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「苦労しなければ、幸せになれない」時代はもう過去にする。

「苦労した分、幸せになれる」
色んなタイミングで、聞いたことがある言葉だと思います。

「涙の数だけ強くなれる」なんて歌もありましたね。

でもいつしかそれが、「幸せになるためには、苦労が必要なんだ」にすり替わっていませんか?

私たちが、今こうして生きていること。

好きなものが食べられること。
美味しいお茶が飲めること。
きれいな服を手に入れられること。
あたたかいお布団で眠れること。

今当たり前のように享受できている「幸せ」の裏側には、私たち一人ひとりの確かな「頑張り」がありますよね。

もちろん、自分の「頑張り」だけではありません。

そもそも最初にそれを「用意しよう」と思ってくれた誰かがいます。

そして、原料を用意してくれた人。
加工してくれた人。組み立ててくれた人。
それを保管してくれた人。運んでくれた人。
売り場を管理する人。売ってくれた人。

世界中の一人ひとりの努力の上に、私たちの幸せがある。

時間を超える「努力」

日本だって、今は豊かでも、戦中・戦後は本当に食べるものもなく、苦労した……と私たちは聞いていますよね。

以前、親しくしていたヨガの先生と雑談していた時のことです。

「私はジャガイモが大好き。毎日でも食べたい」

と言ったら、ちょっと気まずい顔でこう返されました。

「それ、お年寄りの前では、黙ってた方がいいかも。昔は食べるものがなくて、ジャガイモばっかり食べさせられたから、いまだに見たくも聞きたくもない人もいるんだよ」

言われてハッとしました。

確かに、その目線には立っていませんでした……。

私はジャガイモが大好きですが、好んで食べるのと「他に食べるものがないから仕方なく」では全く状況が違いますもんね。後者の状況なら、私も嫌いになっていたかもしれません。

だからといって私がジャガイモへの愛を捨てることはありませんが、そういう感じ方の人がいると知っていれば、相手にぐいぐいとジャガイモをアピールしてしまう前に、慮ることができます。

そんな時代を生きた人がいる。

そしてその人たちが「今よりもたくさんのものが食べられるように」「もっと社会を幸せに」と願って、必死に努力してくれたから、私たちの「今」がある。

幸せの裏にある犠牲

そして、時に私たちの幸せの裏には、やむを得ない「犠牲」をも孕んでいます。

今も、低賃金で働き、自分は食べられないのに高級食材を生産する人たちがいます。

最近高騰しているチョコレートの原料になるカカオだって、農家の方がそれに見合った報酬を得ているわけではありません。

服だって、大量生産するために、どこかの国で一生懸命ミシンに向かって縫製している人がいるんですよね。

例えば、十年以上前に、バングラデシュの縫製工場で痛ましい事件がありました。人命を軽視した無理な操業でビルが崩落。3000名以上の死傷者を出すという事故です。

ファスト・ファッションをめぐる低賃金・過重労働の問題は切り離しづらく、いまだに解消されてはいません。

それなのに私は(もしかしたらあなたも)「なんか縫い方が歪んでる」とか「ボタンのつけ方が甘いから取れたじゃん!」などとプリプリ怒っている訳です。

もしかしたらそれを頑張ったせいで命を危険にさらしたり、そこまで行かずとも、目や手を痛めて苦しんでいる人だっているかもしれません。

そういう風に想像すると、ボタンはもう自分でつけ直すから休んでほしい……とすら思います。

売り場でその服を手に取ろうとする時には、そんな事情は見えません。けれど、歴として、幸せの裏には犠牲が伴うこともあるのが現実です。

苦労しなければ、幸せになる権利はない

こんな風に、みんなの「努力」あるいは「苦労」あるいは「犠牲」の上で幸せになれている私たちだからでしょうか?

「苦労しなければ、幸せになる権利はない」と無意識のうちに感じて、むしろ「苦労しようと」無理してしまうことがありませんか。

私もそうです。

私の幸せの裏に、色んな人の「犠牲」があるんじゃないか。
きっと私は、それに値するほど、誰かの役に立っていない。
私は生きていていいのだろうか?

そこまで思い詰めてしまう夜だってあります。

でも、そもそも、どうして「犠牲」がなければ私たちは幸せになれないのでしょうか?

誰かが苦労したから誰かが幸せになる――

本当は、そんな因果関係はないはずですよね。

理想を考えれば、誰かの犠牲の上で幸せになるより、誰も苦労しなくても幸せな方が、ずっといいはずです。

それは、上に挙げた例のように、誰かの犠牲を踏み台に「幸せ」を目指すということではありません。

楽しく幸せに働いて、誰かが幸せになっていることだって、あるじゃないですか。

そう考えると、問題は「苦労していない」ことではなくて、「苦労を強制する」構造にあるんですよね。

私たちが今、少しでも「幸せだ」と感じられるのは、過去に、そして今もたくさんの人が「もっと幸せに」と頑張ってくれたから。

だとすれば、私たちはそのバトンを受け継いで、もっと先を目指すことができます。

「苦労しなければ、幸せになれない」

時代はもう過去にする。

私たちが次に目指すところは、「幸せに生きて、誰かを幸せにする」ことじゃないでしょうか。

自分なりの幸せを生きる。
その結果として誰かが幸せになる。
誰かを犠牲にしない。
そういう仕組みを目指して、広がるように努力する。

「幸せ」の理由に、苦労を求める必要はないんです。


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