見出し画像

審神者先生は斯く語りき4


今回は本題の前に珍しく前説があった

 審神者先生はある日、「『●日空いてる?△△行こうよ』に対する『ごめん、その日無理なんだ』の『ごめん』て、誰に対する何のごめんなんですかね」と問うた。前日にこの件でご家族と口論になったようで、未昇華のようだった。

 この「ごめん」には特段意味はないように思う。対人関係の円滑化という役割ならあるが。ただ、誘いを断る際に枕詞のように「ごめん」と言うことが定着した背景に、何らかの理由があったと推測される。
 これは強いて言うなら、君の期待に添えなくて『ごめん』ではないかと思う。相手に何ら不利益を与えていない段階での『ごめん』に言葉の定義上疑問が生じないでもないが、ともかくこの場合、誘いを断る自分は相手の予定・予測に変更を生じさせる。相手の「△△にこの人と行ったら楽しいだろう」とイメトレに使った時間を無に帰した訳だ。これを不利益と受け取るかは人によるので、保険として『ごめん、行けない』と枕詞を使うのだろう。

 で、ここまでが前置きである。この議論の際に審神者先生は、素朴な疑問を呈しただけのつもりだったが、ご家族は審神者先生が「人の誘いを断る時に、『ごめん』と一言添えるのを渋っている」と受け取ってしまわれたようで、怒り出してしまったそうだ。怒っているという状態は、論理的とは程遠い。議論の破綻も想像に難くない。
ここで審神者先生は言った。「感情と気持ちの違いって何ですかね」と。

 ご家族と話していて、感情的になってしまった相手とは議論が成立しないことから、この疑問に至ったようだった。関係ないが、審神者先生が何かの議題を発する時のことを、「ソクラテスは斯く語りき」みたいで少し気に入っている。これを後に、このシリーズのタイトルにした訳だ。閑話休題。

感情と気持ちの違いを調べた件

 この日私は、保護者会総会の出席直後で思考が止まっていたので、回転不足の脳の試運転として「定義付けからしましょうか」と、いつものように提案した。
 そこから一人目の生徒の授業開始までの間に、「気持ちは表現が柔らかい」「感情は人以外にもありそう、赤ちゃんやペットとか言葉を話さない対象にも」「感情は発生をコントロールできない」「気持ちは、何らかの出来事を受けて生じる」「感情を言語化したものが気持ち?」など、様々な推論や定義付けが進んだ。

 結果私たちは、素直に混乱した。「気持ち」の説明文に「感情」、「感情」の説明文に「気持ち・心持ち」、「心持ち」の説明文に「気持ち・気分」、「気分」の説明文に「感情の状態」…と堂々巡りを二周したからだ。
 これを横で聞いていた同僚の先生、仮にドラゴンボール大好き悟空先生(仮)とする。この悟空先生は私たちの堂々巡り二周目を聞いた辺りで、「んなもん、一緒だ一緒!」と解散、その場で筋トレを始めた。室内に轟く「筋肉が喜んでる」「唸れ(拙僧の)筋肉!」という叫びを聞いて、悟空先生の召喚により脳裏に突如発生した山伏国広の来襲を受け、私たちはその場に膝から崩れ落ちた。
 この、突如馳せ参じた山伏国広により、本件は未解決のまま午後の業務に押し流されて行った。そんな私たちがこの日見つけた一応の落とし所は、

「感情には一次感情と二次感情がある」
「気持ちとは、二次感情の言語化ではないか」

という仮説だった。これを一旦持ち帰り、調べ直し、書き起こしているのが2025年5月26日深夜である。これを宿題として一週間後に審神者先生に提出した次第だ。

 おかしい。調べ始めはまだ25日だった。調べ終わりは23時で、出来上がったメモはレジュメか論文のようだった。人に読ませる気がない。これは良くない。結論を極力簡潔に書き直す必要がある。それで探して引っ張り出して来たのが、この謎エッセイ集である。

