎蔵界五仏を揃えていた
金堂の南の池の中島に八角九重塔が建立されるが、金堂・塔・南大門が一直線に並ぶ様は四天王寺(私のNOTE)のような古代的な構成
蛇足:法隆寺(私のNOTE)も実は四天王寺式の伽藍構成だった説がある。
八角九重塔には大日如来を中心に金剛界五仏が安置され、金堂と合わせて両界曼荼羅の世界を創り出していた
塔が池の中島に建つという点も特異である



逆サイドの奥側は次の通り。





京都に存在した法勝寺は、平安時代後期に白河天皇によって創建された巨大な寺院で、「六勝寺」の一つに数えられます。現在はほとんどその姿をとどめていませんが、これまでの発掘調査によって、その壮大な伽藍の姿が徐々に明らかになっています。
法勝寺の主な遺構
八角九重塔跡: 法勝寺の中心伽藍であり、当時の日本で最も高い建築物であったとされています(高さ約81m)。京都市動物園の敷地内にあり、これまでの発掘調査でその基礎部分である「掘込地業(ほりこみじぎょう)」が発見されています。この塔は、創建後も落雷などで焼失し、再建が繰り返されましたが、最終的には室町時代初期に焼失し、再建されることはありませんでした。発掘調査からは、瓦が多数出土しており、当初は瓦葺きであったことが判明しています。
金堂跡: 金堂もまた非常に大規模な建築物で、基壇部だけでも間口52m、奥行き32m、高さ25m前後と推定されています。宇治の平等院鳳凰堂の2倍もの規模であったとされ、東大寺大仏殿に次ぐ規模を誇ったといわれます。発掘調査によってその基礎が確認されています。
池跡: 法勝寺の伽藍配置には広大な池が設けられていたとされています。八角九重塔は、当初、池の中央の「中島」に建てられたという記録もあります。発掘調査によって池の跡が確認され、池を埋め立てた土からは、瓦など多くの遺物が出土しています。
回廊跡: 発掘調査によって、法勝寺の回廊を構成する遺構(雨落溝、礎石据付穴など)も検出されており、回廊の位置が特定されるなど、伽藍復元の重要な資料となっています。
瓦類: 白鳳時代から平安時代にかけての様々な種類の瓦が出土しており、寺院が長期にわたって維持されていたことがわかります。特に、平安時代後期の瓦が多く出土しています。
礎石: かつての法勝寺の礎石とされる石が高溝や湯坪神社に現存しています。
発掘調査と復元
法勝寺の跡地は、現在の京都市左京区岡崎公園(京都市動物園を含む)にあたります。京都市埋蔵文化財研究所などによって継続的に発掘調査が行われており、特に八角九重塔跡の発見は大きな成果でした。
これらの発掘調査の成果や文献史料に基づいて、法勝寺の伽藍配置の復元研究も進められています。京都市平安京創生館には、法勝寺の復元模型が展示されており、往時の壮大な姿を偲ぶことができます。
かつて京都のランドマークとしてそびえ立っていた法勝寺は、度重なる焼失によってその姿を消しましたが、現在も地下に眠る遺構が、その歴史を私たちに語りかけています。

▼法勝寺の遺構・今でも残る仏像たち
→滋賀 #西教寺 :快慶・行快の仏像「西教寺」は「国王の氏寺・法勝寺」などからの宝物多し
運慶工房?秘仏「薬師如来坐像@重文」 in 客殿@重文
元々は本寺の京都「法勝寺」が応仁の乱で焼失し、復興が難しいと思った天皇が西教寺に移した仏像である。
顔が運慶作にも見える「薬師如来坐像@重文」は醍醐寺に安置されそうなよい薬師で、衣の流れが美しく、薬師の手印ではなかなか見ない形。元々は阿弥陀だった?と疑ってしまった。ただし、運慶かと言えば違うような気がするが、むっちり体形、衣文の流れは絶品。
この仏像は京都・法勝寺の本尊で1590年ごろに西教寺に併合され客殿に安置されたようだ。明治の修復時の記録から、法勝寺本尊であったことは確実。
→京都 #檀王法林寺 :最古の招き黒猫「檀王法林寺」京都と琉球の架け橋
本堂内:阿弥陀如来坐像
本堂向かって左手には阿弥陀如来坐像が安置されている。実はこの阿弥陀如来坐像が気に入った。平安時代の定印×結跏趺坐のオーソドックスな阿弥陀如来坐像である。(http://www.dannoh.or.jp/heirloom/heirloom01_amida_zazou.html)
この仏像は、1114年に白河法皇の「法勝寺」の西にあった「蓮華蔵院」の旧仏である。法勝寺の仏像たちの一部は「西教寺(私のNOTE)」に流れていますね。
▼本NOTEのきっかけ:京都市平安京創生館
無料
住所:〒604-8401 京都府京都市中京区聚楽廻松下町9−2 丸太町通七本松西入聚楽廻松下町9-2
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