好きだって、言いたかっただけなのに
根っから、オタク気質で、ハマったら一途にハマりっぱなしだ。
ここ数年は、BL漫画にハマっている。
オタクであると同時に、分析魔でもあるので、いい作品を見て心が揺さぶられると、とたんにいろいろ考えてしまう。
これは、BL漫画に限らず、映画を見てもそうだ。
なぜあの人物はああいう行動をとったのか、あの行動や表情はどういう意味あったのか、この作品で語られていることはなんなのか。
作品を読んだり、見て感じた興奮が、どうやら考えるエネルギーに変換されてしまうらしい。
時々、感想を、文章に書かずにはいられなくなる。
書いたものを、共通の趣味の友人にLINEで送ったりすることもある。
ただ、私が書く文章は、感想というか、批評とかちょっとした論文みたいになってしまうんだよな、と思っていた。
先日、漫画を読んでいて、猛烈にハマってしまった作品があった。
何回も何回も、その漫画を読んでしまう。
その作家さんのSNS上での発信などで、登場人物の背景などを知り、また漫画を読む。
それを繰り返しているうちに、「この作品、大好きで何度も読んでしまうんだよなあ」でとどまっていられず、登場人物の心理的な葛藤やそれがストーリーにどう影響しているのかについての考察が、明確に文字になってきて頭の中でぐるぐるするようになってしまった。
こうなってしまうと、一度、吐き出さないことには止まらない。
とりあえず、書き出してみよう。
そう思ってPCを広げて、書いた。
書くとき、ちょっと恥ずかしかった。
好きな人に告白する中学生のような、そわそわして、うずうずして、無防備で、ちょっと嬉しいみたいな。
ああ、すごく好きなんだなと思った。
これだけ好きなんだから、この思いを、作家さんに伝えたら、喜んでもらえるかもしれない。
今まで、恥ずかしくて一度も書いたことがなかったけれども、ファンレターを書いてみてもいいかもしれない。
作家さんもSNSで、「感想をもらえることが何よりもうれしい」と言っていたし。
ファンレターとして送ってみてもいいのかもしれない、と思った。
が、一通り書き終えてみて、自分で読んでみたら、これはちょっと、ファンレターとしては送れないなと思った。
まるで、論文のようだったのだ。
さすがにこれは、ファンレターというより、作品考察だ。
熱量はある。
でも、「好きです」と手渡すには、少し重たいかもしれない。
思えば、友人に映画の感想をLINEしても、そこから映画談議で盛り上がることもあまりなかった。
ちょっと返信してはくれるけど、「そんなこと、考えたこともなかった~」と返されておしまいになってしまう。
うすうす、わかっていた。
私が書く文章は、私が、私の中で激しく揺れ動く感情を、捉え理解するための言葉なのだ。
本当は、感情を、理解する必要はないのかもしれない。
例えば、「好き」と感じたら、なぜ好きなのか、どこが好きなのか、好きという気持ちをどうしたいのか、そこまで考える必要は全くないのだ。
好きだから、もっと触れたいし、好きだからその気持ちを誰かに共有したい。
それで十分なのかもしれない。
でも私は、その「好き」という気持ちを、気持ちのまま持っておくことができない。
強く心を動かされれば動かされるだけ、ただの気持ちとして抱えていることができずに、つい考えて、言葉にしてしまう。
そうせずにはいられないのだ。
そんな自分の分析魔的な側面は、仕事においてはとても役に立ってきた。
自分の中に沸き起こる感情や違和感を、逃さずに徹底的に捕まえ、輪郭を確かめ、言葉で形を与える。
自分の中のあるものを、自分のために言葉にすることが、好きで、得意で、そうしなければ生きてこれなかった。
その自分のための言葉の土台があるから、人に伝える言葉を、解像度高く書くことができる。
よく、「言語化能力が高いですね」と言われるのは、たぶん、自分のそういう性質のせいなのだ。
しかし、そうやって言葉にしてしまうと、その言葉は時に、ただ作品を感じ、楽しみたい、その作品の世界に浸っていたい、誰かと共有したい、という自分の衝動を鎮火させてしまう。
誰かと「良かったよね~」と言って一緒に余韻を楽しむ気持ちを、置き去りにしてしまう。
だから、私の言葉は、ときどき、周囲をしーんとさせてしまう。
私の中で、私の中に沸き起こった感情や違和感を、自分一人で探求して言葉に閉じ込めてしまったから、他者が入り込む余地がない。
私にとって心地いい、自分のための言葉、人に伝えるための言葉は、「人と一緒に盛り上がるための言葉」にはならないのだ。
一目置かれはしても、人を容易に寄せ付けない、親しみやすくはあっても、一定の距離感を感じさせる。
もしかすると私は、言葉にすることで、自分の感情をよく見えるようにしてきた一方で、誰かとただ一緒に盛り上がる余白を、狭くしてきたのかもしれない。
そして、本当は、そのことを寂しく思っていたのかもしれない。
自分のための言葉、人に伝える言葉を、つむぎ、それを必要な人に届ける。
それは、たぶん、私の才能で、誰かの役にたてることである。
でも、私はもう、自分の言葉で、自分自身を寂しくさせなくてもいい、とも思う。
感情を、言葉にしすぎずに、「誰かと一緒に盛り上がるための言葉」として、無防備に差し出してみる。
それは、私にとって、ひとつのチャレンジだ。
はずかしくて、もじもじと、無防備でちょっと怖くて、でもちょっと一緒にわーきゃー言いたい。
好きだって、言いたい。
好きな気持ちを、伝えたいのだ。