元々これに書いて提出したものを、清書して投稿しているのがこのシリーズである。

 何処に需要があるのか。
※ 何処にも需要など無いのかも知れないが、自分の為に書きたいから書く。理由?楽しいからだ。

実際の目次


似たり寄ったりな言葉を分類してみた

 人間が解明を願い研究した結果、心を表す言葉が無数に生じ、それでも解明し切れていないからこそ、心理学を学ぶ者は後を絶たない。良い様に言ったが、正解のない学問だからと念頭に置いて、今から書く暴論を許せよ、というただの言い訳である。

 前述の通り、心に関する語句の説明は似ていて、意味も多い。この為、その中でも立論の際に注目したもののみ列挙する。
 まず、「気持ち」は「心身の快不快」であり、「感情」は「意識の快不快」だった。「気持ちには良し悪しがありますよね、感情に良し悪しはあまり聞かない」と本件発議の当日言ったが、これは気持ちが身体の好調・不調も表す性質に起因することで、これを受けて「感情の母集合が気持ちなのでは」と思い至る。
 また、「心持ち」は言わば「気持ち」の古語で江戸までは主流だったが、意味合いから「心構え」「心掛け」に近いようだ。江戸の町人文化を背景に透かし、むしろ「気前」「気風」に近いように思う。
 また、「気分」は「持続的な感情の状態」だった。「感情」は瞬間的で強く、「気分」は持続的で漠然としている。
 調査中見掛けたレポートに「感情とは体が発する信号で、気持ちとはそれを理解し表す言葉」という説明もあり、本件の発問当日も「一次感情と二次感情があるらしい」「気持ちとは二次感情のことではないか」という仮説は立っていたので、各語句の定義が一通り落ち着いた後は「気持ちは二次感情の言語化ではないか」という仮説の検証を目指した。
 さて、とんでもねぇ有様になったレジュメを公開するか。

調べ物で過去一の文字量のレジュメが爆誕した


他人に読ませる気のないレジュメ1

他人に読ませる気のないレジュメ2


プルチックとアドラーの定義する感情とは

 これより、プルチックの感情の輪とアドラー心理学上の定義に言及する。そんな眉根に皺を寄せず、適当に流し読んでも良いのでついてきて欲しい。この2つ面白いから。すげー面白いから。

 まず、プルチックは一次感情を喜び・信頼・恐れ・驚き・悲しみ・嫌悪・怒り・予測の8つに分類、それらを「喜び+信頼=愛」「信頼+恐れ=服従」と細かく分類したものを、二次感情とした。この段階で、先に述べた審神者先生のご家族の心情については説明出来た。
 プルチックの二次感情の定義では、「予測+怒り=攻撃」なのだ。「審神者先生(娘)が謝ろうとしない」(予測≒決めつけ)+「嘆かわしい」(怒り)=「ちょっとそこ座れゴルァ」(攻撃及び本論からの逸脱)だ。

 これに対し、アドラーは怒りを二次感情とし、その怒りの素となるものを一次感情とした。そらプルチックとアドラーは別の人間だから、考えも表現も違うこともあるだろう。問題は「アドラーは何故『怒り』に着目したか」の方だ。

 そもそもプルチックの上げる8つの要素を見ても、負の感情が一つ多い。そこから派生するのだから、全体的に二次感情の分類も若干負の感情の割合が増える。
 そして、プルチックの分類した「怒り」以外の計算で生じる二次感情の中に幾つか、「これは何故『怒り』の派生ではないのか」と疑問の浮かぶ語句があった。一例は「驚き+嫌悪=憤慨」だ。憤慨は、激しく立腹することだ。なのに、「怒り」の派生ではないのだ。かと思えば、意外な語句の素が「怒り」だったりする。「怒り+喜び=自尊心」「怒り+信頼=優越」などがそうだ。

 ここからある仮説を導く。「本当は全ての一次感情が一旦『怒り』を通るのでは」「一次感情を二次感情として表出・言語化する過程で、誰もが一旦『怒り』を通るのでは」というものだ。
 つまり、プルチックの感情の輪は、伝わりやすく解りやすいものを図示しただけで、アドラーは核心を突いただけ。二人は結局同じ主張を別々にしているだけなのではないだろうか。

