ヒュー・エヴェレット3世の猫 (6)
第六章 ある百貨店・大宮
ヤスとシュレディンガー
展示が終わった。二週間経った。
会場は白い。
白すぎて、ここで何かが展示されていたとは思えない。
猫は撤収された。
段ボールの中で眠っている。
売れた猫も、売れなかった猫も、等しく眠っている。
段ボールは平等だ。
なぜか、どうでもよかった。
売れたかどうかより、
あの会話が引っかかっていた。
——会期中。
女性が立ち止まった。
「シュレディンガーの猫」の前。
「シュレディンガー岩井って、別名なんですか?」
僕は笑った。
「あ、いや……」
もごもご。
「似てるかもですね」
「それは光栄です」
空気が、うまく流れた。
観客は満足した。
僕も満足した。
世界は、何事もなく続いた。
——二週間後。
同じ会場に、誰かが立っていた。
僕ではない。
姿勢がいい。
誠実そうだ。
そして——空気を一切読んでいない。
その人が言った。
「なぜ、作者と作品の境界を曖昧にしたのですか?」
逃げ道がなかった。
声は穏やか。
だが刃物のように真っ直ぐだった。
「あ、その……」
「意味は明確にすべきでは?」
「曖昧さも含めて作品で……」
「それはダブルバインドですね」
「いや、そういう意図では……」
「では、どういう意図ですか」
「糸? タコの糸 中島みゆき?」
空気が、鳴った。
ピキ、と。
そのとき、別の来場者が言った。
「シュレディンガー岩井って、ヤス岩井さんの別名なんですか?」
僕は、もごもごしかけた。
だが——
「違います」
もう一人が言った。
「しかし、無関係でもありません」
会場が止まった。
「彼は、空気を読みすぎる。
私は、正しさしか読まない」
スタッフが固まった。
来場者が首を傾げた。
猫だけが、無表情だった。
その瞬間、分かった。
あれは“もう一人の僕”ではない。
僕が言わなかった言葉の集合体だ。
言えば場が壊れると思って、
ずっと箱に入れていたやつ。
壁は白い。
猫はいない。
だが、見え方だけが分岐した。
ある人には、優しい猫。
ある人には、逃げ場のない猫。
どちらも正しい。
どちらも面倒くさい。
僕とシュレディンガー岩井は、
同じ場所に立って、
決して交わらない。
喧嘩でもない。
統合でもない。
ただ、
分岐の確認。
世界は分かれた。
だが、
逃げなかった言葉だけは、
どの世界にも残った。
来週はまさかのあの人も登場します
