女性の権利と社会を見つめた文筆家・錦織久良 知られざる新潟ゆかりの女性運動家
新潟県ゆかりの人物というと、政治家や実業家、文学者、芸術家など、比較的よく知られた名前がまず思い浮かびます。
しかし、地域の歴史を少し掘り下げてみると、全国的にはほとんど知られていなくても、その時代の社会に大きな足跡を残した人物が少なくありません。
錦織久良(にしごり・くら)も、その一人です。
明治22年(1889)12月18日、佐渡に生まれた久良は、長岡女子師範学校で学び、教員を経てキリスト教の道へ進みました。
その後、大阪を中心に活動し、文筆家、歌人、女性運動家として多くの文章を発表。
女性の権利や子どもの法的地位、民法改正などについても積極的に発言しました。
そして、この人物を新潟の地域史という視点から見たとき、重要になるのが「長岡」です。
佐渡生まれ、長岡女子師範学校へ
錦織久良は、北見久良として佐渡に生まれました。
その後、長岡女子師範学校に進学します。
明治から大正へと移り変わる時代、女子師範学校は女性が専門的な教育を受け、社会に出ていくための重要な場所でした。
久良もここで学び、卒業後は故郷の佐渡に戻って教員となります。
ところが、長岡での学生生活は、彼女のその後を大きく変えることになります。
在学中、長岡組合教会に通っていた友人を通じてキリスト教に触れたのです。
そして明治44年(1911)5月21日、佐渡教会で洗礼を受けました。
教師として教育に携わる一方、信仰を深めていった久良は、さらに学びを求めて横浜へ向かいます。
大正3年(1914)、共立女子神学校に入学。
ここで、後に社会運動家として知られる賀川ハルとも学びをともにしました。
共立女子神学校では、キリスト教の教えだけでなく、孤児院や刑務所、慈善学校など、社会の中で困難を抱える人々への支援についても学んでいました。
後の錦織久良の活動を考えると、この経験は決して無関係ではなかったでしょう。
「書くこと」で社会と向き合う
大正6年(1917)、共立女子神学校を卒業した久良は、伝道師だった錦織貞夫と結婚します。
その後は大阪を中心とする関西で暮らしながら、文筆活動を本格化させていきました。
大正4年(1915)には『婦人新報』に「雑詠」を発表。
翌年からは『基督教世界』にも短歌などを寄稿するようになります。
その活動量はかなりのものでした。
研究によれば、錦織が生涯に発表した著書や雑誌への寄稿などは、確認できるだけでも250件以上。
『基督教世界』だけでも、大正5年(1916)から昭和15年(1940)までに161件の寄稿が確認されています。
短歌だけではありません。
随筆、創作、書籍紹介、宗教に関する文章、そして女性問題についての論考まで、幅広いテーマを扱いました。
昭和4年(1929)には『六畳の王宮―歌集』、昭和9年(1934)には『魂のさゝやき―歌と隨筆』を刊行。
文章を書くことは、錦織久良にとって、自らの信仰や人生を表現する手段であると同時に、社会に向けて意見を伝える手段でもあったのです。
女性の立場をめぐって声を上げる
錦織久良の活動を語るうえで、もう一つ欠かせないのが女性運動です。
20代から日本基督教婦人矯風会と関わり、その機関誌『婦人新報』に女性問題についての文章を発表しました。
大正5年(1916)には「廃娼果たして空想か」という論考を発表しています。
ここで彼女が問題にしたのは、公娼制度だけではありません。
当時の社会では、男性の性的な逸脱はある程度容認される一方、女性には厳しい貞操が求められるという男女間の不平等がありました。
錦織は、こうした社会のあり方に疑問を投げかけます。
「なぜ女性だけが厳しく問われるのか」
そうした問題意識を、キリスト教の信仰と結びつけながら文章にしていったのです。
さらに大正5年(1916)から大正7年(1918)にかけては、「矯風小説 髑髏の告白」を12回にわたって連載しました。
当時の女性が、雑誌というメディアを通じて社会問題を正面から論じていたことは、改めて注目されてよいでしょう。
女性の問題を「法律」から変えようとした
昭和に入ると、錦織の活動はさらに社会的な色彩を強めていきます。
全関西婦人連合会に参加し、昭和5年(1930)の第11回大会では大会司会者と政治法律部委員長に就任。
その後も長くこの役割を担いました。
彼女が取り組んだテーマは、女性労働者の問題から、女性と子どもの法的地位まで幅広いものでした。
特に力を入れたのが民法改正です。
昭和6年(1931)には「婦人のために改正すべき法律」を発表。
妻の法的地位や財産権、母親の親権、相続などについて論じました。
現在では、女性の権利や家族のあり方について法律を見直すことは珍しいことではありません。
しかし、昭和初期の日本では、女性がこうした問題を公に論じ、制度そのものの変更を求めることには大きな意味がありました。
錦織久良は、単に「女性を大切にしてほしい」と訴えたのではありません。
社会の仕組みそのものに目を向け、「法律を変える必要がある」と考えた女性だったのです。
ただし、時代の限界も背負っていた
一方で、錦織久良の活動を現代の価値観だけで評価することには注意が必要です。
彼女の民法改正論には、妻や子どもの権利を守ろうとする一面がある一方で、「法律上の妻」を中心とした家族観も含まれていました。
そのため、妻以外の女性や、その子どもたちの権利については、必ずしも十分に包摂するものではなかったことが研究で指摘されています。
さらに、昭和12年(1937)以降、戦時体制が強まると、錦織の言論にも変化が見られるようになります。
それまで女性の権利について積極的に発言していた彼女が、次第に「銃後の婦人」としての役割を強調するようになったのです。
全関西婦人連合会の大会も「非常時大会」となり、宮城遥拝や国歌斉唱が行われるようになります。
錦織は、その大会の司会者を務めました。
女性の権利を訴えた人物でありながら、戦時体制の中では国家に協力する立場にもなっていく。
この矛盾は、錦織久良個人の問題というより、戦前の日本社会で女性運動が置かれていた難しい状況そのものを映しているともいえます。
戦後は再び女性と平和の活動へ
戦争が終わると、錦織は再び女性運動に取り組んだとされています。
昭和21年(1946)には、大阪朝日会館で「日本主婦の会」を発足。
その後、日本社会党大阪支部婦人部長、日本基督教婦人矯風会大阪支部長、大阪家庭裁判所の調停委員などを務めた記録があります。
昭和23年(1948)には、平和母性協会を創設して会長に就任したとも記録されています。
ただし、戦後の活動については資料が少なく、詳しいことは分かっていません。
そして昭和24年(1949)2月6日、腹膜炎に肋膜炎を併発し、59歳で亡くなりました。
新潟の女性史を考えるうえで
錦織久良という人物を調べていて、改めて興味深いのは、その活動の出発点の一つに「長岡」があったことです。
佐渡に生まれ、長岡女子師範学校で学び、そこでキリスト教と出会う。
その後、横浜、大阪へと活動の場を移していきますが、長岡で過ごした時代が彼女の人生の大きな転機になりました。
もちろん、長岡で学んだから、その後の女性運動家としての人生がすべて決まった、と単純に結びつけることはできません。
しかし、地方の女子師範学校で学んだ一人の女性が、その後、全国規模の女性運動や文筆活動へと進んでいった事実は、新潟の教育史という観点からも興味深いものがあります。
当時の新潟には、中央から遠く離れた地方だからこそ見えにくい場所で、次の時代を担う女性たちを育てる教育の場がありました。
錦織久良も、その中から巣立っていった一人でした。