 ここまでくると、「二次感情の言語化が気持ち」という仮説を否定するものはないようにも思う。逆に、「二次感情≒気持ち」であるなら、「一次感情は何故、気持ちではないのか」。この問いに回答出来れば、検証の精度は上がる。ディベート上の反論潰しである。当座の答えとして、「言語化しようと思った時点で二次感情だから」と考えた。

 長くなったが結論として、「一次感情を受けて生じた二次感情の言語化を目指す状態や、その表現に用いた言葉を気持ちと呼ぶ」こととしたい。
 異論は認める。一回寝る。(4:00)

私は睡眠を挟むと狂うのだろうか(with 可哀想な長谷部)


※以下、刀剣乱舞で例えた感情論者の分析。

 ここに一振のへし切長谷部がいる。多彩な感情を持ち、滅私奉公を良しとし、己の感情の表出を恥と捉える典型的な長谷部らしい個体である。
 また、ここに一振の山姥切国広がいる。負の感情を多く持つ卑屈な個体だったが、極修行で自己実現を果たし感情に向き合った結果、思ったことを直球で投げてくる典型的な国広らしい個体である。

 ここまでをまず、イメージして頂きたい。

 政府肝入りの大きなイベント出陣に連続して出陣要請のなかった長谷部は、長く主といられる「喜び」以外に、このまま使われず徐々に見向きされなくなり、無限遠征に出される「恐れ」や、自分より練度の低い刀ばかり出陣し、誉を獲得して主から認められることへの「焦り」「不安」、それらを素とした様々な感情を「私的感情」であり「隠したい」と思いながらも、出陣がないことに納得はいっていない。
 大方の予想通り、一言文句でも言ってやろうと声を掛けた相手が、部隊長で初期刀の極んばである。

 長谷部は率直に、何故自分に長らく出陣要請がないのかを問うた。しかし長谷部なので、他刀への嫉妬や不安や恐れなどは悟られたくない。でも納得していないし問い質したい。
 つまり、「おい、何故またあいつらなんだ、俺の出番はまだか。」と発言した時点では、まだ気持ちの整理はついていないし、言語化の準備も出来ていなければ、一次感情から二次感情への移行途中であり、何なら極んばがどんな説明をしても納得しないのである。理由?奴が長谷部だからだ。

 一方、極んばは出陣準備を整えて玄関へ向かっていた。そこへ長谷部が声を掛けてきた訳だが、「何故長谷部には出陣要請がないのか」という質問の答えを極んばは持たなかった。自分は主ではない。「知らん」としか言い様がない。しかし「知らん」と言った場合、火に油を注ぐことくらい察しは付く。
 極んばは、知らないなりに答えようと、長谷部の言い分を振り返る。
「何故またあいつらなんだ」……誰だ。薬研、堀川、後藤、面影、愛染、自分。選出表を見ても理由までは書かれていないが、主に尋ねる暇もない。薬研は練度の高い極短刀、後藤は打撃の高い極短刀、粟田口揃えで連携強化もあるか。面影は新刀で育てたく、愛染は面影の補佐が出来る来派の極短刀。堀川と自分も二刀開眼狙いで、全体に連携優先の安全育成に特化した部隊で……ここまで0.5秒。
 極んばは混乱を極めた。どう考えても普段通りの主の部隊編成でしかなかった。効率と成果重視の、いつもの編成で、そんなことを長谷部が理解出来ない筈もない。長谷部が疑いを持つ理由に心当たりがなかった。主に心酔していて忠誠心の塊の如きあの長谷部が、主の編成に異を唱えるその動機は何なのかを察せないのも、自分が写しだからなのか。

 ここまでを、極んばは一息に長谷部に浴びせた。 OVER KILL である。何故こんな事態に発展したのか。奴が極んばだからだ。


 長谷部の顔色は目まぐるしく変わり、その心情は、二次感情がどうこうという次元の話ではなかった。長谷部は不安・驚き・悲しみ・恐れなどの一次感情を持て余し、それらを混ぜ返しながら二次感情の昇華を目指した。

