イマジナリーワールド
子どもの頃から、一人遊びが好きだった。
誰かと遊ぶよりも、
自分の頭の中で遊ぶ方が好きだった。
いわゆるイマジナリーフレンドというより、
自分なりのイマジナリーワールドのようなものが
広がっていて、その中で遊んでいた感覚がある。
僕は、小学生のころ学校のサッカークラブに
所属していた。
けれど、練習は好きではなかった。
コーチはいつも厳しく、
周りにはすば抜けてうまい子もいた。
僕自身、チーム内での立ち位置にいつも、
不安が付きまとってばかりだった。
日曜日の練習の後、
同じサッカークラブの友達の家に
そのまま遊びに行ったことがあった。
厳しい練習の後とあって、
僕としては気晴らしになって、
とても楽しく過ごせていた。
けれど、一緒にいた友達から
言われた一言が僕の心に引っかかった。
「練習のときより楽しそうだね。」
それでも、サッカーは嫌いではなかった。
一人公園で、黙々とドリブルとシュートを
繰り返すだけの時間。
傍から見れば、孤独な少年のサッカー練習は
僕にとっては、イマジナリーワールドに
浸っている時間だった。
当時は、自分の頭の中に
空想のチームや選手たちがいた。
そのチームの理想のフォーメーションを
紙に書き出し、
それらの選手に自分の姿を重ねていた。
そして時は経ち、三十代になった僕はまた、
自分自身と向き合いながら、
エッセイを書き溜めていくうちに、
いつのまにか、
イマジナリーワールドに足を踏み入れていた。
それでも、大人になった僕の鼓膜の奥では、
あの頃にはなかった、
現実の声の反響が広がっている。
適応障害になって七ヶ月経っても、
何も変われていない自分。
リワーク施設に通所していても、
無職という社会的肩書きはごまかせない。
過去のエッセイを読み返しても、
同じような話を、手を変え品を変え、
掘り返しているだけにも見える。
これは、エッセイの皮を被った
反芻思考なのではないか、とも訝しんでしまう。
この反響が、外の誰かに聞こえることはない。
僕は、それにとてつもないむなしさを覚える。
外から見える僕の姿はただただ、
黙ったまま突っ立って、
停滞している鈍臭さを漂わせている。
昔から僕の周りの大人たちは、
そんな僕をいつも心配そうに取り囲んでいた。
けれど、僕に向けられる言葉には、
どこか苛立ちのようなものを
感じ取らずにはいられなかった。
「止まってないで、動きなよ」
僕は、そういった雰囲気を感じ取るたび、
ますます手足が硬直していく感覚に襲われた。
ぎこちない僕の身体は、
まるで無縁墓に転がった地蔵のように、
そこに固まっていることしかできなかった。
僕は今日も、
イマジナリーワールドに閉じこもって
エッセイを書き続けている。
あの頃誰もいない公園で
ボールを壁打ちしていたように。
鼓膜の奥で響き続けるものを、
壁に向かって打ち返すように。
