美仏は平安定朝様だが玉眼「七寺(稲園山 正覚院 長福寺)」戦火で阿弥陀は焼失で脇侍二尊形式【愛知シリーズ/三河シリーズ/名古屋シリーズ】
平安時代の阿弥陀三尊なのだが、鎌倉時代に多い玉眼である。ということからも、中央の京都・奈良仏師が携わった仏像とされる。第二次世界大戦で中尊の阿弥陀如来は焼失したが、脇侍を二尊形式で本尊としている。この佇まい絶品です!!
変更履歴
2026/03/:初版
▼HP▼アクセス▼祭神・本尊と脇時
URL:稲園山 七寺
アクセス:愛知県名古屋市中区大須2丁目28−5
本尊:聖観音@重文、大勢至菩薩坐像@重文
堂内拝観は要予約
▼見どころ
→由緒・歴史
本来の正式名は「稲園山正覚院長福寺」
735年:行基菩薩により尾張国中島郡萱津に正覚院が開創されたのに始まり
787年:七寺という呼称を得る
紀是広(きのこれひろ)によって、七堂伽藍が建立されたところから来たもの
逸話
「河内権守紀是広が天応元年(781)、秋田城主に任ぜられて出羽国に赴き7年の任期を修了して帰国の途中、中島郡萱津の里まで来たところ、郷里に残した愛児光磨が父の後を慕って萱津まで来て病死したのに出会い、悲嘆のあまり正覚院に詣で住職智光上人に亡児の蘇生を祈願した。上人はこれを聞き憐れんで、寺の東北林中に壇を築いて地を清め、薬師如来を壇上に安置して却死反魂を焚き医王の秘法を修したところ、香煙が児の面を覆った途端に息を吹き返し、父子の名乗りを交わし互いに愛慕の情を交わしあった後、息絶えてしまった。是広はこの地に亡児を葬り、延暦6年12月に7歳で死んだ我が子の追善のため7区の仏閣と12の僧坊を建立。それ以来七堂伽藍にちなみ「七寺」と呼ばれるようになった。」(公式HPより)
941年:過去から水難が続き、兵火により荒廃
1167年:勝幡城主・尾張権守大中臣朝臣安長が、亡女の菩提のために、
寺域を現在の稲沢市七ツ寺町に移し、七堂伽藍と12僧坊を再建1175年から1178年:広く豪筆の士を選んで一切経を書写させ、丈六の阿弥陀如来とその脇侍、観音・勢至の2躯を奉納
名を「稲園山長福寺」とし、「七寺」と呼称させるようにした
1591年:戦火などしていたが、豊臣秀吉の命で寺域を清州に移し本堂を再建
1611年:徳川家康の命により寺域を現在の地に移転し、諸堂が次々と再建
1700年:領主・徳川光友により三重塔が再建
これにより七堂伽藍のすべてが整い、大須観音、西別院とともに輪奐の美を誇るに至った
1730年:尾張藩主の祈願所となる
1945年:名古屋大空襲で本堂や三重塔など経蔵以外の七堂伽藍全てが焼失
弥陀三尊仏のうち、観音菩薩と勢至菩薩の2躯は持ち出して焼失を免れた
現代
→境内




→大日如来坐像



→本堂


→本堂:聖観音@重文、大勢至菩薩坐像@重文
丈六阿弥陀如来坐像がいたらと思うと残念である。公式HP「稲園山 七寺 - 文化財・仏像 案内- 開山 天平7(735)年 旧尾張徳川藩祈願所」の真ん中あたりに戦火で失う前の仏像群の写真が載っている。ご賞味あれ!?



→稲荷社

▼メディア情報
これ以降は本NOTEの下にあるコメント欄で追記します。
▼旅行記▼セットで行くところ
◆愛知⑧◆いざ大須観音周辺へ!瀧山寺50年に一度の御開帳/瀧山東照宮復活!!|やんまあ@旅行記
未来の旅行記は次に記載されていきます。
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