 多くの人間がそうするように、内に秘めるより表出することで、事態の好転を視野に最も自分の目的を達成するのに都合の良い相手にぶつけたところ、とんでもない剛速球が返ってきた。
 中でも、「長谷部(あんた)ともあろう刀(もん)が、主の編成意図を察せない筈がないだろう」「主に直接尋ねたらどうだ、それを俺に尋ねてどうしたいんだ」「主の編成を破棄して俺の一存で長谷部(あんた)を編成しろと言っているのか」 辺りは特に殺傷力が高く、長谷部の内心は一次感情も二次感情もなく、強いて言うなら「やってしまった」「逃げ出したい」くらいが関の山だった。

 出陣前の部隊長を足止めし、主の編成に異を唱え、今から出陣する第一部隊の士気を下げかねない。繰り言になるが、長谷部は嫉妬・不安・恐れを隠したい、他刀にバレたくない。長谷部が早急にすべきは「体裁を整える」ことであるのは、多くの感情論者の判断と相違ない。
 しかし、二次感情を表出する準備が不十分なまま極んばの直球ド正論を食らった長谷部に、挽回出来る余力はなかった。
 出陣前お急ぎ OVER KILL である。

 順当に考えれば、まず長谷部は打刀の席を1つ空けたい訳だから高確率で「打刀なら俺でも良いだろう、何故お前なんだ」くらいのことをそのままの勢いで言い、「あんたはいつから国広になったんだ、二刀開眼発生率を上げる為に刀派を揃えるのは自然だ。」くらいの反撃を食らう。
 「堀川以外にも脇差は居るだろうが。骨喰はどうだ、奴なら薬研とも連携が取れて、俺とも」辺りで、「先の大坂城で稼いだ小判で、粟田口は博多がまとめて食い倒れツアーに連行しているが。出陣の二振を除いて。」と、通りすがりの長義に釘を刺される。
 「じゃあ篭手切江は、」と要請を断れないタイプの代案を出せば、「先の玉集め後から、刀派総出で休暇を取っている。申請通したの俺らじゃないか。」と封じられる。
 その直後、背後に浦島と火車切を隠したまま蜂須賀に「もう諦めたらどうかな。」と諭され、大倶利伽羅は長谷部を一瞥したまま、極んばと第一部隊を「気にするな、早く行け。」と構わず送り出してしまう。
 長谷部は感情豊かに喚きながら、「こら、待て、話はまだ終わってない!」「俺を出陣させろ!」と慌てて追うが間に合わない。

 ――と、このような光景は比較的どの本丸でもよく起きているのではないだろうか。(そうだろうか)

感情論者は愛すべき…?(with じじいすげぇ)


 結論である。
感情論者は 気持ちの整理に時間が掛かり、まだ途中なのに喋り出してしまい、反論に遭ったり立論に失敗するなどして、勝手に詰む のだ。

 時間を要するのは、むしろ論理派より多くのことを考えているせいで収拾がつかなくなる場合もあるかも知れないが、多くの場合処理に困るくらい感情や表情が豊かなのだろう。
 そして、感情・表情が豊かな人の周りには人が集まる。見ていて飽きない、魅力的だからだ。また、そもそも何故整理が付かない内に喋り出してしまうのかを考えるに、恐らく人を待たせていると思うからだ。
 一部の輩は、相手が言い淀むと「言い負かした」「反論出来なくなった」と勝ち名乗りを上げる。このデメリットを避けようとするか否かは状況によるだろうが、時間が空けば論点や話題は逸れて感情の行き場を失ったり、相手との対話の機会を失ったりすることも考えられる。

 では、何故これらのデメリットが生じると困るのか。
シンプルに話したいからである。

 感情論者は、相手と話したいから焦り、話すからには誤解されたくない。その結果一層焦って空回る。どうやら、あれは怒っているのではなく焦りからくる空転なのだ。
 長谷部の周囲に人(刀)が集まるのは、良い奴(刀)だからだ。空転してても怒っていても口煩くても輪の中心に居るのは、周囲に愛されているからだ。手の掛かる子(刀)ほど可愛い理論である。

 そんな不憫可愛い長谷部を、どうしてやれば対話・議論が出来たのか。どうしてやれば、長谷部は立論に成功したのか
 これも単純で、答えは恐らく「落ち着かせる」こと、そして「待つ」ことだ。

