後白河上皇所縁「法住寺」サザエさん著者の菩提寺【三十三間堂シリーズ】
後白河上皇所縁の寺。本尊は「身代わり不動明王」で後白河上皇が大事にされたことから、歴代天皇や公家・武家も厄除け・方除けを祈り、国家安泰の守護神としたそうな。989年に藤原為光が創立し、後白河上皇は、1160年には、滋賀・日吉大社、和歌山・熊野本宮を法住寺内に勧請した。それが現在の「新日吉神宮」「新熊野神社」だろう。ということで、平安時代中期には、南北1㎞、東西500mの広大な後白河法皇の御所「法住寺殿」があったようだ。
三十三間堂と京都国立博物館の信号に説明があります。これが目印で、写真奥に南大門が小さく見えていますね。



では参拝です。の前にもう一言。法住寺殿には宇治の「平等院」の鳳凰堂を模した建物があり、その規模をしのぐほど立派なものだったと伝わっている。
変更履歴
2025/01/25
1月18日の「大根だき(大根焚き)」模様を追加
「→由緒と歴史」を追加
2023/03/02:初版
▼HP
▼アクセス
京都府京都市東山区三十三間堂廻り655
※下の写真の通り駐車場あります!東博、三十三間堂以外も回る人で車移動はどうぞ!場所は南大門をくぐり左に曲がる!寺の裏手ですね。

▼本尊と脇時
※後述「▼見どころ」参照
▼見どころ
→由緒と歴史
9世紀頃(800年代):
京都・東山一帯が天台宗系の修験・社寺領として成立し始める。この区域は後に「法住寺殿」が置かれる聖域となる。1158年:
後白河天皇が崩御した鳥羽上皇の跡を継いで即位する。これに先立ち鳥羽上皇の院政体制が確立していたが、後白河上皇はこれを継承し、法住寺殿を政治・文化の中心に据える。1158〜1160年代:
法住寺殿は上皇の「権勢の象徴」として整備され、宮廷・儀礼・朝廷政治の中心となる。藤原氏・平清盛などの有力貴族・武士勢力とも密接な関係を結ぶ。1164年(永万元年):
後白河法皇の発願により、法住寺殿に付属する大伽藍として 蓮華王院(三十三間堂) が建立される。千手観音を奉安する堂宇としての宗教的・文化的意味も強い。1167年〜1168年頃:
平清盛と後白河法皇の関係が緊張しつつも、清盛の後見を受ける形で院政は継続される。1177年:
安元の大火 が京都を襲い、法住寺殿の堂舎・木造建築の多くが失われる。この火災は都全体の建物を焼き尽くし、政治体制や文化施設にも大きな打撃を与えた。1180年:
治承・寿永の乱(源平の戦い)が激化し、法住寺殿周辺も戦場化。当時の院政と武士権力のせめぎ合いが露呈する。1183年:
木曽義仲が東進し、後白河法皇を幽閉して京に入る(法住寺合戦)。これによって貴族行政(院政)が大きく弱体化し、「武士政権への転換点」となる出来事がここで発生。1192年〜13世紀初頭:
鎌倉幕府成立後、法住寺殿の政治的役割は消失するが、後白河法皇ゆかりの地として人々の記憶に残り、後世の史蹟として注目される。13世紀中期:
法住寺殿跡付近に諸堂・子院が分立し、やがて寺院としての法住寺が成立。律宗・天台宗系の影響を受けながら、周辺の寺社と結びついた宗教空間が形成される。14世紀〜15世紀:
南北朝の動乱や応仁の乱を経て、法住寺は地域寺院としての役割を果たしつつ、平安時代の史蹟としての評価が深まっていく。
都の仏教寺院群と連携し、教育・礼拝・供養の場として存続。16世紀後半:
戦国期に社寺は荒廃する例が多かったが、法住寺は地域の寺院ネットワークと結びつきながら存立。江戸時代初期:
幕府の寺社保護政策の中で、保存・修復が進み、後白河法皇ゆかりの寺として整備される。
法住寺殿跡は、歴史的な庭園・史跡としても意識されるようになる。
→境内へ
養源院から法住寺の間に後白川天皇陵がある。土日祝は閉まっています。。

「身代りさん」と呼ばれる「不動明王立像」ですかね。あらゆる災厄から、身代りとなってお護りくださるということらしいが、堂内暗くて、内陣には入れないので、正直見えにくかった。






三十三間堂、京博、養源院側から入ると神仏習合時代を感じる神をまつるお堂?がある。


本堂に向かいます



→本堂

本堂に入ります。拝観料を払うと噂の不動明王立像を安置する外陣に上がれますが、前述のとおり、堂内は暗くて内陣に入れないので仏像好きは消化不良かも。

本堂左手に、他のお堂や庭園を見れます。
この寺は赤穂浪士・大石内蔵助が討ち入り前に参拝したと伝わり、その縁から四十七士の像が安置されている。ここは歴史好きは満足シーンかと。各武士がどの像かわかるようになっている。
→本堂左





御尊像とは、仏像・神像や肖像画のことで、法住寺ではこの後白河法皇の御尊像が秘仏として大切に守られてきました。通常は非公開。
🕯 御尊像の由来 — 歴史的背景
後白河法皇(1127〜1192) は、平安時代末期を代表する政治者・文化人で、1158年に皇位を譲って上皇(法皇)となり、約30年にわたって院政を敷きました。この期間、彼は法住寺殿という大規模な院御所(皇族の居所兼政治拠点)を構え、政治と文化の中心として西へ大きな影響を与えた人物です。
運慶との関連伝承
伝承によれば、後白河法皇の像は 鎌倉時代初期の有力な仏師・運慶作ともいわれる像が墓所にある とされており、その像は公開されないながらも重要文化財級の評価が伝えられています。
後白河法皇御木像奉安 法住寺が最初に創建されたのは 989 年で、貴族の藤原家によって建てられたのだが、この寺 の歴史は今では後白河法皇(1127〜1192 年)と切っても切れない関係性がある。天皇在位 はたったの 3 年間で、後白河は 1158 年に退位し、出家した。仏門に入るための様々な儀式 を受けたのち、後白河は「法皇」の称号を得て、法住寺の近くに巨大な寺院・宮殿の建設に 着手した。ここから、後白河は 30 年にわたって日本を統治することになる。今日、法住寺 はこの寺院・宮殿の名前を引き継いでいる。後白河法皇の墓には、高名な彫刻家である運慶 (1150〜1223 年)によって 13 世紀初頭に彫られた後白河法皇像がある。像は金箔を貼った キャビネットに納められ、一般には公開されていないが、寺の伝承によると、三十三間堂の 1001 体の観音菩薩像は、実際、この像のほうを向いているのだとされている。







→本堂裏へ
本堂横に行くと小さな社っぽいのが、そのあとに本堂裏を覗くと、お墓につながっているようですね。


→竜宮門
竜宮門もありますね。黄檗宗の時代があったのかな~と思ったり。

▼新春恒例の"大根だき(大根焚き)"




詳細は2027年1月に公開します。
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