矢川さん!明神さん「矢川神社」甲賀忍者も崇敬し応神天皇の妃【甲賀シリーズ】
甲賀忍者も崇敬し、応神天皇の妻を送り出したともされる名社。矢河宮(やがわみや)・日吉山王矢川大明神(ひよしさんのうやがわだいみょうじん)・杣一ノ宮矢川大明神(そまいちのみやがわだいみょうじん)・甲賀宮(こうがみや)・甲賀の雨宮などの呼び名を持つ。
変更履歴
2025/04/23:初版
▼HP▼アクセス▼祭神・本尊と脇時
公式HP:
アクセス:〒520-3324 滋賀県甲賀市甲南町森尻310
(滋賀県甲賀市甲南町森尻70)祭神:オオクニヌシこと「大己貴命」と「矢川枝姫命(ヤガワエヒメノミコト)」が主祭神
大己貴命は殖産興業・健康長寿の神
矢川枝姫命は諸芸上達・諸願成就の神
宮主矢河枝比売、矢河枝比売とも表記し、応神天皇の皇后(『古事記』の応神天皇条より)
八河江比売、矢河枝比売とも表記し、出雲・オオクニヌシの子孫・国忍富神(クニオシトミ神)の妻・葦那陀迦神(アシナダカ神)の別名とも
いずれにしても矢川枝姫命を祭神にする神社としては全国的に珍しい
元は矢川枝姫を祀る神社だったが、のちに大己貴命を主祭神に加えているよう
▼見どころ
→由緒
聖武天皇の紫香楽宮造営のときに創建
762年、甲賀杣・矢川津の守護神として勧請されたのが始まりとする
972年、平安時代の延喜式では、近江国甲賀郡8座の筆頭に記載されている
978年、甲賀郡八座の筆頭の格式を得ている
1337年の史料には「杣野河宮」とあり、池原杣荘の総社だったようだ
杣三社大明神(日吉神社・矢川神社・新宮神社)に数えられるなど信仰の中心となる
1472年、杣川水系を司る水神でもあった為、度々雨乞いの祈祷・祈願が行われており、周辺に恵みの雨を与えた事から、楼門が寄進された
1585年、甲賀ゆれで甲賀衆が没落後、祭祀の在り方が変化する
1500年後半、兵火により多くの社殿が焼失しましたが江戸時代に入ると水口藩主の崇敬社となり再興する
1652年、氏子村のうち9カ村が新宮神社(甲南町新治)、6カ村が日吉神社(水口町三大寺)の氏子となり、7カ村(森尻・深川・稗谷・葛木・寺庄・杉谷・塩野)を氏子(矢川本郷・矢川7カ村)とし、ほか15カ村を外氏子と呼んだ
江戸時代には水口藩の崇敬社とされた
1842年、当社社頭に数万の農民が集まり幕府の検地に反対して決起した「甲賀騒動」(天保一揆)はここから始まった
明治時代以前は矢川大明神と呼ばれ、広域の氏子圏をもつ郷鎮守社であった
神宮寺・矢川寺清浄院を持つ神社だった
矢川の矢と云う文字は「天」と「ノ」から成り立っていることから、天ノ川と縁があるということで、7月7日には「七夕まつり」が行われる

→境内へ(太鼓橋など)




→楼門
室町時代に造られた三間一戸門の楼門は、農民が石上神社(私のNOTE)の託宣を受けて矢川神社に雨乞いの願をかけ、五穀豊穣成就の返礼として奇進されたものといわれ、これが甲賀の雨宮のゆえんであるようだ。





→神門(随身門)


→拝殿・本殿


拝殿1978年に再建されたもの
主祭神はオオクニヌシの別名「大己貴命」で、配神に「矢川枝姫命」
現在の本殿は1756年に浄財により造営されたもの
本殿の素晴らしい建築だと思う
昭和の改修までは檜皮葺だったよう
社殿は素晴らしい彫刻が施されている
大工の高木但馬作で、三重県津市の専修寺如来堂@国宝や、滋賀県東近江市の弘誓寺本堂@重文の棟梁を務めた名工
















→神輿庫



→コウノトリと思わせつつ鷺?






▽七夕まつり/甲賀手筒花火
▼メディア情報
これ以降は本NOTEの下にあるコメント欄で追記します。
▼旅行記
33年に一度の御開帳!と🌸滋賀と京都の桜🌸ラストは仁和寺◆滋賀湖西⑭滋賀甲賀⑦京都右京⑯◆|やんまあ@旅行記
滋賀と甲賀の旅行記
▼セットで行くところ
▼仏像展
→MIHOMUSEUM「紫香楽宮と甲賀神仏」
男神&女神坐像が出展されていた。紫香楽宮近くの神社で、皇族所縁の神社であったと思われる。いや、紫香楽宮の四方を守っていたのかも。
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