知りたい衝動と言葉にする力。私をつくった3冊 ~noteチャレンジ4月【本】私という人間を定義した3冊~
4月から京都暮らしの編集室のオンラインサロンで、noteチャレンジに参加している。毎月編集部が提案する「ひとつのテーマ」に沿って、1年かけて12本の記事を書いてもらうスタイルです。
今月のテーマは【本】私という人間を定義した3冊。今の自分の価値観の土台になっている本。2026年度のはじまりに、自分の現在地を確認する。です
というわけで、今の自分の中で記憶に残る3冊を探してみた。
ここ最近はほとんど小説を読んでおらず、「これだ」と思えるような衝撃的な一冊には出会えていない。だからこそ、「自分を定義した本」はもっと昔にあるのではないかと、記憶を遡ることにした。
小学生から中学生、高校生、大学生。
それぞれの時期に出会った本を、1冊ずつ選んでみる。
1冊目:赤川次郎の『ふたり』
こちらの本は、私が初めて映画を見てから原作を読んだ本だ。たまたまテレビで放映されていて、「原作・赤川次郎」という名前が強く記憶に残った。
赤川次郎といえば、「三毛猫ホームズ」シリーズを執筆したコミカルな推理小説を書くイメージが先行していた。事故で亡くなってしまったしっかり者の姉と、姉に頼ってばかりいた妹との、奇妙な共同生活を描いた繊細な物語を書いていたことにさらにびっくりした。
映画を観たのは小学生の頃。原作の小説を何度も読んだのは、高学年に入ってからだったと思う。
当時はまだネットもなく、よく原作にたどり着いたものだと思う。最初は図書館で借りた。文庫版はまだ出ておらず、新書より少し大きいサイズの本だった。
小学生向けの本ばかり読んでいた自分にとって、ふりがなのない小さな文字は少し背伸びした世界だった。それでも、「大人と同じ本を読んでいる」という感覚がどこか嬉しかったのを覚えている。
実際に読んでみると、映画で印象に残っていたセリフがそのまま出てくる。自然と映像が頭の中に浮かび、物語の中に入り込むことができた。
主人公・美加の成長や、家庭の事情、友人関係や恋愛といったテーマが会話を中心に描かれていて、初めてのふりがなのない小説だったにもかかわらず、一気に読み切ってしまった。
映画は原作と異なる部分もあったが、世界観を壊すことなく丁寧に再構成されていて、違和感はなかった。
今回、振り返るにあたって、調べていたら「ふたり」の11年後を描いた続編「いもうと」が2019年10月に新潮社より刊行されたという情報を入手した。これは読まなくてはいけないと、いそいそとネットでポチッだのだった。
2冊目:アーサー・コナン・ドイルの『空き家の冒険』
私が推理小説の中で一番好きなのがシャーロック・ホームズだ。出会いは小学生にさかのぼるが、最初小学生向けの簡単な本を読んでいた。それを大人が読む文庫本でしっかり読み始めてから一番読んでいて興奮した一冊だ。
「最後の事件」で死亡したとされていたシャーロック・ホームズが10年ぶりに帰還し、「公私ともに華々しくよみがえった」作品だ。
「最後の事件」でライヘンバッハの滝に消えたホームズが、実は生きていたと明かし、ワトソンと再び事件に挑むこの作品は、またホームズの推理劇が続くという、それだけで十分な喜びだった。彼が消えたときの喪失感と、帰還したときの安堵と高揚感。
ワトソン博士が滝でホームズがいなくなったときのことを推理しているが、しっかりと解説しながら本人に突っ込む場面がホームズらしい。推理のヒントがあちらこちに散らばっているのを1つにしていくホームズの頭の回転の良さは惚れ惚れする。
思えばシャーロックホームズにはだいぶ熱をあげて、シャーロックホームズ関連の著書も読んでいたし、最終的にはロンドンのベーカー街221Bまで行ったのだから、我ながらどっぷりハマっていた。
3冊目:向田邦子の『眠る盃』
向田邦子さんを知ったのは、大学の授業がきっかけだった。
週に3回あった英語の授業の中に、日本人で現役の翻訳家として活動している先生がいた。
外国人の先生の授業では、英語でレポートを書いたり、プレゼンをしたりすることが中心だったが、その先生の授業では「翻訳」が主軸だった。
ある日、いきなり英語の文章を渡され、「これを訳してきてください」と言われた。
ヒーヒー言いながら訳したものの、出来は散々だった。
どんな文章だったかは覚えていない。
けれど、Yves Saint Laurent(イブ・サン・ローラン)を正しく日本語にできなかったことだけは、今でも鮮明に覚えている。
そのとき先生はこう言った。
「翻訳は、ただ英語を日本語に置き換えるだけでは読めません。
読み物として成立する日本語にしなければいけないんです。」
高校までの私は、「正確に訳すこと」だけが正解だと思っていた。
だからこの言葉は衝撃だった。
正しい日本語ではなく、“読める日本語”を書くこと。
そのためには、日本語そのものを知らなければいけない。
そのときに先生がすすめてくれたのが、向田邦子さんの本だった。向田邦子さんは、脚本家であり、エッセイストであり、小説家でもある。『眠る盃』は、そんな彼女の日常を切り取ったエッセイ集だ。
何気ない出来事の中に、知的なユーモアと鋭い観察眼が織り込まれていて、読み進めるほどに、その人柄がにじみ出てくる。
特に印象的だったのは、家族とのやり取りだ。当時の時代背景もあり、父親という存在はどこか厳しく、距離のあるものとして描かれている。対等に言葉を交わすことが難しい空気感が、文章の端々から伝わってくる。それでいて、どこか温度のある記憶として残っているのが不思議だった。
また、旅行やちょっとした外出の描写も魅力的だ。特別な出来事ではないのに、情景が自然と立ち上がってくる。読みながら感じたのは、「作家は記憶の解像度が違う」ということだった。
展覧会の案内状に書かれていた名前。
何気なく交わした会話。
耳にした音楽や、読んだ本のタイトル。
そういった細かな記憶を、ただ過ぎ去らせるのではなく、自分の中にとどめ、言語化している。
日常は、本来どんどん流れていってしまうものだ。けれど向田邦子は、それをすくい取り、形にしている。それは、できそうでいて、ほとんどの人ができないことだと思う。
さらに、作品の中には当時の暮らしも色濃く残っている。ダイヤル式の電話、ブラウン管のテレビ、文字のない葉書。いまはもう見られない銀座の風景までもが、言葉の中に静かに生きている。
懐かしさとともに、ただの日常をどう捉えるかという視点を教えてくれる一冊だった。
3冊振り返ってみた気づき
あの頃は、ライターになるなんて思ってもいなかった。それでも振り返ってみると、物語の奥を知りたいと思ったこと、見えないものを読み解こうとしたこと、言葉を丁寧に扱うこと。そのすべてが、今の仕事につながっている。
本、特に小説からいつの間にか遠ざかっていた。それでも、私の中には確かに残っている。あのとき読んだ物語や言葉が、今の自分の土台になっている。
そう思うと、また一冊、手に取ってみたくなった。
次はどんな「知りたい衝動」に出会うのだろう。