 感情論者は 話したい・関わりたい のである。
誤解され仲違いするリスクを負っても、焦って話を続けようとする背景にあるのは、「相手と解り合いたい」という純粋な願望であるように思う。アドラー曰く、人は一次感情を本音は隠したいのだから、昇華さえ叶えば本来人に伝える必要はないのである。
 例えばこれが大倶利伽羅なら、出陣したい時に叶わなかったら、静かに演練場に籠り鍛錬に励み、自分の中で昇華するだろう。
 そこであえて表出を選ぶ、相手に気持ちを伝えようと言語化を試みる。その根底には「相手と対話を通じて関係を深めたい」という欲がある。


 時を戻そう。


 早足に廊下を急ぐ長谷部は、極んばに訊きたいことがある。
「何故奴らばかり、俺はいつになったら出陣要請が来るんだ。」荒げた声に振り向く一振。

「何だ大声を出して、じじいを驚かすものじゃない。」
「まあ、座れ。茶と大福があるぞ。」
「どれ、話してみろ。じじいが聞いてやろう。」

 …………恐らく正解の対応はこれである。

「すまないが、時が迫っていて俺は付き合えん。」と玄関へ急ぐ極んばに、「はっはっは、良い良い、無事に戻れ。」と送り出す。突然大福を口に押し込まれた長谷部は当然「怒る」が、それは悪い状態ではない。

 三日月の隣で茶を飲み大福を食いながら、気持ちを整理する過程で主の編成意図に気付いたり、第一部隊の勝率の高さに思い至り、帰還後の労いを考えるかも知れない。何せ、隣に居るのは茶を飲み大福を食い、日向ぼっこをするじじいだ。
 時間はゆっくり流れ、隣は「話してみろ、聞いてやろう」と言ってきた相手だ。焦らずとも待ってくれる安心感がある。

 長谷部の中にきっと不安も嫉妬もある。極んば率いる六振への心配や労い、称賛もきっとある。三日月の隣、主の隣で、長谷部が奴らを不敵な笑みで「よくやった!」と出迎えてやるのに必要なのは、恐らく心の平静と時間なのではないだろうか。

 私の母も、審神者先生のご家族も、レスバするツイ廃も、どいつもこいつも愛すべき長谷部なのだ。我々は、「待つから落ち着け」「ゆっくりで良い」と伝えて、ただ待てば良いのだ。

いつも心に三日月宗近を。

 そうして待った先で、感情論の成れの果てではなく、本人なりに気持ちを伝えようと向き合った結果残った言葉を、先入観なくただ聞いてやれば良い。そして受け取った言葉を返す際に、

「相手が対話を望んだ結果であること」
「諦めずに言語化しようとしたこと」
「自己完結も出来たのに人に伝える選択を相手がしたこと」
「自分がその相手に選ばれたこと」

を噛みしめながら、言葉を選ぶのが良い。

 とかく人の世は短い。だからこそ対話の一つ一つを有意義にしようと思えばこそ、人は人の時を思い、呼吸を待つ。そこから人と人の関わりは、感情と共に如何様にも派生していくのだろう。

じじい凄えな……。


次回予告

 noteを始めてから、割とコンスタントに文章を書いて投稿出来ていた私が、これだけ長らく筆を置いていたのには理由がある。

 シンプルに、2月にコロナに罹患した後、3月にそのままインフルエンザに罹患したからだ。私はコロナこそもう何度も罹患しており、都度大きな副作用や後遺症なく回復してきているが、インフルエンザに至っては10年以上ぶりに罹患した。今年はそういった長年罹患していなかったのに、という罹患者を背後から刺しに来るタイプの菌だったようだ。(と主治医が言っていた。)

 諸々の家族行事も落ち着いて、下書きを見た私は放置した原稿を見つけ、唖然としたまま流し読み、「もういいや、投稿しちゃえ」とこれからボタンを押す次第である。

次回は、手元のノートによると、「創作物における二次感情の描かれ方」という、半分書評と敬愛表明と感想と布教の綯い交ぜになった書き散らしになる予定である。私と同じ作家を敬愛する読者で、キャラ説明の「二次感情(怒り)を避けようとする」という文言に覚えのある方が居たらそれです。

【了】

いいなと思ったら応援しよう!